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私が死にたがりを好きな理由-生と死の狭間で-

私は死にたがりの人が好きだ。

それは私自身が死にたがりだから、というのは勿論あるが、他にも理由がいくつかある。

私が死にたがりを好きな一つ目の理由は、
死にたがりの人は、普通の人より「考える」ことが好きな人(もしくは考えないと生きてこれなかった人)が多いから。

私は年齢は記号だとこの記事で書いたが、
思考の年齢は、年齢を気にしない分
結構厳しく判断することが多い。

もちろん思考停止しているひとでも

思考をしたくなくて目を逸らしている人でも

その人の性格や本質が
愛らしかったり愛おしい人は、

思考の年齢が例え幼くても
好きになったりもする。

でもそちらの方が稀で、
やはり基本は考える人たちが好きだ。

何故なら考えるということは
痛みを知っているということだから。

痛みを知っているということは、
それだけ人に優しくできる可能性が
広がるということだから。

私は優しい人が好き。

優しい人には私も何かを返したくなるし、
優しい人が弱ってると助けたくなる。

でも、優しい人は弱い人が多い。

それだけ人から
色んな影響を受けやすい人だから。

私は(優しくもないくせに)弱い人間なので
余計に優しい人には優しくしたいと思っている。

そして二つ目の理由が、
もっと私が死にたがりの人を好きな要素。

それは「死にたがりは、生きたがりだから」。

私の持論では、一番「生」に執着しているのは、死にたがりの人だ。

先日チャットをしている際に
これに関わる話をしたので、
ここでもシェアしたいと思う。

「死にたがりが好きだ」という私に、
その人は、

「死にたい、と死にたくないは正反対だよね?そこを関連づけるには何か理由になる言葉があるでしょう」

と言った。

私は「死にたくない」の反対の言葉は
「死」そのものだと思っている。

「死にたくない」と「死にたがり」は、
反対というより、同意語に近いと思う。

むしろ、
どちらがより「生きること」に
固執しているかと言われると、

それは「死にたがり」の方だと思っている。

「死にたくない」という人たちは、

「生きること」を選んでいるのではなく、
「死」から逃げている(抗っている)のだと
私は思っている。

死にたくない、から生きる。

もしくは死にたくない人の中には、
死に対して鈍感な人や、
そもそも死を意識していない人も含まれている。


このように書くと、私がそういう人たちを
否定的に思っているように見えるかもしれないが、

実はそれ自体は悪いことではなく、
むしろ良いことだ。

なぜなら今まで大切な人の死に
触れてこなかったということだから。

大切な人との別れは、
どんなに自分の中で区切りをつけようとも、
やはり、どこか自分が欠けてしまう。

それでも生き続けていく人がほとんどだし、
相手にカケラを渡しすぎた人たちは
そのまま共に死んでしまうことだってある。

‥少し話がずれてしまった、本題に戻ろう。

「死にたくない」という人たちは、
死を恐れている人たちだと思う。

じゃあ死にたがりの人はどうだろう?

死にたがりの人たちは死に惹かれている人たちだ。

気を抜けば「死にたい」と思い、
一人になると「ここから消えてしまえたら良いのに」と考えてしまう。

何か悪いことがなくとも、
うっすら近くには死が寄り添っている。

死にたがりにとって、死は「救済」であり「ゴール」だ。
本当は何もかも捨てて死んでしまいたい、けど、
色んな理由があって死ねない。

だからこそ、死というものに憧れ、
いつか気がおかしくなって、えいやあ!で、
死ねたら良いなあ、なんて思ったりもする。

それはある意味、
生に固執しているという事なのだと私は思う。

そういう人たちは、色んな方法で
自分が本来手に入れたい「死」を後回しにする。

私の場合は、結婚や妊娠・出産。
仕事や、チャットで行う仲間探し。
それに主従だってそうだ。

全ては、えいやあ!で「死」に向かわない為の足枷。お守り。

死にたがりのくせに、
私のように死を抗って生きる事を選ぶ人は、
味わい深く、そして楽しい。

そういった人たちと話すと、
「一人ではないのだ」と感じる。

そして私の生き方をこうやって曝け出すことは、
また誰か知らない死にたがりの人に、

「あなたは一人ではないのだ」
と感じて欲しいからなのである。

それが私が、死にたがりを好きな理由。
そして私がこのnoteを行っている最大の理由でもある。

#創作大賞2025 #エッセイ部門

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