『果てしなきスカーレット』評価の分かれる淵源、作品が映し出す「あなた」。
(以下はネタバレ解説レビュー。未見の方はぜひ先に劇場へ。)
なぜ評価は分かれたか。
評価が大きく分かれている『スカーレット』。
その原因を自分は4つの問題――
1:前代未聞の複雑な構造。


2:ミスリーディングに釣られて誤解しがち。

マクベスになった気分だ。
誤解がとける2回目の鑑賞から本当の味する。
3:予備知識がないと読み解きにくい。
『ハムレット』と『新約聖書』を知っていなくても鑑賞できるが、知っていると各場面の意味を捉えやすくなる。
ということで副読本的な資料を提供。
4:広告・予告編があさっての方向を指していた。
これまでの細田守監督とは異なる難解映画なので、『マルホランド・ドライブ』のように公式サイトでヒント配ったり、2回目以降のリピート鑑賞割引制度などを最初から用意すべきだった。
ところが、東宝と日テレは、過去作を擦って無意味に露出を増やした。そのせいで反発を招き、酷評のバズに沈んだ。
――この4つの問題として考えていた。だが先日、評価二極化の原因を、より深くえぐるメタ・レビューを読んだ。
5:本作は観客に「公私の別」という鏡を突きつけ、多くの人がその鏡を割ることでしか逃げられなかった。
二人は、
「こうしたい」という私情と
「こうすべき」という公的責任
の間で悩むことになる。
(中略)
その構造は私たちの日常となんら変わりがない。
誰かのために動けば、「私」が犠牲になる。
自分の気持ちを優先すれば、「公」の役割が崩れる。
映画はこの揺れを誇張せず、丁寧に積み上げていく。
結果、観客は無意識に「公私の別」の選択と決断について、暗黙に問われる事になる。
評論記事では、「好き嫌い(私が好きな監督像)」を「公的正義(これが正しい像だ)」にすり替えて監督を攻撃しているように見えるものがあった
(中略)
「嫌悪」が先に立ち、物語の「公的テーマ」を意図的に見ていない
(中略)
「公的テーマ」を見ることは、自分自身の「公私の別」を問われることだからだ。
(中略)
皮肉なことに作品は「私的感情に支配されたまま公的調和を拒む者」の姿を観客自身に演じさせて終わる。
だからこそ私は思う。
『果てしなきスカーレット』は成功しすぎた映画なのではないか。
観客に「公私の別」という鏡を突きつけ、多くの人がその鏡を割ることでしか逃げられなかった、という意味において。
映画の感じ方は自由で、好き嫌いで語ること自体は何も悪くない。ただし、
「『公』としての役割」
「『私』としての感情」
この二つをどのように区別して作品を見るかで、『果てしなきスカーレット』の印象は大きく変わる。
登場人物だけでなく、観客自身にも何を「公」とし、何を「私」とするかを静かに問う作品になっている。
その問いに心を開くことが出来ない…それは「私」に偏りすぎで、勿体ないことなのではないだろうか。
では、どうしたらよいのか。
大それたことではない。
ただ、作品を見るときに 「自分はいま、『公』で見ているのか? 『私』で見ているのか?」 を、ほんの一瞬だけでも意識してみるだけでいい。
それは決して「公で見ろ!」という強制ではない。
「自分の見方の癖」に気づくことで、作品への違和感の正体がほどけていく
という程度の、軽い姿勢だ。
一部引用したが、ぜひ原文をお読みいただきたい。
すごいレビューだ。自分はまだまだヒヨッコだな、と自身を見直すきっかけになった。
「自分の見方の癖」に気づくことで、作品への違和感の正体がほどけていく。これを言い換えれば、本作のストーリーに入れられたヒビやキズ(scar)は、観客自身のキズにも作用するということだ。
本作の長所であり短所、設定認識の不安定さ。
指摘を踏まえて、本作を再鑑賞してみると、『果てしなきスカーレット』が誤解されがちな理由の核心が見えてきた。
この映画には第2項で指摘したように、あらゆる所にミスリーディングが仕掛けられている。冒頭で、古いローマ兵の鎧から老婆の声が問いかける。
「ここをどこだと思ってるんだい? ここはね…」
スカーレットは老婆の声を遮って、食い気味に「死者の国」と答える。
観客であるわれわれは、おお、死者の国なのか、と受け取るのだが、終盤になって老婆は言う。「人間はいまだにここを、死者の国だの見果てぬ場所だのと勝手に呼んでおるが、大きな間違いだ。ここは生も死も混じり合う場所。対立するものではない」死者の国ちゃうんかーい。
では生と死はどう混じり合うのかと言えば、生者はスカーレットとおそらくクローディアスのふたりだけ。残りは全員死者だ。ほな、実質、死者の国か。
このような調子で、老婆の提供する情報は常に、そのまま直球では受け取れない。典型的な「信頼できない語り手」だ。

