私は「知識人」をまるで信用していない (第2版 とりあえずイリイチの「脱学校の社会」の私の昔書いたAmazonレビュー転載)
私は、すでに何回も書いてきたように、「結果的に」東京大学大学院研究生というのが最後の学籍である。
上の記事で、真っ正直に書いたけど、共通一次試験は、かろうじて地方国立大学の補欠合格はしたが(もともと関東の大学に進み家を出るつもりしかなかったからこれは辞退)、国語は200点満点200点だったが、数学に至っては、全国平均200点満点140点だったのに70点台というくらいであった。
だから、立教大学大学院で師事した村瀬孝雄先生が、「西の河合隼雄」に対応する形で、臨床心理士資格化のための永田町と交渉する役回りを突如求められて「強引に」東大に移籍させられなければ、とても赤門をくぐる生活に入れてはいない基礎学力である。
世界史も特に勉強したつもりもないのに全国模試50位くらいだったから、私は明らかに学習障害(LD)のところがあるのだと思う(ADHDでもあるが)。
いろんな分野の本を読むが、唯一頭に入らないのは近代マクロ経済学の分野である。「円高」とかの類の話は普通のサラリーマンよりちんぷんかんぷんなままだと思う。
それでもなぜか、トマス・ピケティの「21世紀の資本」だけは、クソ面白く読んだ。だからMMTについては一応理解しているつもりである。
要するに、お札はいくら刷ってもいいわけだ。
それをもとでに、労働者の給与を上げる。
社会保障を充実させる。
そうすれば消費は増えるから、企業は儲かるわけだ。
そしたら、企業は労働者への給与を上げるという良循環になる。
当然物価はあがるので、それに伴って年金などの社会保障もupするようにコントロールしておく必要はあるが、日本なんて欧米より物価はるかに安いから、そのまま物価が上がるに任せていき、それに伴い賃金も上がれば、今度は欧州で楽に暮らせるくらいの賃金水準になり、欧米製品輸入しほうだい、日本の商品も高く売れる、日本に来た出稼ぎ労働者は無茶儲かるわけで、みな万々歳!
・・・というのが、私のピケティ理解ですが、単純化しているとは思うが、大筋外れてはいないと思います。
その意味では、MMTの急先鋒のれいわ新選組の山本太郎氏が、解散総選挙を控えて、難病治療最優先とのご判断で議員辞職されたのは、まことに残念です。
正直に言って、私の最終的な夢は、れいわから比例代表立候補して、山本さん首相の内閣の下で、河合隼雄先生に続く文化庁長官になることでしたから、これはちょっとショックなんですよ(大真面目)。
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私を知能検査したらどうなるかわかりませんが、私自身評定スキルを持つ、ロールシャハテストでは「形態水準の高い人間運動反応(M)」を山のように出す・・・ということは確かなはずです。
これが何を意味するかは、心理検査に詳しい方におわかりでしょうから、ここでは言及しませんが。
ちなみにエゴグラムをとったら、5つの領域すべてが高水準で、ややCPとACが落ちる逆U字型にきれいになります。つまり社会規範より個人としての、家庭人としての幸せを大事にする、私生活優先社交タイプ(しかも高エネルギー型)です。
あちこちで書いてますが、親戚とかからは「神童」と言われて育ち、長じても、フォーカシングの世界的代表者である池見陽先生ですら、私の存在を恩師村瀬孝雄からはじめて知らされた時「天才が現れたよ」と言われた、と池見先生自身が、かなりあとになって語ってくださったわけで。
うーーーん。
やっぱ、
「私が俗にいう天才です」
なんでしょうかね?
