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古代の海底(標高460m地点)

【記録◆2025年3月13日】

「奥大和(奈良県)の中央は、かつて海の底だった」と知りました。
 千メートルを超える山々に囲まれて、その跡が残っています。

 古代の海を漂っていた原生生物(1mmの10分の1から100分の1ほど)が、命を終えて海底に降り積もり、硬い岩となったのでした。

 奈良から海が無くなったのは、いつでしょう。 
 海底が隆起して、山地となったのは。

命の殻が降り積もった


◇◇赤岩渓谷◇◇

 惹かれる場所の存在を知ったとき、
「そこは辿り着ける場所なのか」と、まず考えます。

「車椅子から離れて動ける距離」が限られているので。
(舗装路であれば、着地衝撃が大きいため、ほぼ動けません。)

 渓谷の奥には、岩を伝って行くしかないのかと、最初はおもいました。
 ところが、右岸には県道が通っていたのです。

 左岸は遊歩道で、写真を見たときには、「ここがいちばん好きになる」と感じました。ふかふかした土を踏んで、どこまでも行けそう。

 ところが、その道は歩けませんでした。
 封鎖されていたのです。

「山側が崩れたのかしら?」と考えながら、県道を二本杖で歩いていくと、目印にして進んできたコテージが、廃墟のようになっています。

 それより先の斜面には、輝くようなコテージが立ち並んでいるから、
「ひとつだけ山蔭にある黒い建物は、宿泊施設ではなく東屋なのだろう」とおもったのに、それは焼け落ちた跡だったのでした。

 そういえば、下流で車を止めるとき、「注意書き」の数が多くて読むのに時間がかかり、それらの文字はなぜか刺さってくるように感じられました。
 なるほど、狼藉者を制するためだったのか………

 通りすがりの者が(出火当時には誰も泊まっていなかった、とのこと)、火の粉を飛ばしたら(吸い殻であっても)、多くが失われます。

 コテージを取り囲む木々がすべて炎の側だけ枯れている、と気づいて、
「そこから逃げられないのだから……っ」と、わたしは何度も呟きました。

 山奥の車道沿いには、「不法投棄禁止」の看板も多いのです。
 滝や川や森の神気に畏怖を覚えなくなると、穢れを投げ込むのでしょう。

『大台ヶ原』に行ったときには、展望所として設けられたのではないか、とおもえる場所がすべて封鎖されていて、「バーベキュー禁止」と注意書きが貼られていました。

「失ってはならない原生林を無くすような行為」を考えなしに行う者たちが絶えなかったのでしょうか?
 こうして、提供されるはずだった場所や道が使用禁止となります。

「ここがいちばん好きになる」という気がした遊歩道に足を下ろせないのは残念でした。県道は高い所を通っているため、五感で川面に触れられるとはおもえません。

 しかし、少しも触れられない遠い場所ではありませんでした。

古代の海底を流れる黒滝川

『黒滝川』の源流は、『大天井ケ岳』。
「大峰山脈」は、環となって巡る水の「地の始点」となってくれるのです。

 上の記事の『山上川』は、大峰山脈の『山上ヶ岳』から流れ出ています。
 その川沿いにも、真っ赤な岩がありました。

『黒滝川』が流れる渓谷には、赤い岩が続いています。

赤い岩

 1500mほど下流で、『丹生川』に合流するのですが、
『丹(赤土)』という名ではない『黒滝川」のほうが赤いように感じます。

 こちらの色は、「酸化鉄」に起因し、
「丹」が「辰砂(シンシャ)」を差すのなら、成分が違うのだけれど。

 それに、「丹生族」が古代に採掘をしたのなら、
「辰砂(シンシャ)」は、地表には残っていないでしょう。

向こう岸も赤い
水との境目

 水との境目が、龍のよう。

 過去の記事で何度か、「龍とは、微生物群なのでは」と書いていますが、
『赤岩渓谷』では、微細な原生生物が層となって、その形を造るのでした。

真っ赤な川底
渓流の小さな滝
この先で「丹生川」となる

 古代の海底が「奥大和(奈良県南部)の山地」になった、と知って、
「大和盆地は湖底だった」という考えも、受け入れやすくなりました。

 先々週には(以下の記事内)、西側の山地が形成された時を、
「プロジェクションマッピングシアター」で疑似体験しています。

 そして、「二上山が噴火したとき、湖底に流れ込んだ溶岩」が隆起して『屯鶴峯』の景観となった、ということも知りました。

 古都の姿を遺す地は、意外にも、深い呼吸を繰り返してきたのでした。

 大和に最初の王国を造った「クシヒカタ」が葛城に移り住んできたのは、『亀の瀬』が大規模な地滑りで埋まっていた時では、とおもえてきます。

 昭和になってからでも、『亀の瀬』を復旧させるのは大事業でした。

 古代には、湖面が土地に戻るのは、地滑りで埋まった渓谷を、大和盆地に溜まった水が抜けるときだったそうです。
 当然ながら、大阪側は、土石流の被害を受けます。

 金剛山地で古老が、「山津波で歴史が埋まってしまった」と語ったのは、
それと関係あるのでしょうか?

 クシヒカタには、父方の「出雲(島根)」と母方の「三島(大阪)」から大勢がついてきました。

 完全に想像ですが、「隕石で消滅する都から移り住む所を造ったのでは」と、以下の記事には書いています。

 しかし、当時の状況としては、「亀の瀬を塞ぐ堰となった土砂が、水圧に耐えているうち」というほうが現実的。

 当時、どこまでが「三島」の範囲だったのか、わたしには分かりません。
 ただ、亀の瀬を流れる「大和川」が、現代とは違って北流していたため、土石流は大阪湾ではなく「淀川」へ向かった、というのは判ります。

 そして、「淀川」の流域が、「三島」の地でした。

[注:『note』の記事は、学問を修めていない者が想像した内容で、歴史を学ぶ方の参考にはなりません。念のため。]


◇◇万葉の森(天香久山)◇◇

『赤岩渓谷』の遊歩道が封鎖されていたので、
「天香久山に寄って、少し歩こう」と考えました。

「昨年は3月4日に白梅が散りはじめていたけれど、今年(本日3月13日)はまだ寒いから、満開の花の下を(二本杖で)歩けるのでは」と。

 梅林は、道路より低い所なので、車を止めた所からは見えません。

 ガードレールの切れ目から下りていきます。枕木が埋められて階段状にはなっているけれど、土が流れ去っているため、とんでもない段差。ゆえに、滑り落ちないよう注意しつつ、階段ではない所を進みます。

白梅と紅梅
白梅(Ⅰ)
白梅(Ⅱ)

 昨年には咲いていなかった「八重の梅」が、可愛らしい色でした。

八重の梅(Ⅰ)
八重の梅(Ⅱ)

 クシヒカタが最初に住んだ『鴨都波遺跡(御所市)』辺りは、海抜95m。クシヒカタの妹たちが移った『出雲屋敷(三輪山の麓)』は、95~100m。

 当時、『天香久山』は、「海中の蓬莱島」のようだったそうです。

 いま梅林となっている所も、かつては水の下だったのでしょうか。
(調べてみたら海抜80m台なので、かろうじて水の上だったかも。)