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拝啓、 お元気にお過ごしですか

中学一年生の時に国語科の担当だった守井先生はお元気だろうか。

恰幅のいい中年の男の先生で、艶々の丸顔は趣味だというゴルフで年中いい色に日焼けしていた。
少ししゃがれた低い声にも貫禄があって、公立中学校の教師というよりは 会社のお偉いさんといった風貌だった。

他の先生とはどこかひと味違っていた、というか一風変わっていた。
豪快というか 破天荒というか いたずらっ子のやんちゃ坊主がそのまんまおじさんになったような先生だった。

当時、女子の間では友達同士で手紙を交換するのが流行っていて、そこには大切な約束事や秘密も打ち明け合っていた。
先生は、小さくかわいい形に畳まれた手紙を制服の胸ポケットや筆箱にめざとく見つけては器用にサッと抜き取る。
「やめて!」という声も聞かず、声には出さないものの 授業中のその場で広げて読んで何人もの女子を泣かせたし、テストや発言でつまらない間違いをしていたら 愛のムチだ といって男女かまわず頬を叩いた。
いわゆるビンタを放つ手のひらもまた肉厚だった。
これはテスト返却時の儀式のようにもなっていて、凡ミスであるほど強くたくさん叩かれて頬は真っ赤になるのだった。

これだけを聞けば 今の時代なら虐待や体罰などと言われて問題になってしまいそうである。
当時は教師に頭を叩かれたり廊下に正座させられたりすることは間間あった時代ではあったけど、それよりはちょっと上を行っていた気がする。

けれども そんな調子はずっと変わらなかったので、保護者からのクレームなども恐らくなかったのだろう。
反抗期に差しかかろうという私たちなのに、反抗するなんてことは 誰の頭の片隅にもなかった。


私はあがり症で赤面症で 視線を浴びるのが大の苦手。
鼓動が漏れているのではというくらいバクバクするし 湯気が出てるんじゃないかというほどまっかっかになるし 声は不穏すぎるビブラートを奏でたりした。
なので授業中はいつもできるだけ気配を消すようにおとなしくしていた。
なのに、手を挙げてもいないのに、やたらめったら当てられたのはわざとだったに違いない。
タコが茹で上がっていくように見事に赤くなっていく様子を先生は面白がっていたのだろうか。


嘘かほんとかわからないけど、フランスに行って困ったらこう言えばいい と言って「ぎゅうにゅうてんぷらパン〜・・・」ほらもっとフランス語っぽく!とレクチャーされて 何度も何度も言わされたり、はい 力抜いてー と言いながら、後ろから私の頭を整体師みたいに回しはじめたと思ったら 急に首をゴキッッとされて思わず悲鳴を上げたりした。

例のごとく手紙を取られて、必死で取り返そうとすると ひょいっ ひょいっ とうまく躱されて、ついに涙目になった時には「泣き顔はブサイクやねんから お前はわろとけー!!」と言われる始末で、悔し悲し恥ずかしい三拍子はなかなかの苦行だった。
先生の福々しい耳たぶを砕くほどに見つめていることくらいが 私の精一杯の抵抗だった。

けれどおかげさまで、それ以来 人前では絶対に涙を見せなくなったのだから、強くしてもらったのかもしれない。
(最近は涙腺の老朽化に伴い こらえても溢れたりする。)
笑われてなんぼ! の精神も随分ここで鍛えられた。
今となっては そんな素質を見抜かれていたかなとも思える。


まぁそんな調子なので、先生のことを苦手だという友達も中にはいたけれど、いつもあっけらかんとしていてなぜか憎めずに 不思議と人気があって、私も嫌いにはなれなかった。

ビンタも 折角の努力が身になっていない時の愛のムチなのである。
勉強をまるでしていないことが明白な場合には、ただ答案用紙をそっけなく返されるだけだ。

先生の手がほっぺの横にスタンバイされると、みんなまるでメダルでも授かるかのように 粛々と向き合って、なんだか少し誇らしげに顔を差し出すのだった。

やっぱりこわくて目をつぶって ぐっと力を込める。
けれども 大きく響く音ほどは痛くないことを、ビンタを経験した生徒たちは知っている。
あんなに上手なビンタをどこで習得したのだろう。
教員試験にはまさかあるまい。


