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29話 ソロモン王の知恵とAI。


答えは検索できる。でも、“どう生きるか”は誰が教えてくれる?


分からないことがあれば、検索する。

文章を書きたければ、AIに聞く。

画像を作る。

音楽を作る。

動画を作る。

仕事のアイデアを考える。

旅行の計画を立てる。

悩みを相談する。

今の時代、私たちは、ほんの数秒で大量の「答え」にアクセスできるようになりました。

私自身も、AIを使っています。

音楽。

映像。

文章。

仕事。

アイデア。

今こうして書いているnoteの制作でも、AIの力を借りることがあります。

本当にすごい時代だと思います。

以前なら何時間も、何日もかけて調べていたことが、ほんの一瞬で目の前に現れる。

人類は今、歴史上でもこれまでになかったほど、大量の「知識」にアクセスできる時代を生きているのかもしれません。

でも。

私は時々、思うのです。

私たちは、こんなにたくさんの情報を持っているのに、本当に「賢く」なったのだろうか。

情報は増えた。でも、迷いはなくならなかった。


スマホを開けば、答えがある。

SNSを開けば、誰かの意見がある。

YouTubeを開けば、専門家が語っている。

AIに聞けば、それらしい答えが返ってくる。

でも、

誰を信じればいいのか分からない。

どちらを選べばいいのか分からない。

何が正しいのか分からない。

何のために生きているのか分からない。

そんな人も、決して少なくないように思います。

情報は増えた。

選択肢も増えた。

便利になった。

でも同時に、

比較。

不安。

怒り。

孤独。

依存。

承認欲求。

終わりのない競争。

そうしたものに心を奪われてしまうこともある。

私たちは、もしかすると、

「知らないから迷っている」

のではないのかもしれません。

むしろ、知りすぎているのに、

「何を大切にして生きるのか」


が分からなくなっているのではないでしょうか。

そこで私は、旧約聖書に登場する一人の王を思い出しました。

ダビデ王の子。

ソロモンです。

ソロモン王は、何を願ったのか。


ソロモンが王となった時、神さまは彼に語られました。

「あなたに何を与えようか。願いなさい。」

もし私だったら、何を願うだろう。

一生困らないお金。

成功。

健康。

長生き。

敵に負けない力。

たくさんの人から愛されること。

考えれば、いくらでも出てきます。

でも、ソロモンが求めたものは違いました。

彼は、自分が王として民を正しく治めるために、善と悪を判断できる「聞き分ける心」を求めました。

列王記第一3章。

私は、この祈りがものすごく好きです。

ソロモンは、

「私を一番強い王にしてください」

とは願わなかった。

「世界で一番お金持ちにしてください」

とも願わなかった。

彼が願ったのは、自分に託された人々を正しく導くための知恵でした。

つまり、

自分のためだけの知恵ではなかった。

人を生かすための知恵だったのです。

AIがくれるのは、「知恵」なのだろうか。


ここで、私は現代に戻ります。

AIはすごい。

本当にすごいと思います。

質問すれば答える。

文章をまとめる。

アイデアを出す。

膨大な情報から、必要なものを整理する。

でも、

AIが大量の情報を出してくれることと、

私が「知恵ある人になること」は、

同じではありません。

たとえば、夫婦喧嘩をしたとします。

AIに聞けば、

「相手の話をよく聞きましょう。」

「感情的にならず話し合いましょう。」

と教えてくれるかもしれない。

正しい。

でも、実際に妻の前に立って、自分のプライドを下ろして、

「ごめんなさい。」

と言うのは、私です。

子どもとの関係について、AIはアドバイスをくれるかもしれない。

でも、泣いている子どもを抱きしめるのは、私です。

聖書について質問すれば、AIは聖句を探すこともできる。

でも、その御言葉を信じて生きるのは、私です。

AIは、私の代わりに妻を愛することはできない。

私の代わりに子どもを育てることはできない。

私の代わりに赦すことはできない。

私の代わりに祈ることもできない。

そして、

私の代わりにイエスさまについて行くこともできない。

答えを得ることと、

その答えを生きることは、

同じではないのです。

二人の女性と、一人の赤ちゃん。


ソロモン王の知恵を象徴する、有名な出来事があります。

二人の女性が、王の前にやって来ます。

二人とも、

「この生きている赤ちゃんは、私の子です。」

と主張する。

DNA鑑定はありません。

防犯カメラもありません。

スマホの記録もありません。

AI解析もありません。笑

二人とも、

「私が母親です」

と言っている。

さて、

どうやって本当の母親を見分けるのか。

そこでソロモンは、二人の心が表に現れるような判断をします。

その言葉を聞いた時、

一人の女性の心が動く。

本当の母親は、

自分が母親として認められなくてもいい。

自分のもとに赤ちゃんが戻ってこなくてもいい。

ただ、

この子だけは生きていてほしい。

そう願った。

ソロモンは、その反応を見て、本当の母親を見抜きました。

私は、この物語を読むたびに思います。

ソロモンが見ていたのは、

「どちらが上手に話しているか」

ではなかった。

「どちらが論理的か」

だけでもなかった。

その人の奥にある、

「愛」

を見ていた。

本当の愛は、

