「みいちゃんと山田くん」アニメ化問題についての私の包括的見解【大幅増補 第2版】
https://note.com/chitose1960/n/nc2c7f64e68e8
私の過去記事のメッセージすべてを総括した、文句なく「最高傑作」という自負があります。
私は心理カウンセラーであり、ADHD当事者(週1ペースという、恐怖の忘れ物の多さで、交番と警察署本庁では呆れられています)、更に、精神障害者作業所で勤務してもいます。
そうした私にとって、この作品のアニメ化反対の意見の多さは、全くもって理解しかねる動向でした。
Xではここ数日、この論争に積極的にコミット、誤解を解くために誠意ある辛抱強いやりとりを続けています。
中にはそうした やり取りで消耗してしまって、論争から降りてしまう方も少なくないのですが、その一方で、私のささやかなエンパワーメントで、むしろのびのびと自分の考えを展開しておられる方も増えてきていて、非常に充実感を感じていると言っていいくらいです。
フェミニストの活動家など、女性差別的な表現規制の問題に関連付けて大変厳しい見地をお持ちの方にすら、こちらの趣旨を理解していただき、差別と戦うものという共通の基盤で連帯できるケースすら出てきました。
おっしゃる通り、この作品のアニメ化をしない方がいいというご意見は、この作品が障害者への偏見を増し、差別を深めかねないという危機感をお持ちの方が多いのです。
そうした危惧をお持ちになるのも理解できなくはない。
なぜならここで描かれている登場人物たちの生き様は、全く美化されていません。
あまりにシビアな現実が、淡々と当たり前のように描かれていくわけです。
ところが、これが、福祉サービスにすら容易に繋がれない、底辺の障害当事者の実態そのものなんですね。
もちろんフィクションであり、コミックですから、誇張された表現がないわけではないですが、現実の様々なケースを組み合わせれば、まさにこの物語で描かれたような展開はごくありふれているとも言えます。
この作品のアニメ化に反対する皆様は、そもそもそうした現実をご存じなかったから、ショック受け、慌てふためいておられるとも言えるかもしれません。
こうした登場人物たちの生き方が許せないと感じる人たちの心境も理解できなくはない。
しかし、ちょっと待って!とは言いたくなる。
世間は、「かわいそうに」と憐れみや情けをかけてあげる気持ちになりやすい、優等生的な障害者のイメージを、現実の障害者に押し付けようとし、期待することによって、実は障害者を更に苦しめていることに無自覚だと思います。
単に自分の観たくない現実に蓋をしようとしているだけなのです。
これは障害当事者をリアルワールドからも「透明化」、すなわち、「存在しないということにする」という、最悪の「差別」であることに気がついていないわけですね。
障害者差別を生じさせたくないという理由でのアニメ化中止運動が、実は障害者差別であるという、メタ次元でのダブルバインドであることになかなか気づかない。
そういう優等生であるべく、決死の努力を血の滲む思いで積み重ねてきた障害者の方々にとっては、この作品で描かれた世界を肯定することは、虫が好かないことかもしれないというのは理解したい気もしますが、障害者どうしが内ゲバをしていても、何か悲しくて、寂しいことではありませんか?
真の敵はどこにいるんでしょう?
