野を行く姫巫女
【記録◆2025年5月12日】
「隠す」というのは「護る」ことでもある、と感じます。
「奥大和」の有名神社では、神さまを封じるのではなく邪気から守るため、磐座の井戸を蓋で覆っているそうです。
「あなたと居ると元気を貰える」とおっしゃる方々に、わたしはかならず、「あげません」と返し、「あふれている分なら、どうぞ」と言い足します。
そういう方は奪おうとしないで、こちらとの間で巡らせてくださるから。
神さまでも、「元気を貰いに来ました」と挨拶されるのは迷惑でしょう。
「神気と引き換えに邪気を置いていく」という姿勢で近寄られては。

護りたくて、どこにあるか伏せていますが、そうしなくても此処は、
「名前のない場所」です。
「COGY(足こぎ車いす)」では行けない道だから、両手の杖を前脚にして駈けていくと、翔けているように身が浮き上がります。
身体が無くなって、微細な光の粒になるような感じがするのです。
きっと、背後には光の帯がたなびいています。
小径を抜けると、遠くに茶色の背中が見えました。
「鹿だ……」とおもって、動きを止めます。
(奈良公園の鹿とは違って、ひとを見ると逃げるはず。)
カメラをかまえたら、いきなり電池切れ。
鞄を探って予備を取り出し、急いで替えます。
「森へ駆け込んだだろうか」と考えつつ顔を上げると、同じ所に居ました。
何枚も写真が撮れます。
鹿にしては様子が変。胴体がふたつ繋がっているみたい。
そして、どちら側が頭なのか判りません。
ああ、わかりました。

正午なので、夜行性の狐が遊んでいるとはおもえなかったのです。
(以前、『御杖村』では、真昼の県道をタヌキが歩いていたけれど。)

こちらも身を隠す所が無いのに、キツネさんは察知しません。
「みむろ山」から風が吹いていて、向こうが風上なのか。
時折、高く跳ねます。
物語の挿絵を見ているよう。
順番待ちをしていましたが、立っていられる時間が短いため(止まるのは動くより筋力を使います)、少し進んでみました。
さすがにキツネさんも草の間から顔をあげ、森のほうへ走り出します。
半分くらい走ってから、振り返りました。
心底を見極めるためか、キツネさんは視線を外しません。
もう少し進んでみると今度は、わき目もふらずに走っていきました。

「みむろ山」の山頂あたりは、大量の花粉を蓄えているのか、いつもと色が異なります。
花粉が飛ぶ時期を知りませんが、あれは桧?
今回は、山頂を画面枠から外しておきましょう。

ここで、先月の写真(4枚)を挟みます。
緑の濃い時期に来たことがあるけれど、新緑で視界を染めたいと願って、春にも様子を見に来たのでした。

「みむろ山」は、遠くから見ると、平筆で桜色を置いたようでした。


ほとんどの木が、まるで骨のよう。

以下は、本日(5月12日)。





足元にも、鮮やかな彩り。


古代日本は母系社会でしたが、広大な出雲王国内で、各地の姫君の家は、「大名持(王)」や「少名彦(副王)」が通うには遠すぎます。それで、
「妃には、王宮に近い土地が分けられたのでは」と、想像するのです。
家から切り離されて輿入れしたのではないから、移り住んだ先にも各地と同じ名が残っていくのでしょう。
姫君が、その地の「首長」となり、信頼という網を広げていったのでは。
この時代には女性は、敗者からの「献上品」ではありません。
かなり後の時代でも、大王の求婚を断った、という話があります。それで罰せられることはないのです。相手を択ぶのは女性側でした。
[注:『note』の記事は、学問を修めていない者が想像した内容で、歴史を学ぶ方の参考にはなりません。念のため。]
出雲(島根県)と同じように、やまと(奈良県)に創られた新王国にも、各地から姫君たちが移り住まれたのでは………
『やまとの 高佐士野を 七行く(ななゆく)媛女(をとめ)』の先頭は、
「(母系では)三島の姫君」でした。
この近くには、各地の姫君とともに大勢が移り住んできたのか、
「出雲」「宗像」といった名が残っています。
「高志」からも、翡翠とともに輿入れなさった方がいらしたのでしょうか。
あるいは、「高志国」の姫君がお住まいになっていた「美保」から………
『唐古・鍵 考古学ミュージアム』に展示されている「翡翠」は、
【鳴石を容器とし、土器片を蓋として、内部に「弥生時代最大・最良質級の翡翠製勾玉2点」を収納して埋納するという、これまでに例のないもの】。

上の写真は、以下の記事内。
上の記事に、なぜ初代大王の子(二代目大王)は『高志の国』の姫君から名をもらったのか、という疑問を書いています。
『村屋坐彌冨都比賣神社』の御祭神が「大物主」と「三穂津姫」の夫婦神になっているのは、高志の姫君の娘「ミホススミ(美穂津姫)」に縁ある方がお住まいになっていて、「みむろ山」方面から、どなたか通ってきたため?
古代史では、しばしば複数の人物が先祖の名に束ねられています。
「御由緒に書かれた大物主」も、「ミホススミ」の父「事代主」ではなく、大物主が祀られた「みむろ山」辺りを拠点とする方だったのでしょうか?
それなら、「高志の国の姫君」の名が「大王の名」に織り込まれる理由を見つけられない………と、考えずに済みます。
さて、いま居る場所に戻りましょう。
最も輝いているのは、台地の右側に並んでいる低い木。

「時間」という隔たりが存在しなかったら、古代の姫君たちの間をわたしは歩いています。

この場所を知られないよう、ひとが少ない梅雨時に来るつもりでした。
(小径の入口で先月、「龍の神社は此処ですか?」と訊かれて、「ここには何もありません」と答えています。それは、ほんとうです。)
梅雨時を待たなくて良かった………木々が放つ光を見られたから。

龍に見られている気がしたので、空を撮っておきました。
ここに初めて来たのは、最高気温33度の日[上の記事]。
そのときには、真っ白な雲が龍のようでした。
◇◇奥垣内祭祀遺跡◇◇
まだ少し歩けそうなので、以下の記事で巡った所にも行ってみます。
昨春には、早咲きの桜の向こうに「みむろ山」が見えました。
いまは、葉が繁っていて見えません。

先月には、しだれ桜が満開でした。その時の写真は以下。

いまは、山桜に可愛い実が生っています。



ここの磐座が「出土した実物」ではなく模造品に替えられ、実物の行方が判らないことに違和感を覚えている………と、以下の記事に書いています。
この磐座の西側に『二上山』が見えます。
「みむろ山」と「二上山」は、ほぼ同緯度と言われていますが、いま数字を確認したら、それも「山頂」より「標高326m」地点のほうが近かった………
「標高326m」については、以下の記事。
本日(5月12日)は、曇っていて遠くが見えないので、先月(4月1日)に『奥垣内祭祀遺跡』から撮った写真を載せておきます。

