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『キルケーの魔女』と『オデュッセイア』における ν(ニュー)と Ξ(クスィー)。

(『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』の軽いネタバレを含む。)


ガンダムと古代ギリシャ文学。

ペーネロペーの中身は、オデュッセウスガンダム。
アリュゼウスの中身は、量産型νガンダム。
Ξガンダムは一体型で顔が似ないが、映画では ―― 。

『キルケーの魔女』でνガンダムを出さなければいけなかった理由は、たぶん設定以上に、一連のガンダム命名の元ネタにある。

原典たる古代ギリシャの叙事詩では、オデュッセウスの妻がペーネロペーで、ペーネロペーの兄弟がアリュゼウス。

そしてオデュッセウスと「ν(ニュー、大文字はΝ)」の関係も興味深い。
オデュッセウスの波乱万丈な冒険物語では、その重要な要素が、いずれもこの「ν」から始まるからだ。

『オデュッセイア』における ν(ニュー)。

まず、物語を貫く最大のテーマが「帰還」すなわちノストスνόστος)。
これは現代語ノスタルジーの語源だが、単なる望郷の念ではない。

J.D.ティエポロ描く、トロイの木馬。
これを考え、乗り込んだ英雄がオデュッセウスだ。
ガンダムにおいては、ブライト・ノアが率いるホワイトベースが、シャアから木馬と呼ばれた。
ブライトの息子が、『閃光のハサウェイ』の主人公となる。

オデュッセウスはイタケ島の王で智将。
狂気を装って出征を回避しようとするが、結局トロイア戦争に参加する。
トロイの木馬作戦を考案し、みずから木馬に乗り込み、10年かけた戦争に勝利するが、すぐには帰国できない。
異形の怪物や神々の怒りに翻弄されながらも、尊厳を取り戻すため、さらに10年かけて故郷を目指して旅をする。

これが世界最古の文学作品のひとつ、ホメロス『オデュッセイア』という物語だ。
トロイ戦争の群像劇が『イーリアス』。そのスピンオフ的続編としてのオデュッセウスの旅が『オデュッセイア』となっている。
ノストスという単語は、オデュッセウスの帰郷への執念を象徴しているが、ガンダムでは、地球に対する思い ―― 意訳するなら「ノストス=重力に引かれた魂」だろうか。ν にはこの含意がある。

オデュッセイアに現れるキルケーの魔女とは、ニュンペー(Νύμφη)でありこれも ν で始まる。英語ではニンフ(Nymph)、精霊や妖精と訳されることの方が多い。
旅の中盤、キルケーに教わった方法でオデュッセウスが挑む、最難の精神的試練が、生きたまま死者の国へと足を踏み入れるネキュイア(νέκυια)、すなわち「冥界下り」。これも ν。
彼はここで、預言者テイレシアスの霊や亡き母・亡き戦友たちと対話し、自らの運命と帰還への術を知ることになる(ハサウェイも、亡きクエス、アムロ、シャアの記憶と対峙する)。一度死の世界を潜り抜けるというこのプロセスを経て、彼は単なる漂流者から、真の英知を備えた英雄へと脱皮を遂げる。

アリュゼウスの中から現れた量産型νガンダム(とはいえおそらく現存はこの1機のみ)に、ハサウェイはアムロの幻影を見る。
L.セガーリャ・イ・エストレーリャの描く、オデュッセウスと預言者テイレシアス。
ギギ・アンダルシアは、ハサウェイにとって魔女キルケーと預言者テイレシアスを合わせた複合的な役割を果たす。

そして、満身創痍の彼が最後に辿り着いた島で救いの手を差し伸べたのが、王女ナウシカアΝαυσικάα、『風の谷のナウシカ』の名の由来)だ。
彼女は嵐で全てを失った見ず知らずの男を恐れることなく迎え入れ、父王を説得して故郷へ帰るための船を与える。