Adoさん自身がミュージシャンの中で、米津玄師やYOASOBIとならぶ現在のJpopの天才的存在であることは間違いないと思います。
そして、この歌のメッセージって、
はりぼての「大人社会」にもまれながらも、周囲におもねることなく生きている人たちは、みんな自分のことを「天才!」と宣言するくらいの自己肯定感持っていいんだよ
ってことなわけで、だからこそ幅広い層の人たちの心に届く、空前のヒット曲になったわけですが。
この歌をカラオケで歌う時くらい、「私が俗にいう天才です」って絶叫しな!っていう。
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それこそ、「迷宮のしおり」で、プロデューサー加神がつぶやくセリフでありませんが、天才(インフルエンサー)かどうかは「(周囲の)人が決めること」です。
だからそのへんのことは、個々の読者の皆様のご判断と、これからの「歴史」に丸投げしておくのが、一番謙虚なあり方かとは思います。
でも、私は私なりに、老若問わず、見識のある、すばらしい皆様に、リアルでもお会いする機会があったし、そういう皆様には素直に敬服と称賛を捧げてきたつもりです。
しかし、少し接するうちに、
「あれ、この人意外と・・・」
と平凡な面に気づいて行き、時には深刻な失望に終わることも少なくありません。
ただ、狭い世界で「信者」に囲まれて、「小っちゃなプライド」にこだわる、結局はナルシスト。
自分の間違いや限界を認める謙虚さがまるでない。
ちなみに最近直接お会いして、一番凄いと感じた人、つまり、「天才」の領域に近いと感じたのは、文句なく、
河森正治
さんです。
こんな人、会ったことないよ。
正直、私の「心理業界」には、いません。
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私は、自頭(ぢあたま)がいい、というタイプの典型だと自分のこと、思ってます。
つまり、学校でお勉強して、知識を蓄えて作り上げたという意味での「知性」の人間ではない。
そもそも塾というものに通ったことはない。
高校時代の英語の先生は、授業中あてられて答え間違うと机の上に正座させるという、今では考えられないスパルタ式受験対策の先生で、その先生にだけはついて行こうと頑張り、ついに1年間、実際に正座させられたこと、1回きりまで頑張りましたが。
あとは、全部自学自習の人です。
しかも、問題集をたくさん解くのではなく、いろいろな受験参考書を自分のノートにまとめなおすというのが、私の、自然に身につけた勉強スタイルでした(これ、皆さんにお勧め)。
問題集を解くのは、実力確認のための仕上げに過ぎないわけです。
私は、ジェンドリンの「フォーカシング」と「人格変化の一理論」(現在「セラピープロセスの小さな一歩」所収)を、心理系大学院に入る前にひとりで正確に読破し、誰にも学ばずにひとりでフォーカシングを身につけ、翻訳の誤り(私が翻訳書を読んで、違和感を感じた箇所は、英語の原文と照合すると、たいてい誤訳)を村瀬先生にどんどん指摘し、そのある程度は現行版で修正されている(だだし、完全にではないです)というのは、フォーカシングの業界では知る人ぞ知る伝説の一部です。
フォーカシングを「身につけて」からは、私はおよそ何を学び、何を体験する際にでも、頭で「理解」するのではなく、身体で「馴染む」というやり方があたりまえになりました。
つまり"technique"「技術」ではなくて"skill"「技能」として学ぶということ。
この「技術」と「技能」の決定的な違いについては、科学哲学者、ポランニュイ・ミハイ―(マイケル・ポランニー)の「暗黙知の次元」に詳しく書いてありますので、ご参照を。
恐らくこの本については、今や私が日本で一番解説書くとうまいと思うから、遠からずここで独立したエントリーで書くことはお約束しますが。
先ほど、私の「知」は、恐らく学校という空間ではほどんど養われてはいない、と書きましたが、この点で、私が高校性の頃、非常に刺激を受けたのが、イワン・イリイチの「脱学校」論でした。
この、一世を風靡した著作についても、うーん、今の日本のレビューの多くは、核心をつかんでない気がする。
この著作の、真の「恐ろしさ」を素通りしている気がする。
なぜ、イリイチが、社会は「学校化」されている、という、有名なテーゼを言い出したのか、という、その重みと切迫感を、それこそいい大学の大学院をお出になって大学で教職を得られ方は、わかってない気がします。
この本も私がここで一回、エントリーかけてレビューと解説、いずれ書きますか!!
では、今日はこれくらいで!!
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【追伸】:
今確認したら、「脱学校の社会」のAmazonレビュー、私17年も前にしっかり書いていたわ。忘れとった(大爆笑)
そのままコピペして転載しておきます。
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5つ星のうち4.0 この著作を読む読み手自身の読解力がすでに「学校化」されていたのかも
2009年4月19日に日本でレビュー済み
フォーマット: 単行本
すでに30年近く前にこの著作に接したが、インターネットの発達という好機に恵まれたにもかかわわらず、日本ではひたすら「社会そのものの学校化」が進行したにとどまってしまった。
この著作は結局「日本的」受験勉強に骨の髄まで侵され、ゲームを楽しむにもまずはゲーム攻略本という「教科書」を読んでしまう日本では、大学出の「反体制知識人」にすら、牙を抜かれた形での理解しかなされないままになったのではないかと危惧している。
つまり、この「脱学校論」そのものが、特に日本では、単なる「フリースクール」論、公教育否定論、自学自習(自己学習)論、反体制的教育論として「誤」読解されるにとどまったこと自体が問題だ。
これでは、イリイチの言う、社会全体がすでに「学校化」されている、という言葉の骨がらみの核心に手は届いていないのである。
イリイチ自身が、自らこの「脱学校」コンセプトを最初に公表して以降、そうした誤解に苦しみ続けたんだことは、まさにこの本の中のあちこちですでに漏らしはじめているにもかかわらず.....である。
敵は単に公教育にあらず。学校社会ですらあらず。
イリイチの活躍舞台である中南米のカトリック社会において「解放の神学」が、紆余曲折を経て、ささやかな成果を教皇庁からもぎ取るまでの深刻な苦闘を、日本人は結局実感としてわかっていない。
こうして、日本の『脱学校論』理解そのものが、イザヤ・ベンダサンが『日本人とユダヤ人』でいう意味での「日本教徒・脱学校派」に過ぎなくなったのだ。
これを読むあなたのものごとの学び方や問題解決様式そのものが、すでに「学校化」されている.....のではないことを祈る。
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