認知バイアスが、世界の像を歪ませる。
本作では冒頭から、こうしたミスリーディングな情報ばかり提供される。
古戦場で出会ってしばらく、スカーレットは、自分が死んでおり、聖は足手まといで、現実主義で事態が解決できると思っている。
逆に、聖は、自分は死んでいない、スカーレットは猛獣で、理想主義で事態が解決できると思っている。
物語が進むと、ふたりとも自身の誤りに気づく。そしてお互いの認識を変えることで、2人は強く結ばれる。
ヴォルティマンドから提供される父王の遺言の意味を、ふたりは話し合う。様々な可能性が検討される。だが、最終的にスカーレットがたどり着く結論は、そのどれとも異なる。「赦し」の解釈は、誤読→修正→再誤読→再修正を繰り返し、クローディアスに雷が二度落ちるまで、いや現世に戻って継母を見送り、群衆に語り掛けるまで、揺れながら続く。
このように、本作で与えられる情報、前提とされる認識は、ほぼすべてが誤解で、ミスリーディングで、流動的だ。
『ユージュアル・サスペクツ』『シックス・センス』と似た、初見ではほぼ看破不能な叙述トリックになっている。
次の表で、その項目の多さに驚く。

本作のわかりにくさ、唐突さ、不可解さは、主にこの設定認識の不安定さ、登場人物や観客自身の認知バイアスから来ている。
老婆やスカーレットの言葉を冒頭で受け取ったまま、アップデートせず終盤まで来ると、訳が分からなくなる。
劇中のさまざまな演出、さまざまな台詞、表情、象徴を手掛かりに、認識を書き換えないと、ついていきづらい。
スカーレットと聖が通過儀礼を経て成長する度に、観客も認識を変えていかねばならない。
1回目の鑑賞と2回目・3回目で受け止め方が変わるのもこのせいだ。
ここまで書き換える項目が多いと、考えながら追うより、演出・台詞・表情・象徴を感じるがままに受け入れる方が、楽なくらい。
いずれにしても、普段からSNSなどで均質な意見のエコーチェンバーに囲まれていると、こうした流動的な認識の揺らぎについていくのは困難かもしれない。

ここまでお読みいただければ、本作は脚本を直せばわかりやすくなる、などというような作品でないことも明らかだろう。
多くのミスリードは、観客の認知バイアスをあぶり出すための仕掛けだった。
問われていたのは、本作の設定の一貫性ではなく、われわれ観客自身の感受性であり、その認知の歪みと頑なさなのだ。
こうした造りは、文学ではルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』、映画では黒澤明の『夢』、テレンス・マリックの『ツリー・オブ・ライフ』等を彷彿とさせる。
名作とは、自分が成長すれば成長するほど、新たな一面を見せてくれる作品である。
それは立体的な鏡面仕上げの彫刻のようなものだ。
新しい視点から作品を鑑賞すると、作品自体は何も変わっていないにもかかわらず、作品の新しい姿が見え、そしてその中に新しい自分が映っている。

その意味で、『果てしなきスカーレット』とはなんと豊かな可能性を湛えた名作だろう。
本作は演出の天才にしか構想しえず実現しえない、演出の大聖堂というべき物語であり、そして同時に、あなた自身の成長を映す、流動する鏡面でもある。
以下、様々な批評をご紹介。
本作は実に多様で豊かな読み方をされている。

