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芸は人を摩耗させ磨き上げる。小説/映画『国宝』が選んだ表現。

(『国宝』『ブラック・スワン』『メダリスト』のネタバレを含む。)


映画版と、原作小説版の視点の違い。

映画版『国宝』は、「才能喜久雄(吉沢亮)」と「血筋俊坊(横浜流星)」という二項対立、わかりやすいライバル構造を前面に打ち出して、異例のロングランを成し遂げている。

しかし、原作小説が描こうとした主テーマはそこではない。 原作は「芸というシステムが、いかに多くの人間を使い潰し、その代償として美を残すか」を描いている。
真の主役は人間ではなく、彼らに寄生して花開く「」そのものだ。
映画版で敢えて後景に置かれたこの主テーマ、見逃されてはいないだろうか。

受賞ラッシュで沸く今だからこそ、作品の底に潜む「」について語ろう。


芸と血は本来、分離可能。

こちらのnoteは、

  • 『国宝』の主テーマ : 芸 という 情報因子ミーム

  • 『国宝』の副テーマ : 血 という 遺伝子ジーン

の両方に触れた、当事者ならではの美しくも痛切な内容だ。
芸と血が、分離できないゆえの苦しみ、摩耗。

芸と血は、分離できないのだろうか。
この疑問に、本作の主人公・喜久雄は一生をかけて結論を出す。
彼は芸能の血統を持たない。それでも芸の頂点、人間国宝へ至る。
この一点だけで、「芸と血は分離可能」という命題は成立する。
そう見える。


過当競争と伝統の慣性が、分離を阻む。

しかし同時に、本作は別の現実も突きつける。
物心つく前の幼少期から仕込まなければ身につかない所作。
虐待じみた訓練で、身体が覚えるまで反復を強いられる技。
そして一代で完結せず、継承されなければ地球上から消えてしまう表現。

そうした芸は、歌舞伎に限らない。現実世界に数多く存在する。
バレエ、フィギュアスケート、体操、一部の楽器、雅楽、オペラ、京劇。多くの伝統芸能。はたまた、K-POP含めた、アイドルや、一部のスポーツもそうだろう。
これらの身体芸術は、いずれも「後から選べばいい」といった自由や悠長さを許さない。
遅れて始めた人(レイト・スターター)は決して主役になれない。
幼少期から鍛え続けた人(アーリー・スターター)同士の間で生じる熾烈な過当競争が、あるいは閉鎖社会の重くて鈍い伝統、その一部としての血統が、こうした芸の価値を保っている。
厳密に言えば、これは分野ごとに微妙に違う。クラシックバレエやバイオリンではトップ級はアーリー組で完全に占有されるが、コンテンポラリーダンスやピアノではレイト組にも若干の勝ち目がある。そして、血統が要求される分野は、科学の発達、時代の変化とともにどんどん減っている。アーリー組であることは必要でも、血統は必須ではない。それが21世紀の芸だ。

歌舞伎は、部屋子や後の研修所ルートにより「血統が無くともアーリー組なら主役級の実力を身につけることは可能」な分野であり、にもかかわらず「血統が無ければ主役級の実力があっても主役の配役はもらえない、敵役・脇役止まり」という伝統的価値観が未だ立ちはだかる分野でもある。
『国宝』を理解するために、この微妙な位置づけをまず理解しよう。

なんだ、なら結局血統か? ―― いや、それゆえの悲劇もある。
俊坊は「血に守られた勝ち組」ではない。
むしろ、血があるがゆえに、退場できない存在だ。身体に不調を抱えても、簡単には降りられない。周囲は彼を「まだいける」「継がねばならない側」として扱う。
襲名披露公演で血を吐いた半二郎が呼ぶのは実子・俊坊であり、喜久雄は恥じ入り、縮こまる。

だからこそ、劇中の喜久雄の「俺な、今、一番欲しいの、俊ぼんの血ぃやわ。俊ぼんの血ぃコップに入れてガブガブ飲みたいわ」という台詞が、重い。
俊坊の病んだ足に、喜久雄が縋りつく場面が、エモい。

そこにあるのは友情でも嫉妬でも愛憎でもない。
「どちらが生き残るか」というようなライバル関係でもない。

血を議論しておきながら、結局問われるのは、芸がどの身体を必要としているかだという、二重の残酷さ。ここで副テーマ「」の後ろから、主テーマ「」が顔を出す。
奇妙な表現だが、身体芸術とは、芸というミームが、生き延びるために人間の身体を乗っ取って動く様子だ。


