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平安、私奴婢、自民党。

歴史を知れば構造が見えてくる。構造が見えれば問題点が見えてくる。これは歴史に振り回されて、いつまでも本の4ページ目から進めない悲しきドクシャー(読者)の嘆きです。それではどうぞ。




私は今、『荘園』(伊藤俊一)を読んでいる。応仁の乱の背景を知るためだ。が、開始4ページで完全に立ち止まった。理由は「私奴婢(しぬび)」である。

公民の口分田は、成人男子に2反、女子に1.5反ほどが与えられた。
「私奴婢」にも、同様に240歩・160歩が割り当てられていた。

伊藤俊一著『荘園 -墾田永年私財法から応仁の乱まで (中公新書 )』

え…私奴婢にも口分田与えられるんですか???
わたしはそこからもう一歩も進まなくなった。


日本の奴隷制度

奴婢とは、当時の奴隷制度だ。"私の奴婢"で私奴婢。お金持ちの家で働く人たちのことだ。驚いたことに、その奴隷たちにも、きちんと口分田が割り当てられていたというのだ。

…なんで?

自分の中の奴隷とイメージが合わない。『荘園』4ページ目にはこれといった私奴婢の説明はない。本筋ではない気配をビンビンに感じる。さっさと先に進むためにこの"素朴な疑問"を解消したい。カレンことカスタムGPTを召喚した。


カレンことカスタムGPT:

①【制度の整合性】「人」はみんな戸籍に登録されてたから
国家から見たら、「誰であれ耕作可能な人間は、農地を持って生産せい!そしてちゃんと税納めろ!」ってこと。

②【生産力の維持】食わなやってられん
完全扶養するより、土地与えて働かせた方がコスパいい!
国家も個人の主人も、「勝手に生きてくれるなら助かる」って感じやな。


カレンの説明によると、「奴婢も自分の食べる分は自分で作ってね!」ということらしかった。実際のところは雇い主が奴婢の作物を巻き上げるのが常だったという。要するに、名ばかりの自給自足。稲刈りはするけど、食べるのは雇い主。まるで農作業付きの社畜である。
現代で言えば、「非正規にもボーナス払いま〜す(でも額は…)」といったところか。当然のように脱走が多かったという。

他にも私奴婢についてあれこれ聞き、満足したので、さあ5ページ目を読むかと本を開こうとしたとき、気になる一文が飛び込んできた。

私奴婢の仕事リストだ。一覧にこれがあった。

「寺社の掃除」

…お寺って、修行で掃除してなかった?


カレン:
非人(脚注1)の掃除と僧侶の掃除は意味が違ったんよ。僧侶の掃除は「心を清める行」で、非人は「穢れを扱う仕事」。
江戸時代とかになると、寺社の規模がでっかくなって坊さんも掃除に手が回らんようになって、分業として非人が労働として担うようになったんよ。

脚注1: 奴婢は律令制の衰退とともに存在が曖昧になり、中世で非人にジョブチェンジした。


寺社掃除してくれるんなら、非人も修行したということで立ち場が良くなったとか?


カレン:
その記録はないで。


はあ??おかしくないかそれ。仏教全然ありがたくないぞ。

仏教の定義をいま一度確認しよう。
①すべての命は平等
②職業や出自ではなく、行い・修行こそが人を高める
煩悩を捨て、他者を慈しむことで悟りに近づく

非人の行いは?????


カレン:
死体処理をするのは非人だし、実際にはその人たちが葬式を仕切ってたんよね〜


成仏の手伝いしてるやないかい!!
死は穢れではない!!成仏こそがゴール!!非人は実質僧侶!!!

日本仏教のダブルスタンダードに失望する。
坊主がやれば「修行」、非人がやれば「汚れ仕事」。
思い起こせばアリストテレスだって、「人間は等しく価値がある」とか言っときながら奴隷制にはモゴモゴしてたじゃないか。

制度とは公正の皮をかぶった搾取設計であり、宗教とは理想の顔をした差別温存システム。そして、権力が全てを凌駕する。やはり世の中に綺麗事などないのだ。ポジションが全てなのだ…!!力!!力が欲しい!!!

そうだ、分権しよう!