インターネットがあまりにも発達した結果、人々は、電車の中でもスマホの画面にばかり集中しており、スマホさえ覗いていれば世界のすべてがわかるという幻想の世界の中にいます。
その結果、自分の目と耳と足で他者と関わり、世界を広げ、自分の感性で物事を判断する能力全体が衰退しています。
もちろん 人々は、スマホの外側に、簡単に説明したり理解したりできない、複雑な現実というものが横たわっており、そうした現実の中でなんとかサバイバルしていくしかないわけで、そのことの困難性に日々直面しているわけですが、現実にはネット依存の深まりが、そうした現実に対処する経験値の深まりを阻害していくわけで、いよいよ現実に対して活路を開くスキルを形成できなくなり、対人関係は未熟になる一方という悪循環なわけですね。
私も様々なバイトの面接や採用、そしてクビになるという経験を重ねる中で気がついたのですが、今日雇用者側は、採用する当初から、マニュアル化された段取りにすぐに適応でき、上司や同僚にも非常にそつなく対応できる、すでにバイト・ロボットとして完成された人材を求めすぎています。
失敗しながら学んでいくというプロセスを見守っていくという余裕を喪失してしまっているのです。
これは悪循環以外の何物でもない。
そうやって、そつなくすぐに職場に適用できるような人材は、より条件のいい職場が見つかれば、適当な理由をつけて、すぐにあっさり移籍してしまうことは言うまでもないわけで、採用して使い物になりそうもなければ即解雇、常時新人募集中という、採用と解雇あるいは自発的な退職のいたちごっこになってしまっている。
こうしたロボット、あるいはアンドロイドを雇用するかのようなあり方に一番不適応を起こすのが障害者です。
こうして特に女性の場合、生活の糧を得るために、この物語で描かれているような、いわゆる「夜職」に流れつきたくなる誘惑はたいへん深刻なものとなります。
自発的にそうした世界を志願しなくても、優しい言葉をかけてくる、そして当初は金銭的なあるいは物質的なサポートもして、場合によっては性的な喜びすら与えてくれる形で巧妙に夜職の世界に誘い込もうとする、まさにこの物語で出てくるような「女衒」に騙されていくという構造もあるわけです。
もし自分が若い女性だったらどうだろうかと思うことがあります。
風俗の求人というのも、どんな世界か確かめてみようということぐらいはするでしょうし、面接の1回ぐらいは受けてしまうかもしれない。
ましてや、異性経験の乏しかった自分に対して優しい言葉をかけてきて美味しい食事を食べさせてくれ 抱きしめてくれ性的な喜びも与えてくれる存在の言うことを信頼して夜職の世界に飛び込む冒険という流れは、十分に自分でもあり得ると思います。
風俗の仕事で働く人が実はホストに貢ぐという悪循環パターンにはまりやすく、実はホストクラブとソープ等の風俗営業店が同じ経営者であるという、何とも搾取的な経営がなされていることはすごくありふれているわけですね。
金銭感覚は麻痺、心身がボロボロになっていくのをわかっていながら、そして相手の男のずる賢さには当然 気がついて行きながら、それでも相手に心も体も依存してしまい、物欲と男に体を差し出すことに明け暮れる毎日。
人間というのは恐ろしいもので、「生き物」というのは、それがどのような環境であろうと、そこにささやかな喜びと充実感を見出そうとするものです。
こんなことなど、例えば戦争や紛争地帯やスラム街を描いた映画で、普通に描写されてきたことがらです。
この作品のアニメ化を反対する人たちはそうした実写映画やドキュメンタリーの類を見たことがないのだろうか?と不思議な気持ちになります。
いや、大抵の人は多少は見たことはあるわけで、そうした時には、たとえそれが自堕落でクスリに溺れた娼婦の世界であろうとも、彼女のささやかな喜びの世界に思わず共感し涙したことがあると思うんですよ。
しかし、それが、「よい子」も目にする可能性があるアニメというフォーマットになってしまうと、途端に正義の味方の道徳観に満たされた存在になってしまう。
しかし、よい子の皆さんの大半は、それが漫画だ、フィクションだということは分かってしか楽しんでいない。
「クレヨンしんちゃん」を観てチンチン丸出しで歩き回ったり、お尻ブリブリを本格的に始めてしまう幼稚園児は例外的でしょう。
ましてや、「鬼滅の刃」を観て、実際に人を食べてしまったという話は、さすがに大人のケースですら、まだ聞いたことはありません。
犯罪を犯した人物が自分がそうなった動機として、ビデオ等での暴力シーンやレイプシーンからの影響を口にすることは少なくはありません。
