【χmas直前】全体で回文。χ字型の対称構造は、音楽・文学・映画に魔法をかける。【12/21は回文の日】
(本稿は『竜とそばかすの姫』『果てしなきスカーレット』『チェンソーマン レゼ篇』『エディントンへようこそ』等のネタバレを含む。未見の方はご注意を。)
『竜とそばかすの姫』までの細田守的仮想世界。
細田守監督作品と言えば、インターネットを表す仮想世界の表現が特徴とされてきた。
『デジモンアドベンチャー』と初監督作品『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』のデジタルワールド。
『サマーウォーズ』のOZ、前作『竜とそばかすの姫』の〈U〉。

とくに前作『竜とそばかすの姫』では、その描き方が見事だった。
ベースとなった『美女と野獣』では野獣の呪いが解けて王子になりハッピーエンド。
それを反転した『竜そば』では主人公が、野獣ならぬ竜の信頼を得るために、仮想世界〈U〉での美女ベルというアバター〈As〉を自ら脱ぎ捨てる。
同作のクライマックスだ。
いずれの作品も、『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『千と千尋の神隠し』『崖の下のポニョ』など宮崎駿の作品群と同じように、現実→異界→現実という、冥界下り(Katabasis)や通過儀礼(rites de passage)を現代化した、典型的構造を持っていた。

『果てしなきスカーレット』の作画はなぜ切り替わっているか。
『果てしなきスカーレット』では、非現実の仮想世界は死者の国(仮称)に置き換わった。
仮想世界ほど極端ではなく、気づかない人もいるくらいだが、実は作画技法が、途中で切り替わっている。
毒で苦しみ、絨毯の上に転がって泡を吹くスカーレットの顔がアップになるシーンまでは従来のアニメの2D作画。
次の瞬間、死者の国に落ちていくスカーレットが、顔のアップからどんどん遠ざかるが、このシーンは同じ衣装なのに3Dに替わっている。
この切り替わりの瞬間こそ、3Dモデリングに新しい2Dセルのようなルックを与え、かつ『SLUM DUNK』と違って2D/3Dを融合させようとした、本作の技術的挑戦がもっとも強く出ている。
スカーレットが現世に戻って来た時の顔のアップが2D作画に戻っているシーンも含めて、ぜひ再鑑賞で確かめていただきたい。
ざっくり言うと
冒頭の現世 2D作画
前半の煉獄 3Dモデリング
キャラバン 古風な2D
後半の煉獄 3Dモデリング
終幕の現世 2D作画
前後で対称的につくられている。
再鑑賞するほど響く、なぜかクセになる、無性にオアシスでのキャラバンたちのシーンが(大仕掛けの渋谷以上に)気になるのは、この構造も一因だ。
この構造や、作画技法の切り替わりを、劇場で「違和感」として捉えることができた方は、鋭い感性をお持ちだ。
なのに、それを予算不足や未完成や失敗などと解釈するのは本当にもったいない。同じく群衆を前に演説するシーンでも、クローディアスが煉獄山の城で演説する時は3D、スカーレットが現世に戻ってエルシノア城で演説する時はすべて2D作画になっている。予算不足や工数削減なら、3Dを使いまわす方が圧倒的に有利だが、わざわざ別の作り方をしているのだ。
墓掘りやリミナル空間の演出同様、細田守は本作で、前後半を分ける部分に、異常なほど仕掛けを凝らしている。

もう少しくわしく言うと、キャラバンのシーンは古い2Dの中に、3Dモデリングの主人公スカーレットと聖が紛れ込む形となっている。前作『竜そば』で、ネット上の仮想世界でアバターを脱ぎ捨てた主人公の逆パターンだ。

さらに『果てしなきスカーレット』の場合、キャラバンがオアシスで過ごす場面の中心には3Dモデリング+モーションキャプチャーの古代フラダンスが置かれている。そして、聖の踊りの途中でそれを笑顔で見守るキャラバンの年寄りたちが、静止画で横スクロールしつつ映る、特異な演出が挟まれている。ここが、作画構造の対称性の転回点になっている。尺で言うと全体の1/3あたりの位置にあたる。