犠牲の上に成り立つ美と希少さ、芸の本質。

ここでいうミーム(meme)とは、昨今理解されているような、ネットのバズネタという意味ではない。本来の意味での、生物学者リチャード・ドーキンスが提唱した、人間を乗り物として生存・増殖する情報因子だ。
物理的・生物学的な存在である血統=遺伝子ジーンと違って、情報因子ミームは捉えることが難しい。けれども、映画版ではその実体が俳優の演技の中にはっきり見える。それは本作の偉大な成果だ。

俊坊は、その血、名跡の遺伝子ゆえに、病んだ体を引きずってでも舞台から降りることを許されない。「芸というミームの宿主」だ。

喜久雄は逆に、血を持たなかったゆえに拠り所がなく、芸というミームに乗っ取られ、私生活を、父性を、人間としての幸福をすべて吸い尽くされる。「芸にとって理想の宿主」だ。

芸に必要とされるスターは、多くの場合、ただひとり。
その頂点を、膨大な裾野が犠牲となって支えている。
結果として起きるのは、一将いっしょうこうりて万骨ばんこつ、という構図だ。
1人のスターを育てるために、多くのスター候補が犠牲になる。

非人間的であるがゆえに美しく犠牲の上に成り立つからこそ、希少で重い価値。それが芸の本質だ。
血よりも、芸の方が、さらにもっと不自由なのだ。

  • 『国宝』の主テーマ : 芸 という 情報因子ミーム、もっと不自由

  • 『国宝』の副テーマ : 血 という 遺伝子ジーン、不自由


原作小説が描いた「輝く芸とそのための摩耗」。

吉田修一の原作小説『国宝』は、この構造を徹底して書き表した。

成功者であるはずの喜久雄は、はじめ父親の非業の死を理由として、やがて喜久雄自身の才能を理由に、私生活が剥奪される男として描かれる。
喜久雄は恋愛関係を維持できない。舞台が優先されるからだ。会えない、約束を守れない、生活の見通しを語れない。それでも舞台には立ち続ける。
喜久雄が父になっても、父として振る舞うことはできない。
よりによって幼い娘を連れた場面で、喜久雄は「悪魔と取引」する。

「お父ちゃん、今、神様と話してたんとちゃうねん。悪魔と取引してたんや」
(中略)
「『歌舞伎を上手うならして下さい』て頼んだわ。『日本一の歌舞伎役者にして下さい』て。『その代わり他のもんはなんもいりませんから』て」

吉田修一『国宝 下 花道篇』朝日新聞出版、2021年、p347。太字は引用者。

私生活とその喜びを失い、摩耗することで、彼の非人間的な芸道は艶めいて磨かれ、完成してゆく

喜久雄の成功を支えるために切り捨てられた人生も、小説版ではしっかり描かれる。恋人、家族、子、周縁にいる人々。彼ら彼女らは単なる物語の書き割りではなく、期待し、信じ、耐え、摩耗し、それでも生き続けてしまう生身の存在として作中に存在した。読者はその痛みを知ることで、客席からではなく、舞台裏の冷徹な視点から、芸というシステムを俯瞰できていた。
内縁の妻・藤駒は、喜久雄の成功を支えるために人生を差し出す覚悟を語らない。ただ生活の話、子の話、将来の話を口にする度、舞台の都合が優先され、後回しにされる。隠し子・綾乃は、成長していく。

喜久雄は血を残した。だが、あれほど血を欲しがった喜久雄自身の血は、父と子の人間関係としては成立しない。芸がそれを許さない
このように血と芸の関係が次世代で反転している点が、小説版のすぐれた点だった。


映画が切り落としたものと、選び取ったもの。

一方、李相日監督の映画版『国宝』は、この摩耗の描写を大幅に圧縮する。喜久雄の欲した血と、残した血の反転という意味の構図は、映画版では十分に機能しているとは言い難い。ただし、後で述べるようにこれはエンディングテーマで補完される。

これは尺が足りなかったゆえの苦し紛れではない。もちろん怠慢や失敗ではない。明確な選択だ。
映画版は、原作小説ファンには多少失望されることを承知の上で、その群像劇を捨て、喜久雄と俊坊、そして芸そのものへと焦点を極端に絞った。

