神の妙手
タイトルを何にしようか、小一時間考えた挙句「そんな悠長な時間などないな」と悟り、やや適当なものを置きました。いずれ編集で変えるかも知れません。
先の記事でも述べましたが、今回は早速、本命のお話をします。流行病などもありましたが、人はいつ死ぬかなんて分かりません。出し惜しみする余裕など、僕の人生にはありませんから。
不味い方向に突き進む世界
子供の頃、両親が離婚し家庭環境も変化し、そんな影響もあって、あの当時、僕が感じた心の引っかかりとは、酷く漠然とした将来への不安、下手すると「国や人類レベルでこのままじゃダメそうだ」という直感にも似た感覚でした。
僕は性格的にも自信家とは程遠く、子供だから経験も当然浅い。
この不安には根拠が無い。確信など一切無い、子供の小さな引っかかりに過ぎない。だけど、心の中から消えることは決して無かった。
日常で見かける自身の小さな悪意にも、世界の不完全さを垣間見た故かも知れません。
世界がどうであれ、自分はどうなって欲しいのだろう?どんな世界が望みなのか。学校で1人、空を眺めてぼうっと考えていた時期があった気がします。
『平和』
自分が欲しいものは、この言葉で概ね表せそうに感じました。
穏やかでのんびりしたイメージ。それが幸せに繋がっている様に思えたのです。
だから僕にとって重要なのは、世界の今の方向性が平和に続いているのか、それとも逆に遠ざかっているのかでした。
世の中には、いじめもあれば自殺もあり、陰惨な事件もあれば戦争もある様でした。
そしてそれらは、決して無くならない様に見えました。社会はそれらを許容して運営されているのだと、大人になって気付いた様に思います。
大人は日々働くことに忙しく、その忙しさは子供たちの学業にも地続きで影響して見えました。立ち止まって考える人は稀に見えました。
「それは政治家の考えることだ」と誰かが言うでしょうが、選挙や派閥争いに忙しい彼等に、現在の方向性を疑問視したり、否定したりする思慮深さを期待するのは無駄に思えました。その様な頼れる人物が、政治家の中にいれば、それが1番良かったのですが。
大人の誰もが未来への責任を負わない社会で、平和は遠ざかって行ってるのだと、うっすらと確信していた様に思います。
彷徨った果てに見えてきたもの
何事も、結果があれば原因があります。
平和とは真逆に突き進む現在という結果は、何らかの原因に起因するもののはずです。
‥はずですが、これが簡単には辿り付かなかった。まあ歴史上の名だたる天才が辿り着いていないのですから、土台無理もない話です。
それでも、優秀でないはずの自分がなぜ辿り着いたのかと自問するなら、それは40年近くの間、忘却することなくこの引っかかりと向き合い続けてきた結果でしょう。
よりはっきりと理解できたのはここ数年のことです。
まずこの原因を追求するには、世の中が何で出来ているかを考えなければなりません。
平和かどうかというのは世の中の状態のことであり、世の中を作り出すものの解明無くして、世の中の状態の原因には辿り着けません。
「今の景色は過去の誰かの心の投影」。僕はそんな風に考えています。
今ある家もビルも街並みも、過去に誰かが思い描いた願望の結実です。我々はそれを見ています。
人は心の生き物であり、それが世の中という現実に反映され、形作られます。
であるなら、当然、平和かどうかの原因も、人の心にあるのは明らかです。
「○兵器があるから戦争が起こるんだ!」なんて単純なロジックでもないし、現在の特定の誰かや国家、社会構造に原因を探そうと試みても、真の原因には至れません。
我々は歴史に多くの戦争を見ることが出来ます。であるなら、平和を遠ざける原因は遥か昔から存在していたことになります。原因を探るなら今に囚われ過ぎず、心の本質を見つめる必要があります。
平和を遠ざける悪はどこから来たのか?
僕の望みは平和なわけですから、それを奪う存在は、敵であり悪とも言えるかも知れません。世界が善で満ちているなら、世の中は平和そのものでしょうから。
悪は自然現象ではないし、宇宙人がもたらすものでもない。人間が生み出すものです。人は心の生き物と先に述べましたから、悪が人の心から生まれるのは明白です。
少しまとめると、平和は世の中の状態であり、その世の中は人の心の投影であり、人の心から悪が生まれ、投影され、世の中を平和な状態から遠ざけていると解くことが出来ます。まあ反論もあるかも知れませんが、僕はこう解きます。
つまり平和を手に入れたかったら、なぜ人の心から悪が生まれるのかを考えなければならないという事です。悪が生まれるプロセスを考えてみましょう。勿論、これは僕独自の見解、結論です。教科書に載っているわけではありません。
僕は確信していますが、あくまで一個人の意見として読んで下さい。
心って何でしょうか?