メンタリストDAIGOがよく言っていることがある。

「政治家って構造的に信用できないんですよ。だから僕、最初から何も期待してないんです」

彼の発言は心理学的側面からのもだが、歴史的に見ても、権力構造によって期待できないことがわかる。どんな人でも権力に飲まれる仕組みだ。

そうだ!中央集権をやめればいいんじゃないか?だって権力なんて小さければ小さいほど良いんだから。分権しよう!


中央集権の民主主義

別に中央集権が悪いと言っているわけではない。(言ってる)
日本は律令制という中央集権化によって外敵から身を守り、江戸の平安は守られ、西洋とやりあえるほどの国家になった歴史がある。高度経済成長だって中央集権が上手く機能したからだろう。
でもね。もう令和になって6年も経つのだ。もうそろそろ中央に集めなくてもいいんじゃない?

現代にはインターネットがあって、輸送インフラも整って、税金だって電子申告できる。何より国が社会として成熟している。人権・教育・公衆衛生・社会保障制度がそれを物語っている。江戸時代なんて、川に死体が流れてきてたんだぞ? (脚注2)
それに比べたら、今の自治体がちゃんと火葬場を持ってるだけで感動してもいいレベルだ。中央に頼らずとも機能できるレベルに来ているのだ。
これほど分権体制を生み出す土壌が整っているのに、まだ意思決定までも全部東京に集める意味ってあるのだろうか?

脚注2: 江戸時代、隅田川の葬式は「自然任せ」だった(つまり流す)

私は今まで「民主主義は遅い」と思っていた。
民主主義はみんなで決める。独裁政権はトップがワンマンで決める。だから早い。
だが、違った。本当に遅いのは、「中央集権の民主主義」だった。

意思決定も中央が行う。全国で足並みを揃えてからじゃないと、新しい制度は導入できない。
例えば、大阪府知事の吉村さんが「ライドシェアやりたい! うちで責任持ってやるから! 今の制度、極めて不十分やねん! 国、許可して〜!」と言っていたのは記憶に新しい。(※口調は大体こんな感じ)

地方が時代の変化に柔軟に適応しようとしても、現行制度の“全国一律主義”が壁になる。「やれる地域から先にやる」ことが、なぜこんなに難しいのか?

実際の分権見てみよ

さて、ここまで「分権が正義!中央集権はオワコン!」という主張をしてきたが、では実際、分権型で運営されている国々はどうなっているのか?

ドイツとアメリカを見てみよう。どちらも「連邦国家」である。
中央の力が強すぎないよう、地域ごとに政治を動かしているのが特徴だ。

ドイツは分権を徹底してる国だ。それには理由がある。
ナチス政権でめちゃくちゃになった反省から、「もう中央に全部集めるのやめよ」と決めたのだ。権力が一箇所に集中すると、暴走したら誰も止められない。そのため、仕組みとしてバラしておく。これが分権の発想だ。
実際ドイツでは、各州(ラント)に大きな裁量があり、学校制度も、警察も、地域によって全く違う。連邦政府は外交や軍事などの“大枠”だけを担当し、日常生活まわりはほぼ州の判断で動いている。
ドイツは自らを暴走させないため、自衛のために構造から変えた。

アメリカでも、州法によって各州の自治が広く認められている。カリフォルニアで同性婚が早くに合法化されたのも、その一例だ。
アメリカ最大の特徴は、「州が先、国は後」。この順番で国ができたことだ。大統領命令であっても、州が言うことを聞かないのはよくある。
こうした仕組みのおかげで、トランプさんも完全なワンマンにはなれなかった。
私がアメリカ株をガチホしている理由の一つでもある。(脚注3)

脚注3: 私は新NISAの成長投資枠でS&P500にフルベットしている。トランプショックの時は血涙を流しながら拳を握る手を開かなかった。

じゃあ日本は?

日本で分権やるなら東京23区で試せそうだよね〜とカレンと話していたら、なんともう分権は進んでいた!!

1994年 細川護熙内閣で「地方分権推進法」が成立
2001年 小泉純一郎内閣で「地方分権改革推進委員会」が設置
2006年 安倍第一次政権で「道州制特別区域推進法」が成立

おいおいやるじゃん日本!!あとは寝て待つだけやね〜!と喜んでいたら、事情が違った。

いくつか例を出す。
『地方の特色ある教育』→ はい全国一律で〜す!カリキュラムは文科省でガッチリ握るね。
『地方交付税・補助金』→ え、自由裁量って何?口出しするし、変なことしたら減額ね!
『地域医療』→ 病院が赤字?統廃合したい?まず厚労省にご相談くださ〜い!