いい意見や答えには「ツケ一丁!」と威勢よく指を一本高く掲げて ツケと呼ばれる “貸し” を付与する。先生が “借り” をつくった格好だ。
そして肉厚なあったかい手と握手を交わす。
交渉成立。
この「ツケ一丁!」はたぶん最上級の賛辞、褒め言葉だったのだ。
もらえた時にはとても誇らしい気持ちになった。

ツケは貯めておくことができて、いざビンタの段にツケを使って免除してもらうことができるシステムだ。
切り札となるツケを貰うために、みんな頑張って勉強するし 考えるし 発言しようとするのだから、私たちもまだまだ素直でかわいいものだった。


授業は脱線や雑談も多く、はちゃめちゃも予測不能で 妙な緊張感はあったけれど、だからこそ あの年頃の私たちには刺激的で面白かったし、飽きることなくみんなの視線は常に先生を捉えていた。
文句を言ったり、居眠りや早弁なんてしている暇はどこにもなかった。

そんなことばかりが蘇って 真っ当な授業の風景はあまり記憶にないけれど、美しい字でとても丁寧な手書きのプリントを作ってくださってたり、説明や添削が簡潔、明瞭でわかりやすかったことは覚えていて、成績が伸びた人も多かったんじゃないかと思う。
本や文法が大の苦手だった私も、いつの間にか国語が少し好きになっていた。

先生は愛とムチ、勉強と遊びを 傷にならないギリギリのところでバランスを絶妙に計算し、生徒を惹きつけ学習させ成長させていたのだ。
実は一人一人のことをしっかり見据えて 微妙に加減してくださっていた気ようなもするし、先生自身もドライブするみたいな感覚できっと楽しんでおられたのだと思う。
兎にも角にも 奔放でユニークな教育手法なのだった。


当時で50過ぎの印象なので、もしかしたらもう80歳をこえていらっしゃるだろうか。
中学卒業後も十数年は年賀状のやり取りをしていて、印刷に加えていつも直筆で一言添えてくださっていた。
いつだったか『本年をもって新年のご挨拶を控えさせていただきます』と 印刷だけの静かな賀状を最後にこちらも控えるようになり、もう随分前に音信は途絶えていた。


今になって 自分の人生の過去・現在・未来を考えた時、点々が一筋の線になって流れたような感覚を覚えた。
キーワードは “ことば ”
ことばを伝え、誰かを笑顔にしたいという想い。
生まれて初めて夢ができた。

その過去の出発点に 先生の姿が浮かんだ。
居ても立ってもいられなくなり、頼みの綱となる古い住所に手紙を出した。
思い出と感謝と夢を綴り、封筒の裏には中学校名と旧姓も添えた。
もう覚えてはおられないかもしれないし 届かないかもしれないけれど、そうせずにはいられなかった。


少々手荒ではあったけれど、大切な教えと思い出をたくさんいただいていた。
そんな驚くべき凄腕に 後々気付いて心に留めているかつての生徒たちもきっとたくさんいるはずである。

私はこれからも 多少のことではへこたれず、ブサイクな泣き顔はなるべく見せず、先生の教えを胸に 笑顔で前を向いてゆく。
もしも再会を果たせる時には泣いてしまうかもしれないけれど、その時には顔を隠せる大きめのハンカチを持って会いにいこうと思う。

どうかお元気でありますように。

フランスに行ってすごく困った時には、多分すがる思いで「ぎゅうにゅうてんぷらパン〜・・・」と言うと思う。
もしも笑われた時には 先生のせいにする。


***


七夕の雲の帳の向こうの星を探るように、
会いたい人をひとりひとり思い浮かべました。
どうかいつか
どうかはやく
会えますように。

かしこ。


#28. 『 七夕 』

⭐︎ 天の川 雨見つかじるカステラのザラメのごとく底にひそめり

⭐︎君がため短冊もなく笹もなくジャドウを赦すドウダンツツジ

        ー ちる ー



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