何を唐突に、と思われるでしょうが、ここは丁寧に紐解かねばなりません。
色んな意見が聞けそうな問いですが、僕は「思い」が生まれるところと考えます。
誰かを好きになったり、何かを欲しがったり、急に走ってみたくなったり、嫉妬したり、褒められたくなったり、平和を願ったり。願望と言い換えても良いかも知れませんが、つまりは人を行動に駆り立てる原動力となるものです。
人が心の生き物である以上、誰もが心の内から生み出される思い(願望)を持っており、例外はありません。
夢、願望、やりたいこと。叶えられる人もいるし、叶わぬ人もいます。
叶えられれば、その人は満足できますし、世の中にポジティブな影響を与えることもあります。‥まあ、競争社会では誰かの成功が誰かの挫折であったりしますから、ポジティブとは限らないというツッコミは甘んじて受けます。
僕がここで特に指摘したいのは、願望がすんなりとは成就しなかった場合です。
思い通りに行かない人生。
すんなりと諦められる思いなら問題ないのです。ですが、強い思いはそう簡単には消えません。消えずに残る、叶えられない思いはどこに向かうのでしょうか?
思いの通らぬ人生は、フラストレーションとして心を苦しめ、やがて歪ませます。
最初は怒りっぽくなるとか、小さな変化かも知れませんが、やがては願望のために手段を選ばなくなって行きます。他人を、社会を害しても構わないと考える様になります。目的さえ果たせるのなら。
少なくとも僕の目から見れば、その心はもはや「悪」です。
平和を世界から遠ざけてしまうものです。
思いは叶えば個人の満足や充足、社会への貢献や成長・発展にも繋がりますが、叶わなければ心を歪ませ悪が生まれる。この仕組みを理解しておく必要があります。
悪は成就しない思いから生まれるものなのです。
現代ではいくらでも例外的な悪を提示できますが、あくまで元はどこから来たのかという追求の答えであり、最も基本的な悪の発生プロセスの明示です。悪も人類の歴史に根ざして長いですから、その形態も複雑化していることでしょう。であるからこそ、より根っこの基本的な仕組みを知ることが重要になってきます。
悪を断つなら根からです。枝葉を切っても解決には繋がりません。
平和へ至る道
心が悪に染まる基本的な過程は「思いが成就しなかったこと」と理解を得ました。
そうならないために、じゃあ全ての思いを叶えさせれば良いのかと問われれば、それは無理です。世の中にとっては、最初から害になる願望というものも存在しますし、害にはならないけど、費用や人員などが膨大にかかったり、賛同が得にくく、達成難易度の高いものも存在します。
ですが、人の思いの過程から悪が発生するのであれば、当然、これは看過できない問題です。その夢は難しいから諦めろ、では悪の発生を放置する結果になるだけです。
ここで少々の知恵が必要になります。
何でも自己解決できるなら、周りに迷惑もかからず万事良さそうですが、実際の人生においては、個人では解決できない様々な問題に直面するものです。そんな時は、誰かの助けが必要になります。
他者の助けによって成就できる思いもあるでしょう。勿論、大抵はそう簡単には行かないはずです。ですが、成就はできずとも「寄り添ってあげる」という事が、思いにとってどれ程救いになるかという事を、我々は深く理解しなくてはならないのではないか、と僕は考えます。
人は抱え込んでる悩みを誰かに打ち明け、共有できるだけであっても、心が軽くなるものです。例え、達成や明確な解決にすぐには至れなかったとしても、寄り添ってくれ人がいるというのは、暖かく心強いものです。それは心が歪むことから我々を遠ざけてくれます。
悪は誰の心にも芽生え得ます。であるなら、「誰も取りこぼさない社会」というものが正しく必要なのです。
悪を生み出さないために、自分の、他者の思いに向き合う。これを社会を運営する上での至上の命題として位置付け、システムの再構築を図る。
僕の導き出した、人類が平和へと至るための答えはこれです。
そして、恐らく唯一無二のものです。
心の仕組み
ここまでの考えに至った上で、少し俯瞰して洞察すると、心というものの仕組みも、より見えてきた様に思えます。勿論、それは僕の今のレベルにおいての結論ですが。