果たしてそうした映像体験がどれだけ現実の犯罪を引き起こすかというのは、私が専門とする心理学の領域でも、確かにエビデンスのある研究結果はいくつも報告されているのですが、そうした研究データを解析・検討する際に用心すべきなのは、そうした研究は多くの場合、本人への面接や質問紙等による自己申告に基づいてなされていることが多いです。
意外と、巧妙な実験計画を立てて、行動主義的な、実験群と対照群のある実証的な統計的な検証に耐えるリサーチというのは、見つけるのが困難です。
なぜなら、そうした実験を行うことが、仮にそこで暴力やレイブにあたる行為を受ける側とされるのが、虚構の映像内の存在だったりAI だったとしても、実験を受ける人物自身の中に、実際に暴力性を喚起し、女性に対する性的な歪んだアプローチを学習させてしまうという結果に至る可能性も高いわけで、そのような実験は、心理学の世界では倫理上禁止されています。
そこには、ミルグラム実験などの教訓が生かされているわけです。
ですから、フィクションの映像が原因となって実際どのくらい暴力行為やレイプが増加する可能性があるかという問題は、非常に慎重に検討する必要があります。
私の見たところでは、ある程度の範囲では、一定の条件下で、異性に対する、暴力的な性的なアプローチをフィクションの映像が 強化してしまうという可能性は十分あるとは思います。
全く正直に告白すれば、私もいわゆるAVビデオの類はそれなりに見てきているわけですが、そうした中で気がついたのは、そうした映像の大半は、AV女優の演技なんですよね。
本当にオーガズムに達している映像というのは、海外系のメジャーなアダルトサイトレヴェルでは、ほとんど全く発見不能です。
私自身、おたくとしては幾人もの交際相手に恵まれては来ましたが、それはあくまでも数人というレベルでして、女性のオーガズムのあり方というのは、男性の単純なシステムとは異なる非常に多様性があるとは聞いています。
ですから私が、女性オーガズムのそうした多様性の全てを実体験したわけではないとは思っています。
しかし、私が若い頃から1000本近くになると思いますが、見てきた範囲では、この女性本当にイっちゃってるというAV映像というのは、明らかに本人を騙して撮影したと思われるたった1本だけなんです。
さすがにその映像は、期間限定公開ということでしたが、今は見ることはできませんが、その映像を見た時だけはすごいショックがありましたね。
観てはならないものを観てしまった、という、どうしようもない思い。
もちろん、繰り返して食い入るように観てしまったのですが。
ただし、やろうと思えば公式に可能な、ダウンロードボタンは押しませんでした。
なぜなら、他ならぬ彼女の意図に反し衆目に晒された、恐らく彼女自身は今日に至るまで、この著名アダルトサイトにアップロードされたことも知らないままの、それを知れば屈辱以外の何者でもない、「プライベート・ポルノ」だったからです。
その日本の、どこにでもいそうな可愛らしい若い女性がかわいそうでもあり、正直愛おしくも感じました。
中には、AV女優の出演する日本制作の作品の中にも、AV女優さんの凄まじいプロ意識の結果なんでしょうが、迫真の演技で、本物のオーガズムに近いものを映像として残しているケースもあるようで、私はたまたま興味本位に出張先のビジネスホテルでそういう映像に1本だけ接しましたが、おそらくそういう映像ですら例外的なんじゃないかと思います。
ということは、いわゆる風俗に通ったって、相手が本当のオーガズムに達することはほとんどまずありえないでしょうから、普通に女性と出会って交際を深めるという経験がなければ、男性は本物のオーガズムっていうのが どんなものなのか体験できてないと思うんです。
そういうのを知らないという方のために言いますと、こっちの方が相手の反応にびっくり仰天してしまうという性質のものですよ。
女性は、生き物として、ここまで極端な、明らかに男の射精時には全くあり得ない次元での、全身的な生理的な絶頂反応をしてしまうものなのか?
これは、自分が心を許した男性と2人切りの世界でしか、晒してはならない。
こうした肢体を晒してしまうということを私に許してくれただけで、その人を心から大事にしないとならないな、というわけのわからない次元でのリスペクトの思いを、少なくともそれまでは純情さを失わなかった男性には引き起こすであろう、ある種「実存的な」出会い(encounter)の経験です。
ところが、悲しむべきことに、初体験で強姦された場合ですら、女性は体質的にいきなりそうしたオーガズムに達してしまう場合があるとは聞いています。
強姦した男はイカせたことに勝ち誇るでしょう。そばにいる、あるいは一緒に強姦した男も、乱交していた他の女も、彼女を嘲笑うかもしれない。
これ以上屈辱的な経験は、男には全く体験不能な領域であり、長い間被害者の女性に深刻かつ複雑なトラウマを残し、そのたった一回の体験で、女性が、いろいろな意味で「おかしくなってしまう」のも当然と思います。
