『チェンソーマン レゼ篇』: IRIS OUTの図像学、視野が狭まる快楽と恐怖。
(『劇場版チェンソーマン レゼ篇』と、豊田利晃の『青い春(2001)』リュック・ベッソンの『レオン(1994)』のネタバレを含む)
『チェンソーマン』と映画。
藤本タツキの漫画『チェンソーマン』は、映画好きのための物語だ。作中に数多くの名作・快作・怪作映画や挿入歌が各話タイトル、そして後述するように、内容的にもパスティーシュやオマージュとして取り入れられている。

44話と48話は映画『ザ・スパイダースの大騒動』
の劇中歌『バン・バン・バン』から。
46話は映画『女ガンマン 皆殺しのメロディ』から。
49話と50話は映画『シャークネード』シリーズから。
46話を転回点に、前後で対称構造になっている。
そしてその中でレゼ篇は、原作中で最もシンプルで、恋愛と映画の関係にフォーカスしたストーリー・アークであり、特殊な対称構造も手伝って、連載時から映画化間違いなし、傑作の期待大と言われてきた。
いわゆる「χ字型の対称構造(カイアスティック・ストラクチャー)」。
前半と後半で、前後が対称になっている。
デンジとレゼの悲恋物語は、
仲間との生活を離れ、
花を食べて恋が始まり、
喫茶店で逢瀬を重ね、
夜のプールで泳ぎ、
レゼは台風の悪魔を宿した殺人鬼と戦い、
祭りの花火とともに決別して、
デンジとビームはボムと台風と戦い、
夜の海に抱き合って沈み、
喫茶店で待ちぼうけ、
花を食べて恋が散り、
仲間と一緒になって終わる。
構造上の鏡、折り返しの転回点になるのは、祭りの花火シーンだ。
ちなみに騙し合い駆け引きからのキスシーンは、A.ヒッチコックの『泥棒成金(1955)』。逃げようと誘い、ピンを抜いて爆発するという意味では、押井守の『人狼 Jin-Roh(2000)』と、二重にオマージュされている。
どう考えても、漫画の時点で、すでに映画化待ったなしだったのである。

