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なぜ私は母親に「子供を会わせたくない」と強く思うのか?拒絶の裏に隠れた守りたいものの正体。

「会いたくない!」
「会わせたくない!」

胸がザワザワした母親からのコンタクト。

どうしてそんなに母親を拒絶するのか。

さらに深堀りしたら、
わたしが「守りたいもの」と
「ひとつのわたし」が見えてきました。


先日の母親からのコンタクト。

わたしが母親に会いたくないだけではなくて、
子どもたちにも母親と会ってほしくない。

そう思っていることに気づきました。

もちろん、子どもたちが会いたいと望めば
わたしはそれを受け入れるつもりでいます。

だけどそうでない限り、
予期せぬ形で母親と子どもが会ってしまう
というようなアクシデントは避けたい。

子どもたちが望まないのなら、
子どもたちに会わせる気はない。

そんな、
けっこう強い拒否反応がありました。

どうしてここまでわたしの生活に
関わってほしくないのか。

改めてそれについて考えて、
気づいたことがあります。

それは、
わたしには守りたいものがあって
だから母親を拒絶している、
ということです。

わたしはずっと
母親の顔色を伺って生きていました。

母親が許してくれそうにないことは
最初からやろうとはしなかったし、
「許してもらえるかも」と思ったことでも
無理だったことはたくさんあります。

はっきりと「ダメ」と言われなくても、
やんわりと「なにそれ?」みたいに
不機嫌な態度を取られたら、
それだけで「なんでもない」と諦めました。

だからこそ、子どもたちには
やりたいことを「やりたい」と言う自由があると
常に思っていてほしい。

状況や条件でやらせてあげられないことも
あるかもしれないけれど、
交渉の余地はあると知っていてほしい。

選択権は常に自分にあると、
分かっていてほしい。

そう思っています。

その思いがあるから、
わたしは母親と距離を取ることで、
わたしと家族の「制約されない行動の自由」を
守っていたんです。

そしてもうひとつ気づきがありました。

今わたしがそれを
必死に守ろうとしているということは、
わたしがずっと「もらえなかった」と思っていた
「制約されない行動の自由」を
今、少なからず子どもたちに与えられている、
ということになるんだなぁ、と。

わたしにはなかったはずのそれを、
わたしから子どもたちに渡せている。

渡せているということは、
今のわたしはそれを手にしている、
ということ。

幼少期のわたしの不足を
今のわたしが埋めてくれた、
そんな感覚になりました。

以前のわたしにはなくても、
今のわたしにあるのなら、
それは「ある」でいいんですよね。

過去のわたしと現在のわたしは
別々の人間じゃなくて
同じひとりの「わたし」だから。

上手く言えないけど、
バラバラだったわたしがひとつになったような、
なんだか「おかえり!」みたいな、
そんな気持ちでいます。


不足の中にいた「過去のわたし」と
手にしていたことに気づいた「今のわたし」。

ふたつでひとつの完成体なのかも。

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