もちろん痛くて苦しいだけの経験をした女性のトラウマの方が浅いなどという気はなく、別種の深刻さかと思いますが。
そうしたオーガズムに、こちらがどれだけ創意工夫(単に「テクニック」という意味ではなく、精神的な心からの信頼関係を少しずつ積み上げるということを含みます)を凝らしても、体質的に、決して至ることがない女性というのもたくさんいますし、それは決してその女性を責める性質のものではないでしょう。
いや、結合して射精しなければセックスしたとは言えないというのはちょっと相手とのつまらない関係でして、ベッドの隣にいる相手にやさしい言葉をかけ、時々軽く抱きしめて、局部にすら手を伸ばさず優しく愛撫する程度でお互いに満たされる時もあるというくらいの関係の方が長続きする深い間柄ではないかと思います。
……何か余計な自慢話めいた方向に延々と暴走したかもしれませんが、これで私がいい加減な気持ちで女性と深い交際はしてこなかったことは伝わると思いますし(別れてしまった今では、仮にその女性にどれだけ理不尽て憤りを感じて別れた場合ですら、振り返れば、ひとりひとりに詫びたいくらいの反省点は山のようにありますし、そうした反省は次に交際する女性には、期間の長短に関係なく教訓として生かして来たつもりです。心底愛しているのに最後まで指一本触れないままにしたお相手もいます)、この作品と全然無関係な話をしているとも言えないと思います。
この作品自体には、露骨な性行為の描写は全くありません。
登場人物たちも、相手とのそのようなソフトなペッティングレベルで喜びを分かちあっていたのが普段の日常じゃないかと想像できる気がするんです。
まあ、そういう意味で、確かに、彼女たちは、現代社会の歪みの犠牲者であり、そうしたタコツボのような世界から脱出できることを夢見ていたのではないかと思いますが、しかし誰だって完璧な人間などいないわけで、弱さと限界を抱え、バカなこともするわけですよね。
そういう意味では、愛すべき登場人物しか出てきていない作品ではないかという気がします。
この作品の中で 登場人物たちが福祉サービスにうまく繋がれないでいるわけですが、これは半分止むを得ないところがあります。
彼女たちに積極的に関わるべき福祉の世界の 専門家というのも、実は恵まれた 雇用環境にはありません。
私は時々自分の記事で、カウンセラーの見地からすれば、福祉関係者の利用者への接し方は、コミュニケーションのあり方として最悪であることが少なくなく、実質的には管理主義の心理的な虐待、関係者の「保身」優先に等しいことがあまりに ありふれているという現実に対して非常に辛辣な批判を加えることがあります。
しかし、障害者福祉施設の職員というのは、一般に報道されることがあるような悪辣な人たちばかりではなく、使命感に燃え、精一杯 誠実に職務を遂行しようとしている人たちの方がはるかに多いわけです。
しかし あまりの多忙さとそれに引き合わない 担当すべき相手の量によって、一つ一つのケースに そこまで丁寧に関わる 精神的な肉体的なゆとりもないことが多いというのが 日本の福祉関係者の雇用状況 なんですね。
そういう意味では 私は普段批判的なことばかり言い過ぎてるかもしれない。
ただ、そういう コミュニケーションしかできないようでは、更に不用意な言葉がひとつ重なるだけで、利用者の命にも関わりかねない事態もあり得るということだけは、それは事実ですから、問題提起し続けるしかありません。
それをどのような人たちが、無理をしすぎない形で英知を結集して、社会に働きかけ、制度や法律や専門家研修プログラムをどのように改革していけるかというのは、これからの課題とするしかなく、私も、力は限られているかとは思いますが、そうした改善活動に協力していきたいと思っています。
こうしてこの作品世界には、まあ女衒までは共感できなくてもいいと思うけれども、悪人はたった一人も出てこないという 凄まじい 結論に達します。
まだ具体的なアニメスタッフについての発表はなされていないかとは思いますが、これだけ厳しい監視の目が張り巡らされている中でのアニメ化ですから、スタッフの人選は慎重に丁寧になされると思います。
ベテランクラスであれば、この作品を是非お任せしたいという監督さんなど、私は簡単に思い浮かびますが。
半分本気で言いますが、この作品がもし仮にアニメ化中止となったら、私は、実は個人的な接触ルートも持っているその、リアリズムに走ると狂気のような誠実さで取り組んでいることに作品を丁寧に解析して呆然とするしかなかった監督さんを口説き落としてでも、クラウドファンディングを主催して、この作品のアニメ化に挑むんじゃないか?