したがって、もっと詳しく書けば
冒頭の現世 2D作画
前半の煉獄 3Dモデリング
キャラバンへの癒し 古風な2D
フラダンス 3Dモデリング+モーションキャプチャー
横スクロールする静止画
フラダンス 3Dモデリング+モーションキャプチャー
キャラバンとの別れ 古風な2D
後半の煉獄 3Dモデリング
(市場や群衆蜂起では2Dカットあり)
終幕の現世 2D作画
こうなっている。
しかしここでは細かい描写の話は一旦置いて、大きな構造に注目しよう。
全体で、前半と後半が逆向きになっているのがわかるはずだ。
作画だけではなく、カミシモも切り替わる。
なお、細田守は日本の古典的な舞台文法、上手/下手の使い分けによって、もうひとつ似たような構造をつくっている。
冒頭の現世 王女のみ、父王に対しては画面右側、継母に対しては左側
古戦場で聖と遭遇 王女は最初右側、何度も入れ替わる
コーネリウス~キャラバン 王女は左側、聖は右側
(聖が画面右側からコーネリウスを弓で狙う)
ヴォルティマンド戦の停戦交渉 聖が左側へ、王女が右側
ヴォル戦中 王女は左側、聖が右側
ヴォル戦後「赦せ…?」で混乱 王女は右側、聖が左側
二度目の焚火~渋谷ダンス はげしく左右交代
野営に復帰~ギル&ロゼ戦 王女は右側、聖が左側
(聖が画面左側からギルデンスターンを弓で狙う)
傷ついた聖とともに山を登る 王女は左側、聖が右側
山頂へ到着 聖が左で王女が右、そこから視点が飛び回り王女左側へ
山頂戦~昇天 王女は常に左側、聖が右側
終幕の現世 王女のみ、ただし視点は左右はげしく変化

人類の叡智、対称構造。
こうした造りは、ホメロス以来少なくとも3000年近い伝統を持ち、「カイ(χ)字型の対称構造(カイアスティック・ストラクチャー Chiastic structure)」と呼ばれる。
χはアルファベットではKだが、ギリシャではその形から、上下左右回転すべての対称性を併せ持つ文字として図形的に特別な意味を持つ。
さらにキリスト教では、キリスト(χριστός)自身を表す頭文字でもある。今週の大イベント「Χmas」のΧはこれに由来する。χと形が同じラテン文字「X」を代わりに用いても間違いではない。
カイ(χ)字型の対称構造を、わかりやすく現代的に言い換えるなら「前後対称」「鏡像構造」「回文構造」だろうか。円環構造と説明する人もいる。
しんぶんし、たけやぶやけた。無いかも知んねえ年末挨拶。今、かなりな危機なり。仲間一切集まんねえ。年始もかいな? そう言えば、明日12/21は回文の日だった。
古くは、古代文学・聖典・詩・音楽で。
この構造は、ホメーロスの『イーリアス』『オデュッセイア』、ソポクレスの『オイディプス王』などギリシャ古典の物語のほか、仏教経典や聖書やコーランの随所にも見られる。

実は自分はこの手法、最初に音楽史で、詩の「交錯配列法(キアスムス、χ字法、交差配列法とも)」に由来すると学んだ。
現代のポピュラー音楽はAABAの形式が多く、Bはサビと呼ばれる。
だが、これはラジオ文化にあわせて曲が短く、構造は単純になったものだ。もとは前後対称の形をしていた。
バッハの時代には、ABA-CDC-ABAの複合三部形式の曲がたくさんあった。これには、旧約聖書の詩編を再現する宗教的な意味合いも込められている。

モーツァルトやベートーヴェンの頃には、ロンドソナタ形式がよく用いられた。

ABCBAの序奏後奏付き三部形式もよくある。wikipediaより。
文学では韻文から散文へ。
詩では先ほどの「交錯配列法」のほか、それこそ「たけやぶやけた」のような音節・モーラ単位での回文から、単語ごと、節ごと、階層ごとに、この手法が使われた。
単語ごとの対称構造として、おそらく皆さんが最もよくご存じの例はこれだ。
One for all, all for one.
(一人は皆のために、皆は一人のために。)
Unus pro omnibus, omnes pro uno.
(ラテン語版、内容は同じ)
やがて詩から散文にも伝播し、W.シェイクスピア、Ф.ドストエフスキー、J.D.サリンジャー、日本では夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫らの作品に、多くの例が隠されている。
『ハムレット』の対称構造。
『果てしなきスカーレット』が底本とした『ハムレット』もまた、大変美しい対称構造を持っている。脚本上のこの構造を随所で反転しつつ、細田守は別のレイヤ、つまり2D/3Dの作画手法でも同じことを行っているわけだ。


