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「現実」と「フィクション」の弁証法 : -「みいちゃんと山田さん」「魔女の宅急便」によせて-


いろいろな方とその後X上でやりとりを重ねて、私が、フィクションにおける「リアリティ」について、日頃から当たり前の前提にしていたけど、言葉で他の人に伝えたことがない、恐らく重大な問題提起を、相当な長文で書けることに気づきました。

これは実写アニメ関係なく、また、映像作品てはない小説にも当てはまる、かなり根源的な問題提起であり、「現実」とは何か?現実に対抗(あるいは「補完」)するものとしての「フィクション」の存在意義、という、恐らく「文芸評論」における根源的なテーマであるばかりか、哲学的にみても大変重要な問題と思います。

これに関しては、あるXアカウントの方への連投レスとして途中まではかなり的確に書けたかとは思いますが、その「完成形」を、その方とのX上でのやりとりの形は取らない「書き下ろし」で書いてみたいと思います。


アニメ雑誌読者投稿欄常連になった三十数年前から、商業出版単著である「エヴァンゲリオンの深層心理」、同人誌「ウマ娘の精神分析」、「私の<推しの子>論」を経て、その後の、このnoteにおける記事まで、ある意味で一貫している、私のアニメ作品論の非常に特徴的なところは、アニメの登場人物を、まるで実在する生身の人間であるかのように感情移入した上で心理分析するというスタイルにあります。

他の皆様もこうしたスタイルでアニメの感想をお書きになること自体はありふれていますが、私ほど頑固に徹底的にこのスタイルを守っている人間がいない、という自覚はあります。

これは、読者によっては、かなり奇妙で違和感のあるスタイルという自覚もあります。

「こいつ、現実と虚構の区別ができとるのか?」

という影の声があることなんて、先刻承知なわけで

私としては、

「は?私から見たら、あなたの方が現実と虚構(ファンタジー)の混同をする「害悪」を平然と「現実の対人関係」で垂れ流していそうな気がするけど?」

と言いたくなるくらいなんですが。

私の方が、「現実」と「虚構」との関係の危うさに非常に自覚的でクリティカルな生き方しかしていないんだが?

とも。

この「現実」と「虚構」の弁証法というテーマは、本格哲学で言えばプラトンのイデア論に遡れ、私が大学哲学科学部生時代に原典購読の講義を受けたカントの「純粋理性批判」における「現象」と「物自体(Ding an sich)」についての論議を経て、ヘーゲルやマルクスの「弁証法」、そしてディルタイの「生の哲学」、ラッセルとホワイトヘッドの数理論理学における、論理「階層」論、そして私の専門で日本有数の理解レヴェルを自負するジェンドリンの体験過程理論という、現代哲学における最前線まで、営々と積み上げられた歴史的展開という普遍性があり、日本では柄谷行人の「概念の物神化」概念と響きあうのですが、この後書く書き下ろし論考は、こうした哲学史的背景は全く言及せず、わかりやすい自分の言葉だけで、何も参照せずに書きますね。

鍵なのは、私が「現実それ自体」「リアリティ」体験を、全く別次元のものとして区別していることです……というのが予告です!


 「みい山」についての私の最初のエントリーでも書きましたが、

よい子の皆さんの大半は、それが漫画だ、フィクションだということは分かってしか楽しんでいない。

「クレヨンしんちゃん」を観てチンチン丸出しで歩き回ったり、お尻ブリブリを本格的に始めてしまう幼稚園児は例外的でしょう。

ましてや、「鬼滅の刃」を観て、実際に人を食べてしまったという話は、さすがに大人のケースですら、まだ聞いたことはありません。

つまり、幼稚園児ですら、フィクションの中で体験したことは、現実ではそのまま通用しない、フィクションはフィクション、現実は現実という区別はしっかりできているということです。

少なくとも、

「これから始まるのは、あくまでも<物語>ですよお」


と明確にわかる、「枠構造」が示されていた場合、人は、あくまでも「物語体験モード」でしか、その物語を体験しないように「スイッチが切り替わる」ということです。

ところが、一旦この「枠構造」を受け入れてしまうと、今度は思い切って「物語世界」のなかに自分を投企(コミットメント)させ、まるで現実に起こっていることであるかのように(as if)、思う存分没入できるわけですね。

