ソーサツ・チエカがジークアクスから入って初代ガンダムを観た記録

2025年6月から7月にかけて、初めてのガンダム体験として「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」(以下「ジークアクス」)を観たのをきっかけに、初代「機動戦士ガンダム」のアニメをAmazon Primeで一気見しました。以下はその感想の記録です。感想の大部分は以下のツイートのツリーからの転載です。

ジークアクスの感想は以下の記事にあります。


ファーストガンダムを最後まで観ました。これが国民的アニメになるのは納得です。登場人物の表情や台詞回しが、遠回しながら雄弁に心情の変化や人間関係を語っていると思います。前半は戦争の複雑さ、後半はニューエイジ的な精神の疎通の可能性を描いていると解釈しました。

どの陣営でも軍人と民間人が一枚岩でない、つまり国籍とナショナリティが必ずしも一致しないということが前半では強調されていました。一方で戦わなければ死ぬ状況にはあるので、単純に非暴力を叫べばいいというものでもないという葛藤を描くのに、ホワイトベース組の立ち位置は巧みだと思います。

単純な非暴力主義にも与せないという態度は、例えばアムロと母の対立によく表れています。親元に安住することやヒロインと恋愛を成就させること以外のハッピーエンドがありうるかというのは今なお未解決の問題で、ア・バオア・クー戦以降が描かれてもうまく着地させるのは難しかったと思います。

アムロの言い分もブライトの立場もよく分かるので、ブライトが過労で倒れるのも納得です。ブライトのミライへの気持ちなど、明示的でない仕方で語られている情報が多く(これはエヴァなどが元ネタを説明しないのとは別のやり方です)、80年代によく出せたとも、今ならかえって出せないとも思います。

ホワイトベース組の練度が上がっていく様子とともに、アムロがニュータイプになっていく過程も驚くほど丁寧に描かれていて、これが後天的な戦闘技術の延長だということがよく分かるようになっています。それをジオンのニュータイプ計画に繋げるのはやや唐突ではありますが、最後にキッカたちに発現することに説得力を持たせるだけの積み重ねはあります。

アムロだけなら戦闘技術の延長と見えたものが、ララァとの会話に使われることによって、より普遍的な「物理的空間の制約によらず情報を疎通する能力」の一つの表れとして再解釈されるようになります。そして、誰もがそれを潜在的に持っているというのがラストシーンのメッセージだったわけです。

新しい未知の空間(宇宙やサイバースペース)を、人間の精神の新しい可能性を開拓する手段とみなし、その開拓の目的としてより自由なコミュニケーションを据えるというのは、まさに1960~80年代のニューエイジ思想の核心の一つでした。ララァがインド風の外見をしているのはその影響もあるのでしょう。私たちソーシャルVRユーザーもその末裔です。

宇宙空間が単に人体にとって新しい環境だからとか、生身でのコミュニケーションが難しくなったのを補うためとか理屈はつけられるのですが、それ以前に、未知の空間を心の未知の部分と重ね合わせる傾向が人間にはあるらしく、有史以前から呪術や宗教儀礼が洞窟で行われていたのもこれです。

死者の霊が住む霊界というものを認めるかどうかは流派によるのですが、ララァが死んだ後も「いつでも遊べる」と言っているのを、私は「物理的空間によらず情報の疎通ができるのなら、その主体である意思も、肉体によらずこの世に何らかの形式で広がっている」という解釈だと解釈します。

ここで私が思い出すのは、オカルティストのアレイスター・クロウリーが1912年に発表した小説『マグダレン・ブライアーの遺言』(『The Equinox』Vol. 1, No. 9, 1912、邦訳:江口之隆訳『黒魔術の娘』東京創元社、1991)です。これは主人公の女性が、死にゆく夫の思考をテレパシーかサイコメトリーに似た能力で読み取り続けるお話なのですが、ここでクロウリーは、生きた脳による思考からシームレスに繋げて「腐敗していく脳による思考」や「火葬された後の脳による思考」というものを構想しており、極度に発達したテレパシーによってそれを読み取ればどう言語化されるかということを考えたのでした。この発想は私の知る限りチベット仏教にみられるもので、クロウリーはこれを魔術結社の先達でありヨーガを学んでいたアラン・ベネットを通じて得たのだと思いますが、私の言葉で言えば、死者の擬人化ということになります。ララァの描写の背景にあるのはこれと似たコミュニケーション観だと思います。

ともあれ、ララァがアムロにとって初めて深く疎通し合えた相手であると同時に、人類の開闢からの悲願であり、恐らく戦争を止める鍵でもあったはずの「コミュニケーションの革新」の担い手だったことが、それを失ったときの「取り返しのつかないことをしてしまった」という台詞に繋がったのでしょう。これはポケモンの映画「ミュウツーの逆襲」の終盤でポケモンたちが涙するシーンについて、脚本担当の故・首藤剛志が語ったことと実質的に同じです。

シャアが、左遷されてからはやることなすこと空回りするようになってしまったのは残念ですが、それも人間臭さだとして納得することはできます。シャアが無能だったわけではなく、ただ時の勢いが、彼が前線から這い上がって権力の中枢へ近づくことを許さなかったのでしょう。

その時の勢いは間接的にアムロが招いたものなので、ジークアクスでシャアをガンダムに乗せたのはよかったのですが、それでもゼクノヴァという事故がなければ結果はそう違わなかったかもしれません。ガンダムを鹵獲した後のどこまでがララァの差配だったのか、私はまだよく分かっていないのですが、少なくともマチュの行動はララァの予定外だったはずで、そのようなマチュの行動が原作にあった問題を解決するというのは、「何をしても過去の誰かの功績のパロディになってしまう時代に、自分たちに生み出せる価値とは何か」というTV版エヴァからの問題意識を受け継いでいるようにも見えます。

ファーストガンダムを観た後で取り急ぎジークアクスの第2話と第8話を改めて見ると、多くのことが理解できて楽しいですね。ソロモンがソーラーシステムで攻略されたこともちゃんと語られていました。そして、声優さんがどれもぴったりですね。実利を重んじるマ・クベとか……

ガンダムのもう一つの楽しみはメカを憶えることにあると思うのですが、大体全部色が違うのが憶えやすくて有難いですね。逆に、私はしばらくゴッグとアッガイの見分けがつきませんでした。ゲルググも特徴を掴みづらい。ドムとリック・ドムの違いはユンゲラーとフーディンくらいのものだと思っています。

また、日本の漫画・アニメ界隈で使われているミームの元ネタを大量に高速に摂取していくのはジャンキーな体験でしたね。もっとガンダムシリーズ全体に分散しているものかと思いきや、ファーストだけで大量の名言がある。マ・クベの散り際、画面まで壺フィーチャーになるのは、あれは何なんです?


〈以上〉

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