ケーリー・グラント演じる元宝石泥棒が、かつての手口を模倣されて捜査に乗り出す。保険会社から情報を取り、グレース・ケリー演じる富豪令嬢に接近するが、このシーンで富豪令嬢は恐るべき駆け引きに出て、泥棒は返事をしないまま、唇を重ねる。花火が鳴り続ける。
レゼ篇が越えた障害6つと、残した謎1つ。
実際、劇場では以下の6点を確かめられて、自分は安心した。
1. 劇中劇:ソ連映画が語る悲哀
まず、マキマとの映画館ハシゴデート(原作39話)で、ソ連映画の傑作、グリゴリ・チュフライ監督の『誓いの休暇(1959)』がちゃんと扱われ、本作の結末を予告していたこと。スクリーン内の作画は、原作よりも引用元をぼかしてあった。
若い兵士アリョーシャは戦功により「短い休暇」を与えられ、母に会うため帰郷する道中、少女シューラと出会い、淡い恋が芽生える。
しかし、彼は前線へ戻り、やがて戦死する。恋は成就しない。
そう、穏やかに見えて、短い休暇を与えられているに過ぎないのは、銀幕の中のアリョーシャも、デンジも、レゼも、そしてマキマすらも同じなのだ。
2. 劇中歌:ロシア語の詩に曲が付いた
原作43話のタイトルで、映画『ジョニーは戦場に行った(1971)』の反転でもある『ジェーンは教会で眠った』。
元ネタ『ジョニーは戦場に行った』は、戦争で四肢と感覚を失った兵士を描く反戦映画だった。
主人公は、第一次大戦中に重傷を負い、手足・顔・聴覚・視覚・発話能力を失うが、意識だけは残る。
病院のベッドで過去の記憶や幻想、夢を通じて自身の状況を理解していく過程が、モノクロとカラーを織り交ぜて描かれる。
彼の孤独な内面世界を通じて、「生きるとは何か」「人間の尊厳とは何か」を問う構成となっている。ダルトン・トランボ唯一の監督作品にして、不朽の名作だ。メタリカの楽曲「One」のMVでも引用された。
それを反転した『ジェーンは教会で眠った』は、一見穏やかな題名に見える。
原作では藤本タツキが考えたロシア語の歌詞だけが示されていたが、本作ではそれがちゃんと楽曲と歌唱として成立していた。上田麗奈のたどたどしい歌が何とも切ない。
これによって、レゼの人物像が無意識に観客に浸透し、なおかつ鑑賞後にタイトルや歌詞を知ることで、さらに体験を重くする効果が期待できる。
私とジェーンのデートの日、準備はばっちり
朝、私たちは一緒に教会へ行く
私たちはコーヒーを飲むんだ
そしてカフェでオムレツを食べる
公園を散歩してから、私たちは水族館へ行く
そして、ジェーンの好きなイルカとペンギンを見る
昼食後、私たちは休むんだ
さて、私たちは朝、何をしたんだっけ
思い出すまで、そのことについて話すんだ
けど私たちは思い出せない
そして夜、私たちは教会で眠るんだ
レゼは、一見平凡で幸せそうな、デートの日の予定を歌う。
しかし後半の歌詞は不穏だ。
このデートは、決して実現しないことが分かった上での願望であり、結末は全てを失って教会で眠る ― すなわち『ジョニーは戦場に行った』同様の、死もしくは囚われの身が暗示されている。そして主語はジェーンではない。
そう、これはレゼ個人ではなく、戦争に巻き込まれて全てを捧げさせられる、無数の子ども(モルモット)たちの一生を嘆く歌なのだ。
彼らは普通に、学校に行きたかったのに。
3. 原案:プロットの元ネタの元ネタ開示

レゼが歌う夜の学校のシーンで、掲示物としてブーシェの絵画『ダフニスとクロエ』が登場したこと。これは原作には無かった。
レゼ篇は、基本的に押井守のアニメ映画『人狼 Jin-Roh(2000)』と、どくとるマンボウこと北杜夫の、処女長編にして自伝的小説『神々の消えた土地(1995)』のふたつが、プロットの下敷きになっている。
後者は、作中ギリシャ神話の『ダフニスとクロエ』に言及する。男子は意中の女子にこの神話の文庫本を贈るが、やがて戦争がふたりを引き裂く。平和な疎開先と、空襲の東京との対比は、本作のそれぞれ前半と後半に対応している。
このプロット原案が、映画の中では別の形で、意外なほどあっさり示されていたわけだ。
学校の掲示物に紛れ込んだダフニスとクロエは色褪せ、物悲しさを増していた。
4. 引用:幾多のオマージュで悲劇を増幅
本作には多くの名作映画のオマージュがあり、どれも本作のテーマや人物の方向性と重ねられ、それらの印象を増幅している。オマージュのすべては、単純に模倣・引用されるだけでなく、時に反転してでも、悲劇化する方向へと向けられる。
マキマの足のショットは、Q.タランティーノの『パルプ・フィクション(1994)』における、ユマ・サーマン演じる危険な女性の足に重ねられる。
アキが運転する場面の構図は、同じくタランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド(2019)』冒頭でブラピとディカプリオが車を走らせる場面に一致する。
絵面は平凡なのに、引用元を考えると嫌な予感しかしない。
天使の悪魔が降り立つショットはキアヌ・リーヴス主演のF.ローレンス『コンスタンティン(2005)』におけるサタン降臨そのまま。
デンジとアキとパワーの踊りは、J.L.ゴダールの『はなればなれに(1964)』オマージュだし、そこに重なる紙工作はR.ハワードの『インフェルノ(2016)』から引用されている。不吉すぎる。
デンジが馬に乗る描写は、史上初の動画であるE.マイブリッジの『動く馬(1878)』で、コマ打ちもそれに合わせて落としてある。


