小説 境界師の夜『境界が消える夜、私は“こちら側”に戻される』

第二夜
来てくれると思っていた。
来なかったら、終わりにすればいい。
ただそれだけのこと。
待っているあいだ、何度も考えた。
きっと引き止めてもらえる。
けど、もしそうじゃなかったら。
本当はどっちでもよかった。
ちゃんと終わるなら、それでよかった。
そして、あの子は来なかった。
だから私は、選ばれなかった方に行くことにした。
月が出ていない夜だった。
夜がこんなに暗いなんて、知らなかった。
自分の手も、もう見えない。
足元のフェンスも、コンクリートの床も、何も分からない。
ただ、落ちれば終わるということだけが、分かる。
——怖い。
死ぬ勇気なんて、最初からなかった。
それでも、戻る場所もなかった。
さっきから、誰かがこっちを見ている。
よその制服の女の子。
黒髪で、手に刀を持っている。
でも、その刀はきっと抜けない。
朱と橙の組紐が、柄から鞘までぐるぐるに絡みついている。
変なの。
止めようともしないんだ。
私、今から飛び降りるのに。
「誰」
誰でもいいけど。
彼女はぽつりと答えた。
「境界師」
間を置いて付け加えるように言う。
「名はない」
視界が、にじむ。
意識が、溶けていく。
ああ、こんな感じなんだ。
消えるって。
最後に見えたのは、
あの子が、刀の鞘で地面に線を引くところだった。
——私、誰。
塾の帰りだった。
学校の前を通りかかったとき、屋上に人影が見えた。
一瞬、立ち止まる。
こんな時間に?
……誰か、いる?
フェンスの向こうに立つ影。
風に揺れる髪。
嫌な予感がした。
走り出していた。
校門は閉まっているのに、脇の扉が開いていた。
校舎の鍵は、かかっていなかった。
なんで。
考えるより先に、階段を駆け上がる。
屋上の扉を開けた瞬間、風が抜けた。
満月が、空に浮かんでいる。
フェンスの向こうに、彼女がいた。
三年前のままの姿で。
「……遅いよ」
声が、落ちる。
全身に鳥肌が立った。
あの日、遺書が送られてきた。
この場所から飛び降りると。
叫びたいのに、声が出ない。
「来てくれなかったよね」
行かなかった。
遺書も見なかったことにした。
彼女は淡々と話す。
責めているわけじゃない。
ただ、事実を置くみたいに。
足が、か勝手に……
止まれない。
行きたくないのに、前に進む。
彼女が手を差し出す。
「今度は、来るよね」
触れたくない。
なのに、
私の手も、伸びる。
触れたら……ダメだ……
その瞬間。
二人の間に、何かが割り込んだ。
刀の鞘。
朱と橙の組紐が、ぎっしりと巻きついている。
彼女の手が、弾かれた。
振り向く。
制服姿の女の子が、立っていた。
黒髪の、無表情の女子高生。
うちの制服じゃない。
何も言わない。
ただ、こちらを見る。
その目は、私を見ているのか、見ていないのか分からない。
彼女は刀を抜かない。
そのまま、鞘をフェンスに当てる。
引く。
何もなかったはずの場所に、線が浮かび上がる。
光でも、影でもない。
ただ、“そこにある”と分かる線。
「……境界が、薄い」
初めて、声を聞いた。
彼女は私を見る。
「お前、来なかったな」
言い切る。
否定できない。
「私は悪くない悪くない悪くない悪くない!」
「だから、今、止まれない」
その言葉の意味を理解する前に、
後ろから、抱きつかれた。
冷たい。
「来てくれてたら、こっちに来なくて済んだのに」
耳元で、声がする。
体が、引かれる。
抗えない。
「やめて——」
声が、途切れる。
意識が、沈む。
その中で見えた。
刀の組紐が、ほどけていく。
勝手に。
まるで、意思を持っているみたいに。
女子高生は、それを一瞥した。
「……許しが出た」
刀が抜かれる。
音はしない。
ただ、空気が一度だけ裂ける。
閃光が、走る。
次に気づいたとき、私は地面に倒れていた。
満月が、眩しい。
息ができる。
体が、戻っている。
あの子はいなかった。
女子高生だけが、そこにいた。
無表情のまま、こちらを見ている。
刀は、もう鞘に収まっている。
ほどけていた組紐が、また絡みついていく。
生き物みたいに。
やっと、声が出た。
「……私は」
喉が震える。
「私は、行かなかっただけ……」
「怖かったから……」
言葉が、落ちる。
女子高生は、何も言わない。
ただ一度だけ、視線を下げた。
「それを、選んだな」
彼女は、鞘でフェンスにもう一度線を引いた。
そして、そのまま歩き出す。
呼び止めても、止まらないと分かる歩き方だった。
「私もあんなふうになるの」
叫ぶように聞いた。
女子高生は静かに振り返り、
「その時は、また私が来る」
「……それだけ」
やがて、その姿は闇に溶けた。
それからしばらくして、
夜の屋上で“光る線”を見たという噂が流れた。
満月の夜だけ、フェンスに細い線が浮かぶらしい。
近づくと、触れられそうで触れられない距離にあるという。
誰も、それ以上は話さない。
ただ——
私は知っている。
あの線は、向こうとこちらを分けているんじゃない。
もう一度、越えてしまわないためのものだ。
それでも時々、
足が、あの線の前で止まらなくなる。
次回
境界師の夜 第三夜
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境界師の夜
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