ハサウェイにとってのナウシカアは、ずっとハサを支え続け、しかし不法滞在者ゆえに結婚できなかったケリア・デースだろう。
ふたりに限らず、関わる女たちことごとくの脳を、魔性の男ハサウェイは灼いてしまう。

『オデュッセイア』における Ξ(クスィー)。

次作では再び、Ξとペーネロペーの兄弟機対決となる。

Ξガンダムは、νガンダムとアムロの呪縛を破り、ギギを乗せ、次回作で再びペーネロペー/オデュッセウスガンダムと対峙することになる。

Ξ(クスィー、クシー、小文字ξ)は、順番で言えばνの次にあたる文字であり、『オデュッセイア』の中では、最重要の概念

  • クセノスξένος、見知らぬ客人・旅人

  • クセニアξενία、見知らぬ客人を歓待せよという倫理

  • クセニオスΞένιος、客人と旅人の守護神としてのゼウス

の頭文字として現れる。

旅の途中に出会う敵対者たちは、クセニアの倫理を破りクセノスつまり客人に害をなすクセニオス=ゼウスはそれに怒って雷を呼びオデュッセウスが敵対者たちを打ち負かす

J.ヨルダーンスの描く、ポリュフェモスの洞窟のオデュッセウス。
巨人ポリュフェモスは、客人を食おうとする。

魔女キルケーもまたクセニアを破る敵対者のひとりとして登場する。客人オデュッセウスたちを魔術で豚に変えるが、オデュッセウスだけはヘルメス神に教わった回避策で防ぎ、逆にキルケーを追い詰める。
キルケーは許しを請い、仲間たちを人間に戻し、ついでにちょっとイケメンにしてやる。
そして改めてクセニアの倫理に従って、彼らを客人としてもてなし、死者の霊と交信する方法を教え、1年ともに過ごして、オデュッセウスの子どもまで授かる。

J.B.トロッティが描いた、オデュッセウスの仲間を人間の姿に戻すキルケー。

逆に、王女ナウシカアの一族は、クセニアを守る。
見知らぬ旅人オデュッセウスを温かく迎え入れ、故郷へと送り返す

M.-C.-G.グレールが描いた、海岸に漂着したオデュッセウスと、歓待するナウシカア。

オデュッセウスは故郷に戻っても、あえて惨めな乞食の姿に変装し、正体を隠したままクセノスとして自分の家に潜り込む
ペーネロペーには求婚者たちが押し寄せている。オデュッセウスはそれを監視しつつ、自分の家族や召使いたちが、正体のわからない弱者に対しクセニアの倫理を守るか試す。

イタケー島の求婚者たちと、ハウンゼンの閣僚たち。

この『オデュッセイア』のクライマックスの場面が、『閃光のハサウェイ』では反転して冒頭、映画で言うと前作に来ている。

J.W.ウォーターハウスの描く、ペーネロペーと求婚者たち。

特権階級だったハサウェイが、故郷である地球を目指しつつ、弱者(ケリアを始めとする不法地球居住者)に対する閣僚たちの行いを観察するために、敢えて超高級シャトル、ハウンゼン356便に潜入する。

ハウンゼンに同乗していた閣僚たちは、まさにオデュッセウスの留守中に彼の家を食い潰していた求婚者たちの投影だ。閣僚たちはクセニアの倫理も欠き不法滞在者を弾圧しながら、地球という「家」を汚している。
だからマフティーが、クセニオスとして空から彼らに雷よろしく鉄槌を下す。
その前に、ギギは「あなたが神になればいい」と囁いていた。

Ξガンダム自体も、正体を隠したまま地球に降りており、その意味でハサウェイのまさしく分身である。

しかし、ハサウェイが地球に帰れるのは自身も特権階級だからだ。
お坊ちゃん革命家は、トラウマだけでなく、身の内の矛盾に苦しみ、行き詰まる。


人類が地球に帰ることができない/許されない時代の、悩める英雄ハサウェイ・ノア。
この倫理的命題は、もうひとつのレイヤーである『カラマーゾフの兄弟』に引き継がれ、より深く問われる。


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