説明しない、という選択を覚えた日
「伝える」ということの難しさを、
私は知っているはずだった。
言葉を尽くせば、誠実は届くと信じていた。
説明を重ねれば、誤解は解けると疑わなかった。
けれど、現実は時として、
私の熱意をそっと裏切る。
それは、家庭という小さな器の中でも、
仕事という大きなうねりの中でも、
驚くほどよく似た景色として現れる。
小1の娘に
勉強を教えていたときのことだった。
きっと理解の助けになると思って、
言葉を足して、例えを足して、
別の角度からも説明してみる。
理解してほしくて。
困らないようにと思って。
でも、娘は言った。
「静かにして」
少し驚いて、口を閉じた。
そのとき初めて、
私は、理解を助けているつもりで、
理解の余白を
埋めてしまっていたのかもしれない、と思った。
説明は、理解そのものではない。
説明は、あくまで外側にあるものだ。
それは材料にはなるけれど、
理解そのものを渡すことはできない。
理解は、本人の中でしか起きない。
どれだけ言葉を重ねても、
その境界線のこちら側にあるのは、
ただの情報でしかない。
境界線を越える瞬間は、
本人の内側でしか起きない。
外側の人間にできるのは、
整えること。
ヒントを置くこと。
そして、待つこと。
それだけだった。
この感覚は、
仕事の中でも思い当たることがあった。
人に教える場面で、
つまずいている場所は、なんとなくわかる。
だから、そこまでは伝える。
でも、その先までは踏み込まない。
踏み込めば、きっと早く進める。
迷わずに済むかもしれない。
それでも、踏み込まない。
それは理解ではなく、
ただの模倣になってしまうからだ。
本人が越えるはずだった境界線を、
こちらが代わりに越えてしまうことになる。
それは、前に進んだように見えて、
本当の意味では進んでいないのかもしれない。
教育する側にいると、不安になることがある。
説明が足りないのではないか。
伝わっていないのではないか。
だから、説明を足す。
でも、される側にとって必要なのは、
説明そのものではなく、
自分で気づくための、
静かな時間だったりする。
外側の声が止まったとき、
はじめて、
自分の内側の声が聞こえることがある。
教育とは、
知識を渡すことではないのかもしれない。
越えるための余白を、残すこと。
手を引いて連れていくことではなく、
手を離すタイミングを知ること。
あの日、娘に
「静かにして」
と言われたことで、
私は、説明しないという選択を覚えた。
それは何かを放棄したのではなく、
相手の中にある力を、
信じるということだった。
そしてその感覚は、
子どもに対しても、
仕事の中で誰かと向き合うときも、
同じ形をしているように思う。
理解は、外から与えられるものではない。
内側で起きるのを、
ただ、待つものなのだと思う。
▶︎説明しない、と決めるまでのうるさい方の話
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