もともと馬の歩様分析のために撮影された。
マキマがデンジにレゼの爆弾ピンを渡す場面はL.ベッソンの『レオン(1994)』、一方、ピンを抜いて自爆するのは押井の『人狼 Jin-Roh』だ。不穏そのもの。
夜の学校の場面は、相米慎二の『台風クラブ(1985)』、追っ手を返り討ちにするショットは三池崇史の『悪の教典(2012)』。
レゼが殺人鬼を絞め上げるシーンは、コーエン兄弟の『ノーカントリー(2007)』への露骨なオマージュ。異常者を、より異常な者が平然と殺す。

タランティーノとコーエン兄弟とベッソンのノワール風味は、いかにも藤本タツキ好みで、原作でも、またTV放送アニメ版のオープニングなどでも随所に引用されていた。
引用はビジュアル面だけではない。レゼが頭を投げつける時、耳を澄ませば『スター・ウォーズ』はじめ、200を超える映画で使われた、あのウィルヘルムの叫びが聞こえる。
なお、豊田利晃の『青い春(2001)』の引用である屋上の旅客機など、原作に無く、映画で追加されたシーンも多い。


ティーンエイジャーの焦燥・虚無感、そして迫る破滅。


なお、血だまりの形はほぼ真円。その理由は後述しよう。
そして、レゼ篇のラストシーン全体が、レオンと似たシークエンスになっている。
このように、鬱映画のデパートかと思うほど、オマージュを重ねることで、映画史に親しめば親しむほど、本作を観たときの辛さ・哀しさが増強され、輻輳するように、『レゼ篇』は創られている。
5. 佳境:デンジがサメでやって来る
引用の中で一風変わった扱いが、サメの魔人ビームが空を駆ける『シャークネード』展開(原作49話と50話)だ。
MAPPAの技術でガッツリ膨らまされ、本作は一級品のサメ映画になっている。なにしろ、
普通のサメ映画=(爆弾)×(サメ)
シャークネード=(チェンソー)×(サメ+台風)
であるところを、藤本タツキはひとひねりし、こう組み替えてしまっているのだ。
レゼ篇=(チェンソー+サメ)×(爆弾+台風)
おわかりいただけただろうか。本来、サメ映画でサメを倒す定番アイテムの爆弾とチェーンソー。なのに、本作ではチェーンソーがサメと組んで爆弾と台風にタッグマッチを挑むのである。あ、ごめんアキくんたち、カウント入れてなかった。
ソ連ジョーク(アネクドート)のような、ねじれた対立の構図。
このハチャメチャさ、過剰さ、過激さこそ、サメ映画の本質だった。
悲劇の中心にあるアクションシーンだけが、大笑いしながら観られる、見事なバトルとして描き出されている。アリ・アスター監督作品にも通じるこの構造は、高く評価されるべきだ。
そして本作は実は、映画史上最も予算を投じて創られ、広く観られたサメ映画なのではないだろうか。


6. 擬装:スパイものから悲恋のメロドラマに
本作の最大の特徴。
それは、原作では冷酷非道な工作員であり、本気で恋愛している様子を極力見せずにいたレゼが、本作では年相応に恋愛に溺れかける姿を何度も垣間見せることだ。
原作にない要素、レゼの表情・仕草を足すことで、本作は原作のエスピオナージュ・ノワールから、共感性の高い悲恋のメロドラマへと擬装されている。まるで、まっすぐに『ダフニスとクロエ』であり、『神々の消えた土地』であるかのように。
原作よりも、スパイとして下手に見えながら、実は作品としては上手に隠しているという、わけのわからない転倒。
鬱映画の引用をすべて見逃せば、甘酸っぱい恋愛映画にすら見えてしまう。
とはいえ、代償もあった。
恋愛映画としては不完全だ。いわゆるハリウッド流のプロット術が徹底されているわけでもない。総じて、『チェンソーマン』ファンや映画好きよりも、表層で恋愛映画を求める一般ファンという大きなパイを食べに行った作品になっている。
その意味では、肩透かし感を覚えた方もおられたかもしれない。それらの方は、どうか再鑑賞や配信で、ひとつひとつのオマージュを読み解いて、胃もたれするほどの酸味と苦みを味わっていただきたい。

