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『閃光のハサウェイ』は宇宙世紀を『カラマーゾフの兄弟』で終わらせるはずだった。

『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』が公開された。
前作『閃光のハサウェイ』同様、予想通りの高品質な絵作り・声・音響。まるで洋画のような、しっとりとした大人向けの話運びだった。

しかし『閃光のハサウェイ』とはそもそもどういう作品なのか?
ネタバレを避け、1mmもガンダム知らないミリしら勢にもわかるよう、書いておこう。


古代の構図に倫理を組み込んだ閃ハサ。

当初ガンダムとは、男たちが武器と女を奪い合い、殺し合うという、SFながら古代そのものの物語だった。
初代、いわゆるファーストの『機動戦士ガンダム(1979-80放送)』も、『機動戦士Zガンダム(同1985)』も、映画『逆襲のシャア(1988)』も、力の象徴としてモビルスーツと呼ばれる人型兵器が描かれるが、あくまで主眼は武器と女を巡る男たちの鞘当てにあった。

この古代の物語構造に、ロシア文学の最高峰として名高い、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟(1880)』を組み込んで、暴力が最終的な勝利をもたらさない結末」を示したのが、富野由悠季による小説『閃光のハサウェイ(1989)』だ。

厳密に言えば、映画版『逆襲のシャア(1988)』の続編が、映画『閃光のハサウェイ(2021~)』3部作であり、『キルケーの魔女』はその2作目。
逆シャアのシナリオ第1稿を元にした小説『ベルトーチカ・チルドレン(1988)』の続編が、小説『閃光のハサウェイ(1989)』である。

小説版『閃光のハサウェイ』は、富野の小説では最もすぐれ、富野の情念を最も刻み込んでいるにも関わらず、Gジェネでドラマ化されるまで、広く知られてはいなかった。
それは、本作が『カラマーゾフの兄弟』を踏まえて十分読まれてこなかったからでもあるだろう。

富野は、この作品の中で女に「男たちの矛盾する欲望をあばく鏡」を持たせ、男たちには自分の主義主張と矛盾する欲望を発見させ、葛藤させた。
ネタバレにならない範囲で、もう少し掘り下げてみよう。


『カラマーゾフ』と『閃ハサ』の照応。

① 女の役割:誘惑者ではなく「鏡」。

『カラマーゾフの兄弟』では

  • グルーシェンカは金と愛をちらつかせて呼び出し、ドミートリの暴力衝動を露わにする。

  • イワンに対しても態度を変え、イワンの動揺と自己嫌悪を表面化させる。

  • 女は、グルーシェンカを筆頭に、男を積極的に破滅させる存在ではない。

  • 男たちが、自分の欲望・自分の卑しさ・自分の暴力衝動を勝手に投影し、自分で壊れる。

  • 女は「欲望を照らす鏡」に過ぎない。

『閃光のハサウェイ』では

  • キルケーの魔女=ギギ・アンダルシアは、ハサウェイとケネス双方と親密に行動する。

  • ギギは、男たちを計画的に操る悪女ではない。

  • メイスやケリアは、自分なりに男たちを支えようとする。

  • ハサウェイやケネスが、理念と欲望のズレ、正義と所有欲の矛盾を、彼女たちの存在によって自ら露呈させる

  • ギギは男の内にある矛盾を行為として可視化する。

いずれも、「女が男を堕とす」のではなく、
男が女を通して自分を暴く」。

ちなみに、ギギは昨年同じ声優・上田麗奈が演じた『チェンソーマン』のレゼとは、構造的にも倫理的にも明確に異なるキャラクターだ。
レゼが「男を欺き破壊することを意図して近づき、自分を欺いて破壊される主体的なファム・ファタール」であるのに対し、ギギは「男が自分で壊れていく過程を映す鏡」である。

ギギ自身はファム・ファタールではない
むしろハサウェイがオム・ファタールなのだ。
ここを読み誤ると、上田麗奈の折角の演じ分けを受け取れず、『キルケーの魔女』を薄っぺらい物語として消費してしまう。

画面を見ていればわかる。

肉欲に悩むハサウェイを尻目に、彼がイマカノと別れたかどうか、食堂で盛り上がる女子たち。
これ見よがしに丸坊主にするケリア。
ハサ来たら声出て一緒にエレベータ乗って飲み物渡すミヘッシャ。
クールぶってたのに、ハサ来た途端に前髪気にするハーラ。
ハサの乗ってたメッサーもらってハシャぎ、絶対譲らないエメラルダ。
裸エプロン(小説版では確かエプロンなし)でコクピット乗り込んでメンテするジュリア。
「幸運の船」を見捨ててコクピットに忍び込むフォーチュンもだ。

壊れかけの天才ゆえの魔性か、クエスを奪ったシャアのようになりたい、という無意識の歪んだ憧れか。
ハサウェイはいつも独断で行動し、周囲まで狂わせる。
その妖しい才能は、『キルケーの魔女』で完全開花した。
希代のオム・ファタール、ここにあり。

「愛人」と自分を卑下し、伯爵の性的消費に耐えつつ、内装デザイナーとして仕事をこなしていたギギまでもが、「私、死にに行くのかもしれません」とダバオに戻ってしまう。
ギギはハサウェイに情緒をおかしくされた内のひとり。
そしてもっとも純粋な鏡として、ハサウェイの苦悩を映し出してしまう。