左上から左下、右下から右上に進む。左右でちょうど対応関係があることがわかる。
『ナイン・ストーリーズ』の対称構造。

美しすぎる対称性…!
同作品は、少女漫画の傑作『バナナフィッシュ』の名の由来でもある。
興味を持った方、クリエイターのみなさん、文学部や芸術学部の学生さんたちは、ぜひfufufufujitaniさんの構成読み解きで、その見事さ、不思議な読後感、えもいわれぬ鑑賞体験の原因を突き止め、味わっていただきたい。
構成読み解きを丁寧に進めれば、誰でも「天才創作者の視点」に立てる。作品がどのように作られたか、その骨組みを知ることができる。
そして映画、アニメへ。
映画では、χ字型の対称構造は、溝口健二や黒澤明、タルコフスキーやスコセッシが好んで用いた。
特に溝口作品に学んだタルコフスキーの映画は、押井守や細田守に強い影響を与え、日本アニメの最も美しい枝を育てた。
タルコフスキーの自伝的映画『鏡』では、対称構造で一旦構成してから、それを砕いて時系列を入れ替えた、さらに難解な構造になっている。
いや、変態すぎるだろタルコフスキー…。
娯楽作とは言い難く、公開時には当然批判も招いたこの『鏡』。
ところが、旧ソから輸出される際には、超大作『戦争と平和』より高く値がついて売れたそうな。
画面の美しさとは別に、決して初見では見抜けない構造の中にも、麻薬的な快感をもたらす原因が潜んでいるものなのだ。
『果てしなきスカーレット』の異様さを前にして、「意味不明」「台詞ですべてを説明してる」なんて言っちゃう人は、もう少し自分の感性を信じ、作品に向き合うべきではないか。
幸い、ちょっと手間をかければ誰でもできる方法が、既に確立されている。あなたの直感が正しいのか、いったいどこから受信しているのか、知ることはできるのだ。
構成読み解きに慣れれば、普通のマンガ・アニメ・映画は、表をつくるまでもなく、割と簡単に解読できるようになる。
『チェンソーマン レゼ篇』の対称構造。
例えば『チェンソーマン』レゼ篇は、連載時から露骨に対称構造で描かれていたので、映画化間違いなし、傑作間違いなしと期待されていた。

デンジとレゼの悲恋物語は、
仲間との生活を離れ、
花を食べて恋が始まり、
喫茶店で逢瀬を重ね、
夜のプールで泳ぎ、
レゼは台風を宿した殺人鬼と戦い、
祭りの花火とともに決別して、
デンジとビームはボムと台風と戦い、
夜の海に抱き合って沈み、
喫茶店で待ちぼうけ、
花を食べて恋が散り、
仲間と一緒になって終わる。
折り返しの転回点はもちろん、祭りの花火シーンだ。
『ヱヴァンゲリヲン』新劇場版の対称構造。
『ヱヴァ』の新劇場版シリーズでは、序・破・Qの1作ごとに対称構造がある、とは多くの鑑賞者が指摘しているが、とくに最後の『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』は、「序・破・Q・破・序」と、それまでの三部作を対称構造の中に繰り直す、何とも凝った構成になっていた。まさに大団円である。

『エディントンへようこそ』の対称構造。
映画『エディントンへようこそ』は、1発目の銃弾が転回点になっていた。

比較的単純なプロットだが、随所に左右・上下・ナナメの対称性が隠されている。まさに「χ字型」だ。
逆に言えば、対称性が明快で美しいプロット表があると、脚本は進行方向への推進力だけでなく、重層的な豊かさを手に入れる。そうして初めて、物語は使い捨ての消耗品としてでなく、再鑑賞したい対象として、愛で続けられる存在になれる。このことは昨今の脚本指導では、見過ごされがちだ。
構成を読み解ける人は、より深く作品を味わうことができるし、自分で作品を紡ぐことも、できるようになる。
ぜひ、勇気を出して一歩進んで欲しい。
「良い食材が入手出来たときは、普段の三倍手間かけて上手な料理を作りませんか?」
構成読み解きは単に、「何十回も読めば出来る理解を、章立てきっちり立てて、登場人物見渡すことによって、効率的に達成する」作業でして、寝っ転がってダラダラ読んでいるのと本質的には変わりません。エクセルに打ち込むのが手間ですけど、打ち込んだ後はプリントして寝っ転がってダラダラ見る。つまり持ち物が本からペーパーに変換されただけで、人間の姿勢としては全く同じです。
普通の小説の読書が「学問的」とは誰も思いません。単なる娯楽です。構成読み解きも娯楽の一種です。ただ表をつくる手間をかけることによって、天才レベルの深い理解を安易に実現できることになります。料理は学問ではありません。私は「良い食材が入手出来たときは、普段の三倍手間かけて上手な料理を作りませんか?」と提案しているのです。すこぶるつきの良い食材の場合、驚異的な味を達成できます。
以下、様々な批評をご紹介。
『果てしなきスカーレット』は、実に多様で豊かな読み方をされている。