『IRIS OUT』に注目、それもまたアイリス・アウト⭕️。
表面上削られた胸クソ要素の代わりに、原作以上に強調され、繰り返されていたのが謎めいた円形⭕️のモチーフだった。そして本作はラスト近くで、アイリス・アウト⭕️と呼ばれる技法を思わせる暗転で締めくくられる。
面白いことに、米津玄師が書き下ろした本作のテーマ曲『IRIS OUT』は、映画本編以上にその円⭕️モチーフを掘り下げ、本作のテーマ楽曲として大ヒットした。

もともとアイリスとは、目に入る光の量を調節する虹彩⭕️を指し、転じて、カメラの内部で同様の機能を持つ絞り⭕️を指す。
そして一般にアイリス・アウト⭕️とは、映画のカメラを回しながら、絞りを使って円形⭕️部分だけを残しブラック・アウトさせる技法で、「映画の父」D.W.グリフィスによって確立された。
日本ではコメディのオチでお馴染みだ。
グリフィスは逆に円形から広がるアイリス・インも用いた。これは映画007シリーズのオープニングにおける定番演出として定着した。
映画では円⭕️モチーフの持つ意味は多義的で、答えが得られないまま終わる。
円⭕️は、マキマによる動物の眼を通した監視を象徴している、という考察があった。が、自分はそのように読むのは原作の続きに引っ張られすぎだと考える。
それに対して、米津の楽曲は、極めて優れた批評かつ二次創作として、円⭕️モチーフの持つ意味を、敢えて文字通り「アイリス・アウト⭕️」して絞り込んだ。
歌詞も⭕️へ収斂する。
歌詞を見てみよう。
冒頭「脳みその中から『やめろ馬鹿』と喚くモラリティ」。デンジは、マキマさんに操を立てたその直後に、謎の女子レゼから誘惑され、簡単によろめく。
歌詞には、現代的で刺激的な単語と、生硬な文語の、鋭い対比がぶつかっている。
ダ音やラ音、カ音による頭韻と、イン・アイ音による脚韻を繰り出しつつ、フレーズの最後は決まって、視覚効果に言及する。
駄目駄目駄目
脳みその中から「やめろ馬鹿」と喚くモラリティ
ダーリンベイビーダーリン
半端なくラブ!ときらめき浮き足立つフィロソフィ
死ぬほど可愛い上目遣い なにがし法に触れるくらい
ばら撒く乱心 気づけば蕩尽 この世に生まれた君が悪い
やたらとしんどい恋煩い バラバラんなる頭とこの身体
頸動脈からアイラブユーが噴き出て アイリスアウト
一体どうしようこの想いを どうしようあばらの奥を
ザラメが溶けてゲロになりそう (ボンッ)
瞳孔バチ開いて溺れ死にそう
今この世で君だけ大正解
ひっくり返っても勝ちようない 君だけルールは適用外
四つともオセロは黒しかない カツアゲ放題
君が笑顔で放ったアバダケダブラ デコにスティグマ 申し訳ねえな
矢を刺して 貫いて ここ弱点
(以下略)
レゼからボムへの変身、そしてレゼの非業の死を重ねた「頸動脈からアイラブユーが噴き出て」から、円⭕️モチーフに収斂する「アイリス・アウト⭕️」へ。
あるいは、▽ハンドルのデンジに対して円⭕️のチョーカー・ピンを抜いてレゼからボムへ変身する効果音とともに、「瞳孔バチ開いて」大きな円⭕️から「今この世で君だけ大正解」でアイリス・アウト⭕️。
すなわち歌詞では、アイリス・アウト⭕️と 恋 愛 そのものが同一視されている。
レゼダンスでも⭕️。
また米津がリリースしたレゼダンス動画の振付けでも、アルバムジャケットのポーズ、ボンッ!のピンを抜くポーズ、夜プールのポーズなどが各1回だけなのに対して、手を丸めて目の前で回転させるアイリス・アウト⭕️動作は、最初に2回、最後に1回、合計3回も繰り返される。

