父に名前をつけ直した日、私は「家族」の意味を少しだけ知った。
戦死した祖父「歩人」、その記憶を背負った父「和歩」、そして父を「五海」と書き直した私。
名前とは、血筋なのか。それとも、失われた時間を繋ぎ止める“記憶の器”なのか。
境界線ノート|ランポのさんぽ

祖父の名前は、
「歩人」だった。
だが私は、祖父の顔を知らない。
戦争で命を落としたからだ。
だから私にとって祖父は、最初から
“記憶の中にしかいない存在”だった。
そして父の名前は、
「和歩」。
私は長い間、
「歩」は父から受け継がれた文字だと思っていた。
いや、正確には。
「父から子へ流れる文字」なのだと思っていた。
家を継ぐ男。
血筋。
名前。
日本には長い間、そういう見えない流れがあった。
だが。
後から聞いた話で、景色が変わった。
父は、五人兄弟の末っ子だった。
祖母・すみ江は、五人目こそ女の子が欲しくて、
「和子」という名前を準備していたらしい。
ところが生まれてきたのは、また男の子だった。
そこで最後に、亡き夫・歩人(あゆと)の「歩」を付け加えた。
だから父の名前は、最初から
「家を継ぐ男の名前」として作られたわけではない。
そこには。
女の子を望んだ気持ち。
戦争で失った夫。
五人目の子供。
戦後の生活。
いくつもの感情が、静かに折り重なっていた。
しかも不思議なことに。
長男、次男、三男、四男には、誰一人「歩」が使われていない。
つまり「歩」は、家制度の象徴というより。
“最後に残された場所”へ、
静かに置かれた記憶だったのかもしれない。

そして、私はその「歩」を受け継いだ。
乱歩。
祖父から父へ。
父から私へ。
三世代を流れてきた、たった一文字。
だが。
私は、自分の子供には、その文字を継がなかった。
二人とも、名前は妻が一文字ずつ考えた。
一見すると。
私の代で、その流れは途切れたようにも見える。
けれど最近。
もっと奇妙なことに、気づいた。
私はnoteのエッセイ
「父が海から連れて帰った、小さな命たち」の中で、父に仮名をつけていたのだ。
つまり。
父から名前を受け取った息子が、
今度は父に名前を与えていた。
命名の矢印が、逆転していた。
たぶん私は、父を理解したかったのではない。
父という存在を、
あとから読み直したかったのだと思う。
子供の頃には見えなかった沈黙。
不器用な優しさ。
そして、海から小さな命ばかり拾って帰ってきた理由。
名前をつけ直すという行為は、もしかすると“親を読み直す”
ということだったのかもしれない。
しかも、その仮名には理由がある。
父は五人兄弟の末っ子。
作業船の船長。
五つの港を渡り歩き、人生の中で五羽の野鳥を保護した人だった。
私はそこに、
「五海」という、不思議な反復を見た。
普通。
親が子供に名前をつける時、そこにあるのは願いだ。
まだ何者でもない存在へ、未来を託す。
けれど。
息子が父に名前をつける時は違う。
そこには、すでに終わった時間がある。生き方がある。
失敗も。
沈黙も。
癖も。
背中もある。
だから私は、父の人生を読み返しながら、あとから名前を与えた。
それは、未来への命名ではなかった。
“人生への題名”に近かった。
名前は、所有なのか。
記憶なのか。
名前とは、時々、人を縛るものだ。
支配や所有の始まりにもなる。
けれど同時に。
失われた存在を、この世界につなぎ止める、最後の細い糸にもなる。
戦争で消えた祖父。
その記憶を背負った父。
そして、父を物語として書き直す私。
三世代を通して見ると、私の家では「名前」が、単なる識別ではなく。
“もう会えない誰かを、この世界へ残し続ける行為”
として、静かに流れていたのかもしれない。
名前は、血縁の証にもなる。
だが同時に。
血縁を超えて、誰かを記憶の中へ残し続ける装置にもなる。
親から子へ流れるはずだったものが。
ある日、子から親へ流れ返す。
その瞬間。
「家制度」だったはずの名前は、ひとつの物語へ変わる。
名前とは、所有ではなく。
時間の中で、何度も読み替えられる
“記憶の器”なのかもしれない。
『歩』は、誰のものだったのか。
祖父のものだったのか。
父のものだったのか。
それとも。
戦争で失われた時間を、家族が必死に繋ぎ止めようとした、小さな祈りだったのか。
私はまだ、答えを持っていない。
ただ。
三世代を流れてきた、その一文字は。
今も静かに、
私の中で波の音を立てている。
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