② 男の役割:大義と欲望の分裂。

『カラマーゾフの兄弟』では

  • ドミートリ・カラマーゾフは、父を憎みながら金を求めて父の家に向かい、暴力沙汰を起こす。

  • イワン・カラマーゾフは、神と道徳を否定する思想を語るが、スメルジャコフに思想的影響を与えたことを自覚し崩壊する。

  • 男たちは、崇高な思想、正義、理性を語る。

  • しかし同時に、それと両立しない欲望・暴力衝動・嫉妬・所有欲を抱えている。

  • その矛盾そのものが悲劇を生む。

『閃光のハサウェイ』では

  • ハサウェイはかつてのシャア同様、地球を守る、圧政に抗う、という理念を掲げる。

  • しかし、肉欲・嫉妬・救済されたい欲望を切り捨てられない。

  • シャアに従い自分を庇って死んだ少女、クェスの呪縛に囚われている。

  • ケネスも職務と私的感情を混線させる。

  • その矛盾を、モビルスーツ=暴力で解決しようとして悲劇を招く。

いずれも、正義ゆえの悲劇が起きる。
矛盾の自覚が、人を救ってれるわけではないのが、カラマーゾフと閃ハサに共通の、苦く大人向けである所以だ。


③ 前提:武器・暴力では解決しない。

『カラマーゾフの兄弟』では

  • スメルジャコフは、父フョードルを殺害するが、自殺し真相は救済されない。

  • 暴力は、問題を解決しない。

  • 殺しは、勝利でも、救済でも、正当化でもない。

  • 残るのは「責任」だけ。

『閃光のハサウェイ』では

  • モビルスーツは、力の象徴として表れる。

  • だが『逆襲のシャア』と正反対に、世界を変えず、理念を証明せず、何も救わない。

  • ハサウェイはΞ(クスィー)ガンダムを操り、部下を率い、市街地を含む戦闘で多数を死傷させる。

  • しかし、地球連邦体制は崩壊せず、マフティーの理念も実現しない。

  • 残るのは、引き金を引いた事実と、その責任だけ。

どちらの作品での位置づけも、同じ。
暴力は最終解ではない勝っても何も終わらない
ガンダムに酔う人々に、富野由悠季はこの結論を突き付けている。


④ 結末の思想:勝利ではなく「引き受け」。

『カラマーゾフの兄弟』では

  • ドミートリは無実でありながら、父殺しの罪で有罪となる。

  • 逃亡の可能性を示されても、罪を引き受ける。

  • 物語は、明確な勝者を生まない。

  • どう正しかったかではなく、何を引き受けるかが問われる。

『閃光のハサウェイ』では

  • ハサウェイは、勝たず、理念を完成させず、世界を救わない。

  • 父を欺いたまま有罪となる。

  • 自分の行為の結果から逃げず、従容として責任を受け入れる

いずれも、英雄譚の否定だ。


⑤ 物語全体が投げかける問い。

『カラマーゾフの兄弟』では

  • イワンは「神なき世界ではすべてが許される」と語る。

  • しかしその思想の帰結に耐えきれず精神崩壊する。

  • 人間は、神・理性・権威・暴力なしで生きられるのか?

『閃光のハサウェイ』では

  • 人間は、モビルスーツとそれが象徴する暴力・正義なしで生きられるのか?

いずれも、答えは与えられない。問いだけが残される


エンタメから遠い『閃ハサ』が、なぜ書かれたか。

「男たちが女と武器を奪い合い殺し合う物語」を終わらせる『カラマーゾフの兄弟』をなぞることで、小説『閃ハサ』は、ガンダムが始まった宇宙世紀という世界を終わらせようとした。

これはIPとしての自殺行為であり、エンターテインメントから最も遠いガンダムだ。『逆襲のシャア』の大団円で終わらせてもらえなかった抑鬱が、ぶちまけられている。

でも、いま映画『キルケーの魔女』を観にいくガンダムオタク(ガノタ)のほとんどは「宇宙世紀のガンダムが、女と武器の奪い合いが続くこと」に快感を得てしまう。原作のバッドエンド回避を願ってしまう。

そんなガノタに富野が怒り、怒る富野を見てまたガノタが喜ぶ、この循環が40年続き、宇宙世紀シリーズは現実の経済活動そしてIPとして、大きくなり続けてきた。
水星の魔女(2022-23放送)』に代表されるオルタナティブシリーズがもっと成功することが、ガンダムには、富野には必要だったのだろう。
だが実際には、富野が、そして劇中のハサウェイ・ノアが最も憎んだ構造最も成功するという、完全にカラマーゾフ的な因果逆転が、メタ構造にまで起きた。
何とも皮肉なことだ。


観客も物語の一部だ。

小説、そして映画の三部作は『カラマーゾフの兄弟』と同じく、人間は武器(暴力・理性・権威)なしで生きられるのか、を問うている。

あなたもこの物語の一部だ。
快楽に溺れるのか、問いを背負う観客になるのか、それもあなたの自由だ。

キルケーの魔女は、あなた自身を暴く

キルケー、ペーネロペー、Ξクスィー、アリュゼウス。ギリシャ叙事詩との繋がり。

別稿として、登場するガンダムの命名とギリシャ叙事詩についても書いてみた。
『閃光のハサウェイ』の表層は、ギリシャ叙事詩の固有名詞で満ち、νニューで始まる言葉が、Ξクスィーで始まる概念に昇華される。
そちらにも、この物語を味わうための、重要な示唆がある。


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