人類は物質的・精神的に成長、進化、発展を続ける生き物なのだと、僕は捉えます。
子供の頃は、「大人とは何だろう?どうすればなれるのかな?」などとよく考えたものです。僕には、男としての最初の指標になるべき父親が不在でしたから、余計に気掛かりだったのでしょう。
思いは人間の原動力であり、即ち成長の原動力とも言えます。
僕はこう考えます。人の思いはうまく消化(成就)できれば、その個人は満足や成長を得られ、かつ人類の成長、進化、発展に貢献し得る可能性を持つが、逆に未消化(挫折)に終われば心が歪み、悪が芽生えてしまう。
僕は最初から変わった人間なので、こんな風にも考えてしまいます。
悪とは、人間に備わった成長、進化、発展のシステムの不具合であり、それは社会全体の「痛み」によって周知されようと自然に働くのではないか、と。人間同士の争いや犯罪は、言わばシステムエラーが起きている事の警鐘です。
勿論、何か根拠があって言ってるのではないのですが。直感ですかね。
でもまあ、そんな遠大なシステムがあると考えると面白いでしょ?😁
我々は、宇宙に存在する様々なルールを学び取り、文明の発展に利用してきました。人の心にも何らかのルールが隠されていると考える事は、そんなに不思議なことと僕は思いません。
誰も取りこぼさない社会システムとは
では悪を生み出さない、誰も取りこぼさない社会とはどの様なものでしょうか。ここでは、社会の再構築に至る価値観の醸成に関しては省きます。僕は社会的地位も無いし、即効性のある提案は何も出来ませんから。
まあ簡単に言って仕舞えば、それはよく話し合える社会という事です。
自分の気持ちに向き合うことは個人で出来る事ですが、他者の気持ちと向き合うとなると、様々なアプローチが考えられます。一部のライバーが行っている様な、インターネットを介した相談のやり方も当然あり得ますし、直接、示し合わせてファミレスやコーヒーショップで会談することも選択肢としてあり得るでしょう。公共の施設の様に専用の喫茶店やバーを設け、駆け込み所の様に利用して貰うやり方も有りかなと考えます。
勿論、これは漫然と行うものではありません。言わば国家プロジェクトライクな位置付けのものです。国家の主軸です。成就は発展へ、挫折の放置は苦痛と滅びへ。主軸に据える十分な理由です。当然、個々の抱えていた問題や相談の過程、解決策はデータ化され、インターネットを介し可能な限り共有されます。
共有されることで全体の成長の促進に繋げることが狙いです。
もの凄く漠然とした表現になるかも知れませんが、かつての村コミュニティにあったものを、現代的に再構築してみる試み、と言えばわかり易いのかも知れません。個人主義でバラバラになった人間同士をどう繋げていくか。お金を介さずとも。最終的にこの繋がりは国を超えるでしょうし、規模は桁違いですが。
言いたい事も言えないこんな世の中は
その様な社会を構築する上で、当然避けて通れないのが何でも言える社会への移行ではないでしょうか?
これは先に省いた価値観の醸成ともリンクする話になりますが、要は何でも相談できる土壌が、社会の側にあるのかという問題です。
特に問題になって来るのが、この国固有と言って良い「恥の文化」です。
社会規範を形作る一定の役割はありましたが、同時に本当の気持ちを隠す生き方を助長してしまい、気持ちを吐露する環境を失わせている様にも感じます。
少し恥ずかしいとされる願望や、誰かにとって迷惑・損になりそうな願望は話し難いものです。どんな嘲笑や好奇の目に晒され、痛い目を見るかわからないのですから。
ですが、それでは思いの取りこぼしに繋がり、悪の芽生えを抑止できません。何でも相談できる社会とは、誰しも許容され、どの様な未熟さも優しく包み込む暖かい、成熟した社会です。
心が社会に及ぼす影響の重要性に気付いたなら、我々それまでの文化の見直しを行っていくべきなのでしょう。人を黙らせる正義などこの世には存在しないのです。それは幻想です。人の思いは世の中の圧力で消えたりはしないから。それが答えです。
終わりに
世の中は平和から遠ざかっている。人の思いに向き合う社会にして行こう!