自分が得することより、

愛する相手が生きることを願う。

ここに、

知識だけでは届かない領域があるように思うのです。

私たちは、「頭がいい人」を知恵ある人と呼んでいないだろうか。


現代では、

知識が多い人。

話がうまい人。

学歴がある人。

数字を出せる人。

お金を稼げる人。

フォロワーが多い人。

そういう人を見ると、

「この人はすごい」

と思うことがあります。

もちろん、それらは素晴らしいGiftです。

でも、

それだけで「知恵ある人」と言えるのだろうか。

どれだけ知識があっても、

家族を傷つけているなら。

どれだけ成功しても、

自分以外の人を見下しているなら。

どれだけ聖書を知っていても、

人を愛せないなら。

どれだけ正しいことを言っても、

その言葉で人を壊しているなら。

本当にそれは、

知恵なのだろうか。

私は、自分自身にも問いかけます。

正しいことを知っているか。

ではなく、

その正しさを、

愛をもって生きているか。

そして、ソロモン自身も神さまから離れていった。


ここが、ソロモン王の物語のすごく重要なところだと思います。

神さまから驚くほどの知恵を与えられたソロモン。

国は栄えました。

富もありました。

名声もありました。

多くの人々が、彼の知恵を聞くために訪れました。

まさに、

成功。

知識。

権力。

富。

名誉。

人間が欲しがるものを、たくさん持っていた。

でも、

そんなソロモンでさえ、

人生の後半、

心が神さまから離れていってしまいます。

私は以前なら、

「神さまの命令を守らなくなった」

ということだけで読んでいたかもしれません。

でも今は、

もう少し違うようにも感じます。

聖書には、

「神は愛です」

と書かれています。

神さまから離れるということは、

ただルールから外れることではない。

愛の源から離れていくことでもある。

神さまの愛の中にとどまることから離れ、

自分の欲望や、

自分の判断や、

自分が求めるものを中心にして生き始める。

すると、

どれだけ知恵を持っていても、

少しずつ道を見失っていくことがある。

私は、ソロモンの人生から、そこを教えられる気がするのです。

知恵があっても、愛から離れたら。


どれだけ正しいことを知っていても、

愛がなければ、人を傷つけることがある。

どれだけ力があっても、

愛がなければ、その力は自分のために使われてしまう。

どれだけ成功しても、

愛から離れていけば、

隣にいる人が見えなくなることがある。

だから私は思います。

私たちに必要なのは、

一度「正しい答え」を手に入れて終わることではない。

愛の中にとどまり続けること。

神さまと共に歩き続けること。

今日も、

誰の声を聞くのか。

誰について行くのか。

何を愛するのか。

そして、

誰を愛するのか。

知恵とは、

頭の中だけにあるものではなく、

愛をもって生きるために与えられるものなのかもしれません。

もしかすると、現代の問題は「情報不足」ではない。


私たちは、

健康について調べることができる。

人間関係について調べることができる。

お金のことも。

子育ても。

仕事も。

恋愛も。

人生論も。

Buddhaの教えも。

聖書の教えも。

何でも調べることができます。

それでも、

心が満たされないことがある。

私は思います。

人間は、

「情報」だけでは生きられないのではないか。

私たちが必要としているのは、

何を知っているかだけではない。

誰に愛されているのか。

私は誰なのか。

何のために生きるのか。

どこへ向かって生きるのか。

そして、

死の向こうに何があるのか。

そういう、

もっと根本的な問いなのではないでしょうか。

私自身も、答えを探し続けていた。


私も、

ずっと答えを探していました。

本を読みました。

思想を学びました。

Buddhaの教えにも触れ、その弟子として歩んだ時期もありました。

どうすれば苦しみから自由になれるのか。

どうすれば心に平安を持てるのか。

どうすれば、自分という存在を理解できるのか。

知りたかった。

答えが欲しかった。

そして今思えば、

私はずっと「答え」を集めていたのかもしれません。

でも、

私の人生を本当に変えたのは、

新しい思想や、新しい宗教について知った時ではありませんでした。

一人のお方と出会った時でした。

イエス・キリストです。

「ソロモンよりも、まさった者がここにいる。」


新約聖書で、

イエスさまはソロモンについて語られています。

そして、ご自身を指して、

「ソロモンよりもまさった者がここにいる」

と語られました。

私は、この言葉がすごく好きです。

ソロモンは、

知恵の象徴のような王でした。

でも、

ソロモンは完全ではなかった。

迷った。

失敗した。

そして、

愛の源である神さまから心が離れていった。

しかし、

イエス・キリストは、

ただ「もっと賢い先生」として来られたのではありません。

人生に役立つアドバイスを教えるためだけに来られたのでもない。

イエスさまは、

私たちを愛し、

私たちを救うために来られました。

AIは答えをくれる。

ソロモンは知恵を教えてくれる。

でも、イエスさまは「道」になってくださった。


イエスさまは言われました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」

ヨハネの福音書14章6節。

私は、ここに決定的な違いがあると思っています。