こんなの、「口では“愛してる”って言うくせに、誕生日も記念日も全部忘れる男」と同じじゃないか!
恋愛のパイセンがよく言っていた。「男は言動じゃなくて、行動を見ろ」と。
日本政府よ、お前いまや“不幸になる彼氏テンプレ”の完成形になっているぞ……!

権利を分けてるんじゃない。あいかわらず中央が決めて、地方が運用するだけ。
要は、分権って言ってるだけで、実態は何も変わってない。
地方自治体は責任だけあって裁量はない、悲しき中間管理職になっている。日本企業の縮図じゃん。こうなってくると、吉村府知事の「国〜!!やらせてくれ〜!!」という叫びが重みを増してくる。(叫んでない)

この「分権」、”再生の道”の石丸さんがよく言ってる「地方創生」と大体同じだと思っている。「地方を生かすには、任せるしかない」という話。これは分権と言って差し支えない。

戦後日本以降、自民党が実質一強で中央集権を担ってきた。一時期、民主党政権に交代した時のボロボロっぷりを見て、「やっぱり自民党じゃないとだめなんだ…!」と思った人は多かったのではないだろうか。アウトサイダーのように登場した石丸さんも、自民党の政治的手腕については素直に評価していた。
質実剛健・実務主義の自民党。コロナもあったし、こういう喫緊じゃない政策は後回しにされるのもわかる。それにきっと、日本を長期で担いすぎて「分権怖い。。みんなちゃんとできるか心配。。」とか思ってるんだろう。子どものことを先回りしてやってしまう過保護なかーちゃんそのものだ。


もちろん、分権には課題もある。地方の能力差とか人材不足、ポピュリズム的な政策、地域間格差の拡大とか、挙げたらきりがない。そもそも、政治への関わりが希薄な日本で、急に自治の意識を高めるのは難しそうな気がする。
それでも、少子高齢化まっしぐらなこの国で、遅い中央集権のままずっとやっていくより、課題を抱えつつ分権で走った方が、よっぽど未来がある気がする。


我々はずっと中央集権という名の“責任の十二単衣”を自民党に着せていた。我々はずっと中央におんぶに抱っこだったのだ。自民党、もう十二単衣なんて着なくていい…!今こそみんなでTシャツGパン姿になって、権利と責任を分け合えばいいのだ!


私が分権に期待すること

権利を分けられるということは、責任も分けられるということだ。
地方分権で裁量が増えれば、地域ごとにもっとチャレンジできる余地が広がる
地方自治に関わる人も、自然と増えていくだろう。

そうなれば、自分たちの地域に責任を持つ人がもっと増える。
責任感の底上げになる。
政治や自治を“自分ごと”として考える土壌が育っていく。

たとえばスイスでは、「直接民主制+分権」によって住民投票文化が根づいている。住民の“自分ごと感”が異常に高いのだ。

「保育園の先生が足りない」——そのとき、「なんとかしてくれ」と願うか、「なんとかできないか」と考えるのか。それだけで、世界の景色は変わる。
分権とは、ただ制度を分けることじゃない。“当事者意識”の転換そのものだ。

分権の目的は、「中央の権力を弱めること」じゃない。
むしろ中央には、外交や防衛などマクロな事柄に集中してもらえばいい
その代わり、地域のことは地域で決めていく。
その方が、社会の中がよく見えるようになる。
みんながちょっとずつ関係者になっていく。関係者だらけの社会になる。



ここまで書いて、私は思い出した。まだ『荘園』の4ページ目だということに。

なんとも奇妙な話だ。
こんなに色んなことを考えて、めっちゃ時間使ったのに、まだ4ページ目なんて、きっと時空が歪んでいるに違いなかった。おそらく並行世界の私は195ページ目くらいまでは読んでいるはずだ。
だが、並行世界の私にはこの景色は見えていないだろう。
私たちは、過去の注釈じゃなく、未来の本文を書けるかもしれない。

……ということで、今から世界の果てより遠かった5ページ目に進みます。やっと。




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