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「姦淫の女」 〜罰は改心に繋がらない〜

最初に言っておくと、僕はキリスト教徒では無いし、聖書を熟読するような勉強熱心でも残念ながら無い。安彦良和氏が描いた『JESUS』で少し齧ってる程度の知識しか持ち合わせてはいません。とは言え、聖書を読んだことがなくとも「姦淫の女」の話くらいは、聞いたことがある人も多いことでしょう。有名な話ですからね。

ある日イエスの元に、律法学者たちが姦淫(不倫)の罪を犯した女を連れて来て、イエスに尋ねた。「律法では姦淫は石打ちにする決まりである。あなたはどうされますか?」と。少し間をおいてイエスは答える。

「あなたがたの内で罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」

ヨハネ8章7節

これを聞いて律法学者や他の者たちも全て去り、女だけが残った。イエスが尋ねた。

「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか」
「誰もいません」
「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」

ヨハネ8章10〜11節

このお話は、単にイエスが律法学者たちの罠をうまくかわす話である以上に、彼が律法の罰による人の矯正、改心に肯定的な立場では無かったことの表れであると、僕は解釈しています。かと言って「赦し」とやらが、確実な改心をもたらすのかは疑問ではありますが、少なくとも彼は刑罰に頼る道を選ばなかった。それは間違いないでしょう。

…翻って現代の我々を顧みますと、なんと罪人と決めた人に石を投げるのが大好きな民族であることか。😅 少しは聖書でも読めって思うのですが、彼らなら「私は罪など犯していない」と平気で石を投げそうで、中々嘆かわしい惨状ではあります。

「姦淫の女」を、罰は真の意味では改心に寄与しないという悟りとして捉えるなら、僕の本命記事『神の妙手』とも繋がる話ではあります。僕の場合は、殺しても悪は死なない、皆でよう話せって結論にはなるんですが。イエス様も似たようなお考えだったんですかねぇ。

法と刑罰を重んじ「こんな悪い奴、殺すしかねぇ」って怒りをSNSに撒き散らす人々に、細やかな一石を投じるつもりで書いてみました。恐怖による一定の抑止効果と憂さ晴らしが刑罰の主目的だなんて、あまりに残念じゃないですか。怒りや悲しみは世の中を改善する力に変えて行かなければ。それが本当の意味で故人に報いることに繋がるのではないでしょうか。人間だから難しい時もありますけどね。そうありたいものです。

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