東の御室・西の三室
【記録◆2024年12月18日】①
流水も凍る冬には、「奥大和」に足を踏み入れません。
「たたなづく青垣」に囲まれた平地を、二本杖で巡ります。
身軽な鹿と同じ数の四点支持でも、車椅子ユーザーの後脚は凍った地面をつかめないので。
大和の要処『亀の瀬』に立ってみたい、という想いに急かされながらも、ぎりぎりまで高地を巡っていたけれど…………
大和盆地を流れる水は、竜田川、富雄川も、秋篠川、佐保川、布留川も、初瀬川、巻向川も、寺川、飛鳥川も、曽我川、葛城川も、「大和川」に名を縒り合わせて西の青垣を越え、大阪の街を通って海に流れ込みます。
156本の川が「大和川」となって大和盆地を去る所が、『亀の瀬』です。
他に出口はありません。
そこは何万年も前から地滑りが、しばしば流れを堰き止めてきました。
「ヤマタノオロチとは『亀の瀬』から逆流して氾濫する川だったのでは」と考えたこともあります。
大和盆地の東(島根から最も遠い所)で、「出雲」という地名をみた後、「なぜ、ここが出雲なのか」と考えましたが、神話には、
【大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神が現れて、我を大和の国の青垣の東の山の上に斎き奉れば国造りはうまく行くと言い、大国主神はこの神を祀ることで国造りを終えた。この山が三輪山とされる】とありますから、
『三輪山』の傍に「出雲」があるのは、驚くことではなかったのでした。
(島根の出雲にオロチ退治の神話は無い、ということには驚きます。)
では、『海を光(てら)して依り来る神』とは、西から生駒山系を抜けて進んできた船で、水面を照らしていたのが三輪山から昇る太陽だったのか。
そんな想像もしました。
しかし、三輪山に父「事代主(大物主)」を祀ったクシヒカタは、北から大和に入っています。
「三島(大阪府 高槻市)」から淀川を遡り、当時に存在した巨椋池(京都府最大の淡水湖)を通って、木津川から大和盆地に入ったのですが、その先に水路はあったのだろうか、と、わたしは考え込むのでした。
当時も、「大和」は「やまと」と呼ばれていたようです。
それは「狭い」という意味でした。中央が沼地で居住できなかったため。
現代では橋を通って移動できますが、当時は徒歩で移動できません。
でも、南西の葛城まで舟で進めるほど、川は繋がっていたのでしょうか?
大和盆地に古代湖があったのは、もっと昔のはず。
その時代なら、湖を通れたかもしれないけれど。
ふとおもいつきました。クシヒカタが大和に最初の王国を造ったのは、「亀の瀬」が塞がっていた時ではないだろうか、と。
[注:『note』の記事は、学問を修めていない者が想像した内容で、歴史を学ぶ方の参考にはなりません。念のため。]
「弥生時代の原大和王国(唐古・鍵遺跡)」は、ある時を境にとつぜん姿を消します。そのあと、三輪山扇状地に忽然と都市が現れます(纏向遺跡)。
それについて、「唐古・鍵は水没したのでは」と考えていました。
水運によって栄えた所だから、「亀の瀬」が塞がって水位が上がったとき水の下になってしまったのでは、と。
(話は逸れますが、唐古・鍵は初代大王「ムラクモ」とともに移住してきた技術者の子孫が造ったのでは、と考えるときもあります。)
どこかで数年前、「歌が詠まれた時代に、若草山の麓まで水があった」という文章を読みました。「三輪山の麓近くまで水があった」という文章も。
地滑りの規模によっては、ありえない話ではなさそう。
江戸時代に流路を替えられるまで、大和川は淀川と繋がっていたはず。
「三島」から淀川を下って大和川を遡れば大和盆地なのに(しかも、葛城はそこから近いのに)、クシヒカタは淀川を遡って京都を経由したのです。
国内に争いの跡がない時代ですから、亀の瀬を通してもらえなかったとは考えられません。
事実は確かめようもないけれど、「その場所に立てば、ほんとうの歴史と響き合えるかもしれない」という気がするのでした。
◇◇龍田川◇◇
【ちはやぶる 神世も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは】
【嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり】
高校の授業で暗記した「百人一首」を思い出し、「紅葉が残っていたら、寄り道をして、COGY(足こぎ車いす)で散策しよう」と決めました。
そこは、大和盆地で最後に紅葉する場所なのだそうです。
つまり、大和川が「亀の瀬」へ向かう辺りは、標高が低いのでした。
駐車できる所が限られているため、そこがいっぱいなら通り過ぎよう、と決めていたのですが、電話番号でも住所でもナビがそこではない所に誘導をするので、「COGY(足こぎ車いす)」を車から下ろすのは諦めました。
そして、迷い込んだ道で龍田川と紅葉だけは、大急ぎで撮ったのでした。