観客が「血を持たない喜久雄」という図だけを見るように、家族や恋人の「その後」、父としての責任、周縁の人生は、すべて断片化され、あるいは画面外へ退場してゆく。
その結果、観客は「誰が傷ついたか」を考える余裕を奪われ、舞台の光、所作、喝采、陶酔の渦の中へ放り込まれる。

芸という非人間的システムを二等席・三等席から俯瞰し観察することができた原作小説の読者と違い、映画版の観客は、システムの内部、熱狂の桟敷席に組み込まれた。
李相日監督は意図的に、観客を「熱狂の当事者」にする道を選んだのだ。
映画版の観客は、誰が傷ついたかを考える余裕を奪われ、映像美と役者の所作、陶酔の渦へと放り込まれる。
スクリーンの前で喜久雄の美しさに息を呑み、喝采を送る時、観客はシステムの外部にいる観察者から、システム内部の加害者のひとりへと変貌している。

誰かの人生が犠牲になっていることから目を背け、ただ目の前の美に酔いしれる。その構造こそが、現実の芸を支える「残酷な熱狂」そのものだからだ。


付論1:非人間的な芸道の現実。

本作で描かれるように、歌舞伎役者には舞台の外でも非人間的な生き方、芸道が求められる。
それは常人には困難であり、現実でも数多くの醜聞や悲劇を生んできた。市川團十郎、市川猿之助、中村獅童、尾上菊之助…。普通の芸能人は、活動と私生活はそれぞれ別に注目されるが、梨園では私生活そのものが芸の延長として消費されてしまう。

もし本作が松竹製作であったなら、梨園の人物が主演し、観客にとっては歌舞伎への理解はさらに深まっていたかもしれないが、特定の歌舞伎役者の私生活と重ねられ、作品のテーマよりもそちらに引っ張られて、ヒット映画にはならなかったはずだ。

劇中、吾妻千五郎(彰子の父)役を演じ、本作の歌舞伎指導を担ったのは四代目中村鴈治郎である。
彼のデビュー時にはすでに東宝歌舞伎は終了していたが、本人は松竹と契約しつつ、実父・四代目坂田藤十郎が東宝歌舞伎の中心にいた縁から、東宝への出演・指導に関わったのだろう。
この距離感があったからこそ、『国宝』は単なる業界賛歌にならず、美しさに潜む毒を描ききれたと言える。


付論2:『ブラック・スワン』『メダリスト』との比較

芸を描いた他の作品と比べると、『国宝』の残酷さは頭ひとつ抜け出ている。

D.アロノフスキー監督、N.ポートマン主演の『ブラック・スワン』は、バレエを題材に、芸に身を捧げることが自己破壊と同義であることを、主人公の身体と精神の崩壊として描いた、非常にショッキングな映画だ。

ただしそこでは、破滅はあくまで本人の内面で完結し、彼女自身もまた、その破滅を欲していた。

この点で『国宝』は『ブラック・スワン』よりも冷たく残酷だ。
破壊が個人の選択を超えて、制度として他人の人生にまで波及する


一方、漫画・アニメの『メダリスト』は、過酷なフィギュアスケート競技の世界を描きながらも、それを「強いられた運命」ではなく、主人公が小学生ながら自分自身の決定として積極的に選ぶ物語だ。

だからこそ、努力も犠牲も、主体は常に個人に残る。
痛みはあっても、それは喪失ではなく乗り越える障害となる。

この点で『国宝』は『メダリスト』よりも救いがない
犠牲を自己決定として回収・肯定する余地がないからだ。

2カ月後に公開となる『パリに咲くエトワール』は、果たしてどのように芸を描くだろうか。1912年のパリとなると、バレエダンサーをとりまく環境はきわめて過酷だが…。


付論3:EDテーマ曲に込められた思いとは。

コメントでこの曲の意味についてご質問をいただいた。非常によい問いなので、別稿でもってご回答申し上げる。


まとめよう。

芸は美しく、甘い、しかし毒をもつ怪物だ。

原作小説『国宝』は、芸という怪物が、それに焦がれる多くの人々を、毒で蝕んでいく様子を描いた。

一方、映画『国宝』はその説明を省き、観客自身を怪物の前に立たせ、「それでも美しい」と言わせてしまう体験装置だ。
そのとき、観客は毒の一部になっている。

私たちは映画館を出るとき、問いかけられている。
あの美しさは、人の一生を捧げるに値するものだったか、と。


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