どう見ても、私が一番個人的に好きなタイプの素晴らしいアニメ作品に結晶化させることができる素晴らしい 原作だと私は思っています。
「私が」このコミックのアニメされた姿をぜひ見てみたくてたまらない。
皆さんの批判に耐えるような、しかし原作をリスペクトとした作品になるように脚本や絵コンテを共同で吟味する域までコーディネートする側に回っても、面白い人生やないかと、真剣に思い始めています。
まあ、そのためなら、皆様がびっくり仰天するような、お金の稼ぎ方のプロジェクトをすでにいくつも構想しているということは、おそらくこれに続く記事でいくつか公表すると思います。
皆さん、かなり呆れるかもしれないプロジェクトの数々だけど、でも実現して採算が取れるようになっていく可能性は結構あるというのは、実際にプレゼンしてみれば、多くの方も納得いただけるだろうと思います。
……などという、このページの主さんも仰天するであろう、長文の連投のレスとなりました。
…かなり増補した「第2版」では、いよいよ、おい、ここまで書く必然性あるのか?と一部の読者には思われそうな迫真性が出できてしまっているのは自覚してますが、私の
フェルトセンスがやれと命じてきて、読み返しても承認する増補だから仕方ない。
しかし、丁寧にお読みいただければ、私がこの場を借りて、ここまで書きたくなった 心境は十分に伝わるのではないかと思っています。
どうかご期待下さい。
(は?何を?)
私って、これまでの人生で、自分が期待してもいなかった夢のようなことばかり 叶ってきた人間です。
とてもこういう ネット上では書けない、皆さんが聞いたらよく生きているなと言いたくなるような辛い経験も重ねてきたつもりではありますが。
あとは、神様の「お計らい」のままに。
この記事のあと2,3関連エッセイを書きましたが、いろいろな方とその後X上でやりとりを重ねて、私が、フィクションにおける「リアリティ」について、日頃から当たり前の前提にしていたけど、言葉で他の人に伝えたことがない、恐らく重大な問題提起を、相当な長文で書けることに気づきました。
これは実写アニメ関係なく、また、映像作品てはない小説にも当てはまる、かなり根源的な問題提起であり、「現実」とは何か?現実に対抗(あるいは「補完」)するものとしての「フィクション」の存在意義、という、恐らく「文芸評論」における根源的なテーマであるばかりか、哲学的にみても大変重要な問題と思います。
これに関しては、あるXアカウントの方への連投レスとして途中まではかなり的確に書けたかとは思いますが、その「完成形」を、その方とのX上でのやりとりの形は取らない「書き下ろし」で書いてみたいと思います。
アニメ雑誌読者投稿欄常連になった三十数年前から、商業出版単著である「エヴァンゲリオンの深層心理」、同人誌「ウマ娘の精神分析」、「私の<推しの子>論」を経て、その後の、このnoteにおける記事まで、ある意味で一貫している、私のアニメ作品論の非常に特徴的なところは、アニメの登場人物を、まるで実在する生身の人間であるかのように感情移入した上で心理分析するというスタイルにあります。
他の皆様もこうしたスタイルでアニメの感想をお書きになること自体はありふれていますが、私ほど頑固に徹底的にこのスタイルを守っている人間がいない、という自覚はあります。
これは、読者によっては、かなり奇妙で違和感のあるスタイルという自覚もあります。
「こいつ、現実と虚構の区別ができとるのか?」
という影の声があることなんて、先刻承知なわけで。
私としては、
「は?私から見たら、あなたの方が現実と虚構の混同をする「害悪」を平然と「現実の対人関係」で垂れ流していそうな気がするけど?」
と言いたくなるくらいなんですが。
私の方が、「現実」と「虚構」との関係の危うさに非常に自覚的でクリティカルな生き方しかしていないんだが?
とも。
この「現実」と「虚構」の弁証法というテーマは、本格哲学で言えばプラトンのイデア論に遡れ、私が大学哲学科学部生時代に原典購読の講義を受けたカントの「純粋理性批判」における「現象」と「物自体(Ding an sich)」についての論議を経て、ヘーゲルやマルクスの「弁証法」、そしてディルタイの「生の哲学」、そして私の専門で日本有数の理解レヴェルを自負するジェンドリンの体験過程理論という、現代哲学における最前線まて、営々と積み上げられた歴史的展開という普遍性があり、日本では柄谷行人の「概念の物神化」概念と響きあうのですが、この後書く書き下ろし論考は、こうした哲学史的背景は全く言及せず、わかりやすい自分の言葉だけで、何も参照せずに書きますね。
鍵なのは、私が「現実それ自体」と「リアリティ」体験を、全く別次元のものとして区別していることです……というのが予告です!