そう冒頭で書いたら、多くの方が「学校の教室に貼られてる標語」程度の認識にしか至らなかったでしょう。ですが、ここまで読んで下さった方なら、全く異なる認識を得るのではないでしょうか。
成長とは、一面的には解像度が上がることだと僕は考えます。
もし解像度が上がったと感じたのなら、それは自分が少し成長したのだと考えても良いのではないでしょうか。
多くの人にとって、この記事がそんな学びと成長の機会であれば良いのですが。そう願っています。
人類も歴史が長く、同時にこの思いのシステムエラーも長く続いていますから、人類にしっかりと根ざしていることでしょう。僕に言わせれば、今の世の中は悪極まった世です。ブッダは「末法の世」なんて危惧したらしいですが、それと似たものかも知れませんね。僕は「金と嘘の世」なんて言ったりもしてますが。
多くの日本人が、偽りの平和の上に胡座をかいて見えますが、案外、今の我々は滅びの手前まで来ているのかも知れませんよ?国際貿易で富を得ながら、他国の問題には我関せず、自己責任論で押し通り、殻に閉じこもって対岸の火事を決め込む。
「銃を売ったら、その銃は国の圧政に利用されるかも知れない」
別に、日本が武器輸出国だと言いたいわけではありません。国際社会で積極的に稼ぐなら、その活動が他国の人々の生活に何の影響も与えていないと考えるのは無理がありますし、その事に無責任を決め込むのは悪徳ではないか、と言いたいだけです。
勿論、日本人も同様に多大な影響は受けているでしょう。
多く日本人の、他国や自国の将来、人類全体の未来に対するある種の無責任さが、直接、庶民生活の苦しさとなって今現れている様にも見えます。戦後80年間、平和のための厳かな式典を、毎年開いて祈り続けても、世界で戦争は起き続けました。大人社会に漂う、無自覚とも見える無責任さが、その罪が、いつかこの国の首元を直接締め上げに来るのではないか。僕はそのことを強く懸念します。
この記事は、確かに世の中に変わってもらいたい。良くなって欲しいという僕の願いが込められてはいますが、それはとても難しいことでしょう。
多くの人々は、思春期の頃にはもう「世の中に合わせて自分をカスタマイズさせる」という作業に入っており、年齢を重ねる程強化され、後戻りできません。今ある、築き上げてきた地位、その信念において他者に行った数々のこと。その全てが捨てられず、今更間違いだった事には出来ない。彼らの多くが、僕のこの考えを、仮に正しいと認識できたとしても、実際は受け入れを拒否するのではないでしょうか。彼らは行動には移らないでしょうし、むしろこの考えを排除する側に回るはずです。
だからと言って、この記事を書く僕の行動に、何の意味もないわけではありません。
多くの大人たちが自分たちの責任に目を向けず、何とか自分だけ逃げ切れれば良いと考えていたとしても、まだ10歳にも満たぬ子供たち、これから生まれてくる子供たちはそうは行かないからです。文字通り、これからの未来を生きるのは彼らですから。
何にも明るい事が待っていない未来なんて、彼らは嫌なはずです。
ですから、彼らは違う価値観で動き始めるはずです。僕の役割は、まだ幼く経験の浅い彼らに、戦うための武器を手渡す事なのでしょう。彼らは早々に戦う術を学びます。どうすれば世の中が良くなっていくのか、平和に向かって行けるのかを。そのために何をすべきかはここに書き記しました。
人類から生み出された悪は、ずっとノーダメージでした。RPG風に言うなら、ラスボスは毛筋程のダメージも負ってはいません。我々は負わせてない。どころか、悪の勢力は膨れ上がるばかりでした。罪人の首を斬る事に、鬱憤晴らし以上の意味などありません。この辺は、いずれ別の機会に詳しく語るつもりです。
我々が、心の生き物である基本に立ち返り、社会を再構築させ、思いを滞りなく消化して行く事が出来れば、悪の再生産はストップし、精神的な成長が同時に促され、それが悪にとってのダメージとなるのです。人の善なる成長の光で、悪は少しづつ消えるのです。
根拠なんて提示できませんよ?ただ他に道はないと確信しています。
悪を失くして平和な未来を手繰り寄せる唯一の道。多くの方々の共感を得られれば良いのですが。僕もまだまだ成長の途中。言葉足らずもあるでしょうが、取り急ぎ、要点をわかり易くしたためたつもりです。
少しは肩の荷も降ろせただろうか。
タイトルの通り、この閃きが「神の妙手の如き」と称されるほど、立派なものであってくれれば良いのですが。
最後まで読んで下さり感謝です。
言いたいことはまだまだありますから、良ければお付き合い下さい。
