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2025年は日本でテレビ王朝が倒れた年として記憶される。


今年のネット流行語。

1位は #ジークアクス こと『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』。2位に主人公、マチュことアマテ・ユズリハ。

しかしもっと注目すべきは、先行劇場版の、本編ではなく上映後の特別映像、それも上映後期だけという、三重に限定されたわずかな露出で予告され、日テレ放送版(深夜枠)の第4話のみにしか登場しないシイコ・スガイというキャラクターが、4位に入った点である。

なぜシイコさんは星になり、スカーレットは泥水を啜るのか?

この現象は、露出量と話題性の相関が崩壊したことを示している。

テレビで露出するほど多くの視聴者に届き、話題を支配できる、というメディアの方程式はもう通用しない。
現代では、露出を絞り、キャラの魅力をタメて凝縮するほど、ファンダムの自律的拡散は爆発的に増幅される。これは近年SNSで顕著になっている「希少化効果型バズ(Scarcity-driven virality)」の典型である。

『果てしなきスカーレット』のようにテレビが過去作放送や予告編で正面から擦り倒すよりも、『ジークアクス』や一昨年の『君たちはどう生きるか』のように、敢えて露出を抑制してファンダム自身に自発的興味を喚起させた方が、よほど正のフィードバックが起きやすい

テレビ局には、もう大衆の正の興味関心を操作する力は、無い
むしろテレビ局が露骨に・過剰に仕掛けるほど、SNSは斜に構え、冷笑・反発・皮肉化で応答しがちだ。
そのため、露出を過度に行うほど、話題形成は負のフィードバックに向かう
『果てしなきスカーレット』の宣伝逆噴射と興行不振はその結果だった。

『果てしなきスカーレット』『国宝』は同じ担当者が宣伝プロデューサーを務めたが、局がゴリ押し・内容がわかりにくい『スカーレット』局がそこまで押さずとも・内容がわかりやすい『国宝』では、まったく異なる結果が出ている。ちなみに『スカーレット』も『国宝』も、作品そのものには余白が巧みに配置された名作だ。

この2作品に、日テレが深夜枠しか与えず・内容がわかりにくい『ジークアクス』の大成功、あまり宣伝がなくとも・わかりやすさが評価された『野生の島のロズ』の成功を加えると、その要因がよくわかる。

わかりやすい作品か、わかりにくければむしろ露出の少ない作品の方が、ヒットする。
『ズートピア2』などは左上、『トリツカレ男』などは左下、
『哪吒2』『ワン・バトル・アフター・アナザー』などは右上のグループにそれぞれ入るだろう。

今日では露出の量よりも、露出の「意味生成装置としての構造」が問われる。
ここで露出が大きいとした『国宝』だって、最初は低位発進で、口コミで徐々に客足が伸びて異例のロングラン、100億を達成した作品だ。日テレは後追いで露出を増やしたに過ぎない。

今や、わかりやすい作品か、わかりにくければむしろ露出の少ない作品の方が、「俺たちの作品」「自分たちで掘り下げられる余白のある作品」と見なされてヒットする。
そのことを、日テレも東宝も、そろって理解できていなかった。長きにわたる彼らの成功体験が、目を曇らせた。

今や、単なるテレビでの情報提供は効力を持たず、余白をつくる露出だけが機能する。

これは、テレビ主導の大衆文化の終焉である。

今日のマスメディアとは、テレビではなくSNSである。

半世紀以上続いたテレビの時代は終わり、ファンダム・ドリブン時代が始まっている。

情報の一次流通、すなわち議題設定がSNS側に移動した結果、テレビは二次流通の編集者へと役割が縮減した。
テレビ局は、もはや上流のプレイヤーではなく、SNSの話題生成を受けて後追いする下流工程(下請け部門)として位置づけられる。

露出をコントロールする主体も、受容を決める主体も、テレビ局やその視聴者ではなく「ファンダムが形成するSNS空間」なのだ。

ルイ16世の処刑を描いたドイツの版画。ウィキコモンズより。

革命期の混乱に備えよう。

かくして、半世紀以上メディアの王であったテレビ局は、断頭台の露と消えた。
だが、権力の交代期には、しばしば混乱と恐怖が世を覆う。

フランス革命期の恐怖政治めいたSNSの二次反応、ナポレオン台頭や王政復古めいた配信プラットフォームの寡占化独裁者の介入も見てとれる。

革命期の混乱に備えよう。
それにしても、われわれの社会はどこに向かって歩いているのだろうか。行く手は、濃い霧に覆われている。


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