先々週に天川村では、泉の水面にしか無かった色が、頭上にあります。

とても風が強いため、色は撮れても、形は輪郭が定まりません。

標高800mを超える天川村では、湧き出る泉がゆっくりと落葉を動かしていました。ここ(海抜47m)では風が、激しい流れのよう。

大和では、標高差によって、たちまち過ぎる「時」を取り戻せます。
◇◇龍田大社◇◇
自分の目との間にカメラを入れないで紅葉を愛でるため、本日の予定にはなかったけれど、『龍田大社』へ。
帰宅後に気づいたのですが、さっきは「三室山(生駒郡 斑鳩町)」の傍を彷徨い、ここでは「三室山(生駒郡 三郷町)」の近くを逍遥したのでした。
ここは、「北西の三室(みむろ)」だったのです。
だから、「南東の御室(三輪山)」の方角には、冬至に御室山の山頂から昇る日を遙拝できる場所があるはず。
「御室山」から地図に線を引いて、「夏至に日が沈む方角」を探ったのは、以下の記事。線の先にあったのが、ふたつの「三室山」でした。
上の記事で、夏至に山頂から昇る日を遙拝できるのは『鴨都波遺跡』と、探り当てています。大和に王国を造ったクシヒカタが最初に住んだ場所で、その横が、「三室」という地名(御所市 三室)。
この記事では、そこを「南西の三室」と呼びましょう。
「南西の三室」と隣り合っている所は、「蛇穴(さらぎ)」という地名。
蛇穴村には古くから龍神信仰があり、藁で作った14m余りの大蛇を神社に奉納するという神事があるそうです。
それを思い出したところで、「北西の三室」に戻ります。
『龍田大社』は、「蛇穴」から「車で60分」ほども離れた場所なのに、
「龍を表した注連縄」が、こちらの拝殿の柱にも巻きついていたのでした。

和歌山県の「紀の川」について書いたとき、【丹生都比売は、「元寇」という未曽有の危機に際し、神々の先駆けとして出陣され、十四万もの大軍を暴風雨によって退けた】と、過去の記事内に記していますが、
「国難を救う神風」を起こしたのは『龍田大社』だと、今回に知りました。
(龍田大社から丹生都比売神社は、車で2時間はかかりそう。)
ふとおもったのですが、ふたつとも、鎌倉時代の「元寇」の話ではなく、それより昔、外来勢力が大和に入り込もうとしたときの話なのでは。
九州から攻めてきた勢力は、「紀の川」河口で敗退する前後、淀川からも大和川からも入り込もうとしていません。
大阪の「淀川」の河口は、「三島」の一族が護っていたでしょう。
大和盆地からも、「大和川」に出陣した舟があったのでは。
[注:『note』の記事は、学問を修めていない者が想像した内容で、歴史を学ぶ方の参考にはなりません。念のため。]と、ここにも記しておきます。

長くなったため、つづきは次の記事にいたします。