曲入れて併せてみました。
— rain-bow (@rainbowvio1a) December 21, 2025
ダンサーの方によろしくお伝えください。#レゼダンス #RezeDance https://t.co/3E01M7f5WG pic.twitter.com/nB8JnV0UnN
恋愛=映画=視野狭窄⭕️の快楽と恐怖。
シェイクスピアは『ヴェニスの商人』で「愛は盲目」と綴った。藤本タツキの短編集17-26にも、同名の小編があった。
デンジもレゼも、恋愛によって視野が狭くなり、円⭕️の外が見えなくなる。本来の立場や任務や安全を忘れ、恍惚に酔い、恋に堕ちてしまいそうになる。
同時に、アイリス・アウト⭕️が映画技法だったことを思い出そう。
被写体は、注視した・注視された瞬間に、すでに文脈から切り取られ・切り落とされる。
あまりにも美しい映像は、ストーリーから切り離されて偏愛される。
あまりにも美しいキャラクターは、モブや背景や行動原理を忘れさせる。
ー その快楽と恐怖は、恋愛と映画に共通の性質である。
劇場版レゼ篇には、全編通して数百の円⭕️モチーフが出てくる。





















映画はこれらの⭕️に特定の意味を与えないようにむしろ突き放していたが、米津は『IRIS OUT』というキラーチューンで、そこに「恋愛=映画=視野狭窄⭕️」という強烈な意味を与えてしまった。
紅白でのパフォーマンスでも、3つの別の円を描いてさらに花火まで上げていた。


IRIS OUT⭕️をこすり倒しただけでなく、最後の花火の前に、放送100周年にも引っ掛けている。
2025年猛威をふるった米津のあまりにも強い意味付与力、言い換えれば批評的創作力を、最後まで見せつけてくれた大晦日だった。
『JANE DOE』という、もうひとつの名曲。
米津は本作にもう一曲、エンディングテーマとして『JANE DOE』を作曲し、宇多田ヒカルとのデュエットで歌い上げている。
JANE DOE=ジェーン・ドゥとは、身元不明の女性一般に用いられる英語圏の仮名だ(必ずしも死者を意味しない)。劇中歌でのジェーンと重なる。
本作ではもちろん、レゼを示唆する。
この曲は最強のトラウマ映画の一角、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の劇中デュエット『I've Seen It All』に影響を受けており、そして『IRIS OUT』で歌われた内容とも響きあっている。
自分は『IRIS OUT』以上に『Jane Doe』から強く惹かれてしまうのだが、この曲については詳しく解説してしまうのが惜しいような気もする。
ぜひ、ご自身で解読し解釈し感じ浸っていただきたい。
宇多田さんには、ものすごく複雑なものを抱えている女の子と、本質的な意味でそれをまったく理解していない男の子によるデュエットを作りたいので、そういうふうに歌ってほしいというオーダーをさせてもらいました。

レゼとギギは似て非なるキャラクター。
レゼ役の上田麗奈は、ガンダム『閃光のハサウェイ』三部作でもヒロイン・ギギを演じている。だがその性質は、似て非なる。この件については、別稿で書くとしよう。

ファム・ファタールになろうとしなかったのに
オム・ファタールであるハサウェイを映してしまったギギ。