イエスさまは、

「正しい道を教えてあげるよ」

だけではなかった。

「わたしが道です」

と言われた。

つまり、

私がイエスさまに出会って知ったのは、

新しい情報の一覧ではありませんでした。

新しい思想を頭に入れることだけでもなかった。

イエスさまというお方について行くこと。

関係の中を歩くこと。

愛され、

愛することを学ぶこと。

そして、

弟子として生きること。

それが、

私が今歩んでいる道です。

そして、知恵では解決できなかったもの。


どれだけ賢くても、

人間には自分で解決できない問題があります。

罪です。

私の中にもありました。

高慢。

怒り。

赦せない心。

自分中心の思い。

人を傷つけたこと。

間違った選択。

ソロモンほどの知恵があっても、

人間は完全にはなれませんでした。

AIがどれだけ進化しても、

私の罪を赦すことはできません。

AIは、

私の過去を消すことはできない。

AIは、

私の代わりに十字架にかかることもできない。

だから、

イエスさまが来られた。

罪のないお方が、

私たちの罪を背負い、

十字架で死なれた。

そして、

三日目によみがえられた。

罪と死に勝利された。

これが、

Good News。

福音です。

イエス・キリストと十字架について、もっと知りたい方へ。


「なぜイエスさまは十字架にかかられたのか。」

「神の子なら、なぜ苦しみを避けなかったのか。」

「十字架と復活が、なぜ私たちの希望なのか。」

こちらの特別編では、イエス・キリストの十字架と、そこに現された神さまの愛について書いています。

【特別編 イエス・キリストと十字架。

なぜ神の子は、苦しみを知りながら従われたのか。十字架の愛が照らす、まことの希望。


AI時代だからこそ、私は祈りたい。


私は、

AIを使うことをやめようとは思いません。

むしろ、

神さまから与えられた知恵をもって、

新しい技術を良いことのために使いたい。

音楽に。

映像に。

仕事に。

人を助けることに。

Good Newsを届けることに。

でも、

AIを私の神にはしたくない。

AIに、

私の人生の王座を渡したくない。

私は、

AIに答えを求めることはあっても、

人生そのものを委ねる相手は、

イエスさまでありたい。

なぜなら、

AIは私についての情報を持つことはできても、

私を造ったお方ではないから。

AIは私の質問に答えることはできても、

私のために十字架にかかってはくれないから。

AIは私に「愛」という言葉を説明できても、

愛そのものではないから。

聖書は、

神は愛であると語ります。

だから私は、

愛の源である神さまから離れず、

その愛の中を歩みたい。

ソロモンが願ったものを、私も願いたい。


神さま。

もっと情報をください。

ではなく。

もっと有名にしてください。

でもなく。

もっと成功させてください。

だけでもなく。

私は、

知恵をくださいと願いたい。

妻を愛する知恵。

子どもを育てる知恵。

人を赦す知恵。

仕事をする知恵。

Giftを正しく使う知恵。

何を選び、

何を手放すのかを見分ける知恵。

そして何より、

あなたの声を聞き分ける心をください。

答えは、検索できる時代になった。


でも、

その答えをどう生きるかは、

検索だけでは決められない。

私たちは、

これからもっと便利な時代を生きるのかもしれない。

もっと速く。

もっと賢く。

もっと効率的に。

もっと多くのことができるようになるのかもしれない。

だからこそ、

私は問い続けたい。

何ができるか。

ではなく、

何のためにするのか。

どれだけ知っているか。

ではなく、

その知識で誰を愛するのか。

どこまでAIが進化するか。

ではなく、

私は誰について行くのか。

ソロモン王は、

知恵を求めました。

そして、

ソロモンよりもまさったお方が、

今も私たちを招いています。

「わたしについて来なさい。」

答えを探し続けていた私が、

最後に出会ったのは、

答えの一覧ではありませんでした。

イエス・キリストでした。

では、「イエスさまについて行く」とは何だろう。


私は、

イエスさまを知りました。

イエスさまを信じました。

救われました。

でも、

そこで物語は終わりではありませんでした。

イエスさまは、

ただ、

「わたしのことを信じてね」

と言われただけではない。

「わたしについて来なさい」

と人々を招かれました。

では、

イエスさまについて行くとは、

実際にどういうことなのでしょうか。

教会へ行くこと?

聖書を読むこと?

祈ること?

良い人になること?

それとも、

もっと別の何かなのか。

そして、

「イエス・キリストを信じる人」と、

「イエス・キリストの弟子」とは、

同じなのでしょうか。

私自身、

Buddhaの弟子から、

キリストの弟子へと歩み始めたからこそ、

次はこのことを、

真正面から考えてみたいと思います。

次回、30話。

「イエス・キリストの弟子とは何か?」

知ることから、

ついて行くことへ。

信じることから、

生きることへ。

そして、

愛された者が、

愛する者へ。

物語は、

まだ続きます。

Buddhaの弟子から、キリストの弟子へ。

痛みは証に。

光は闇に勝つ。

スーパーヒーローはYOU。

Blessings to you.

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