空は当たり前のように飛べる。

子供から大人へと変身できる。

これは、全くしなやかな形で、物語世界を「リアリティ」を持って体験しているということなわけです。

もちろん、実際に空を飛び、急上昇したり方向転換すれば、身体にものすごいGがかかり、吐き気すら伴う可能性はあります。

そこまで克明に描いてしまうアニメ作品もありますが、大抵は、ある程度身体に重力の影響がある、程度の描写のみですね。

このあたりの塩梅があまりにも絶妙なのが、「魔女の宅急便」を始めとする宮崎駿さんの作品の飛行シーンだということはいうまでもありません。

私もつい先日、「魔女宅」4Kリマスター上映をキャナルシティ博多で堪能してきたばかりです。

同じ席で、「まどマギ」復活上映と連チャン

ただ、「魔女宅」のもうひとつの、よりコアな魅力って、キキの思春期の女の子らしい気持ちの急激な変動が「クソリアル」だというところにあるかと思います。

このあたり、

「中年男性作家である宮崎さん、よくぞここまで描けたな、下手な少女漫画でもここまでエグくは描いてないのはいっぱいある」

と女性の観客の方すら感心する域
かと。

女性だと、もう理屈抜きで共感できる域みたいですね。

の私は、あれあれあれ?と、むしろそれに翻弄されるというか、まさに物語の中のトンボの側の鈍感さに自分は近いかな?と感じるわけですが、それでも、男でも思春期に体験した傷つきや、気持ちの変化がむやみと振幅あった思い出から類推できなくはないし、私も私なりに別れた妻を始めとする女性との関わりで相手の「気まぐれ」さに当惑し、おろおろしながらも何とか理解しようと心を砕いた経験の中で、かろうじて見えて来た、キキのような女性の内面世界の追体験シミュレーションはあるわけですね。

☝️♫またあなたの 気まぐれが 動き出した♫

「愛はブーメラン」

足の悪い上品なおばあさんが、孫娘の誕生パーティにお手製の魚のパイを届けてもらおうとキキを呼ぶわけです。

ところが電気オーブンが動かない。キキの、薪をつかった古い竈なら自分には調理スキルがあるという機転で、パイは見事に完成しますが、そのぶん時間がかかり、予定時間ギリギリにやっとパイ持って箒で飛び立つ。

折からの急な驟雨でキキはずぶ濡れ。

たどり着いた邸宅の扉を開けた孫娘は無愛想にパイを受け取ると、

「私このパイ嫌いなの。何度言ってもわかってくれないのよね」という娘の呟きと共にドアを締められる。

キキがこの街に来てはじめて体験する人の冷たく辛辣な側面。

もう理屈抜きでキキの傷つきと絶望が伝わる。

竈を使ったパイ焼き上げ騒動、急な雨に打たれ、身体を冷やした上に疲労とストレスを経て、やっとのことで下宿先のおソノさんのベーカリーに戻ったキキが重い風邪で寝込むのは当然の流れとして受け止められます。

……ここまでは男の私でもすんなりキキに感情移入していけるわけだ。

問題は、この後の「ダメ押し闇落ち展開」の方ですね!

 幸い風邪からは短期間で回復し、おソノさんの粋な計らいで、雨の日にデートすっぼかしたトンボ宅にパンを届け、プロペラ駆動自転車二人乗りでスリリングな道中(ここでまた宮崎さんならではの反作用Gへの身体の対応リアリズム描写の巧みさ!)を経て、海辺に係留された飛行船のを二人で見上げた…までは、カップルとしては万事順調!

ところがそこにオープン・カーでトンボの仲間たちの男女が現れ、トンボと話し出す。

…ここでキキの態度突如豹変。

トンボに急につっけんどんになり、1人で歩いて帰り始める。

ここ、トンボに限らず大抵の男が置いてけぼり喰らいかかる急展開だと思うけど、実はこここそが、私はこの「魔女宅」という作品における宮崎さんの「凄み」が集約された、極限・究極ポイントと思うわけです。

敢えて男の私なりに、たどたどしくですが、言語化してキキの内面を説明すれは、「例えば」次のようにも絵解きできる。

キキは前からトンボの友達のヤンキー的ノリには違和感ありました。だからそもそものトンボとの最初の対話の際もツッケンどんだったわけで。

キキはこういうリア充系の同世代のノリが、この時点では体質的に合わないというか、生理的にダメ、ましてや、これまたリア充系の、老婦人の孫娘のキツい呟きに抉られ、そこからやっと立ち直ったばかり。

オープンカーに乗った仲間とトンボが談笑し始めた瞬間、キキの中には、

「…あ、やっぱりあんたも<あっちの世界>の住人なのね…
…わかった、あんたなんて要らない!」


セリフにはなってませんが、こんなあたりですよね。

ここには実は、故郷の町から遥か離れて来た「異邦人」、かつ、「魔女」という特別な存在であるキキならではの孤独と疎外感、ある意味で「嫉妬」が布置されているわけで、ほんとはキキもトンボたちの仲間の輪に入り、一体感得たかったのは当然ですね。

でもここでキキか突っ張るしかなかったこと……それは、キキがただの子供のピュアなだけの幼い自我から、自分のホンネは自分で労り、守り、自分自身の味方になりつつも、異質な存在ともうまく折り合いをつけるスキルという、思春期の社会性のある自我に少しだけバージョンアップするためには、やむを得ない、反抗的気運だが率直な自己表明、本音のままにふるまった、態度としての拒絶ではあったわけです。

しかし、その「毒」がキキの身体に一度回ってしまい、キキの生まれついての「血のなせる技」(ウルスラとの対話参照)だった飛行能力という魔法喪失の危機を迎えたのは必然とも言えます。

このあたりの宮崎さんのストーリー構成のリアリズムは、もう「神業」というしかないわけですが。

恐らく宮崎さんは自らの若い日々の多感な経験と、アニメスタッフの若い女性たちの人間観察だけを素材としてこうした展開を思いついたのであり、他のフィクションの影響とかあまりないんじゃないか?  

それが宮崎さんのフィルモグラフィのなかても、リアルな心理描写という点では明らかに飛び抜けている、この「魔女宅」という作品固有のもち味の背景にあるものではないかと、私は想像します。

(未完)


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