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翡翠の姫

【記録◆2025年4月24日】

 先週(16日)、「宇陀市 榛原」から「大和盆地」へ帰るとき、
「みむろ山(三輪山)」が、このうえなく美しく視えました。

 雨が降った後、木々は光を放つのです。

 そのように視えることを、ありがたくおもいます。
 新芽の色を愛でて出雲を『出芽(いづめ)の国』と呼んだ方たちの感覚がこれまで遺されてきたのを………。

「初瀬川の岸まで下りて、心ゆくまで眺めていたい」とおもったのですが、高架になっている国道の右側へ行く道が判らなくて、通り過ぎました。

 行きたかった所には、樹々の緑が濃い時期に、逆方向から行っています。
[以下の記事。]


◇◇初瀬川の岸で◇◇

「1日ごとに緑は濃くなるから、同じ色は見られない」とおもいつつも、
「あの色が少しでも残っているうちに」と、大和盆地から向かいました。

 まず、『唐古・鍵考古学ミュージアム』で、「翡翠」の写真を撮ります。
「古代出雲王国」の話を書くために。

 前回(1月7日)には、鮮やかな写真が撮れていなかったのでした。

 今回もガラス越しにはうまく撮れなくて、フレームを付けたら、なんとか載せられそうな画像になりました。手前は、勾玉が入っていたという容器。

翡翠勾玉と褐鉄鉱容器

「縄文の宝石」と呼ばれる翡翠とは異なり、黒い石は光を吸収するためか、以下のように写真が撮れます。

打製石剣と剣鞘

『唐古・鍵考古学ミュージアム』を出て南へ走り、
『村屋坐彌冨都比賣神社』の近くから、東の山々を撮りました。

 正面は、『穴師山』。
 万葉挽歌で「大鳥の羽がひの山」と詠われたのはこの辺りと考えるのは、わたしひとりかも。

「石剣」で切り取ったような谷を見るたび、天の剣は隕石だったのだろうかと考えることもあります。

穴師山
みむろ山(北西から)

「みむろ山(三輪山)」は、遠くからだと緑の濃淡が判りません。
 この山の右(南)から、いま居る所まで『初瀬川』が流れてきています。

みむろ山(南西から)

『初瀬川』を遡ってきました(車なので、通りやすい道を)。
 ここの地名は、『金屋(かなや)』です。

 つい最近、「三輪山は鉄の山」という話を知りました。
『穴師』が、採鉱に従事する者を意味する、というのは知っていたけれど、
『金屋』に砂鉄が流れてくる、という想像はできません。

 でも、鉱石に詳しい方は、みむろ山(三輪山)から流れる「幸川」の底に溜まっている砂鉄を、簡単に見分けられるそうです。

「大和は稲作に適した土地だったから、ひとが集まってきた」という説は、わたしには疑わしくおもえます。というのは、奈良県南部は多雨地帯でも、そこから海へ向かう水が(1本の川さえ)大和盆地を通らないから。

「吉野川の水を引く」という大事業が、300年かけて成し遂げられるまで、「少雨地帯である大和盆地」の農業は、ため池が頼りでした。
 だから、古代人を惹きつけたのは、鉱物だったのではないでしょうか。

 翡翠は、採れません。勾玉となった翡翠の産地は、たぶん高志の国。
 けれども、この地の新緑は宝石のよう(雨の後なら名状しがたいほど)。

 古代人が翡翠を愛したのは、「出芽」が凝ったような色だから?

「みむろ山(三輪山)」は禁足地なので、許可なく登拝できません。
「緑の濃淡の内側」には入っていけないのです。

 同じように彩られた『鳥見山』が、南の方に見えます。
 そちらでは、照り映える色ではなく、光が透ける色を見られるはず。


◇◇宗像神社◇◇

宗像神社

「鳥見山(とみやま)」北麓を走っていて、『宗像神社』を見つけました。
 ここの石柱には「鳥見山」が、「登美山」という字で刻まれています。

 そして、ここの地名は、「外山(とび)」。

 古代出雲では、富家(東出雲王家)の「富」を、トビと発音しました。
 それで、大和(奈良県)に移り住んだクシヒカタの家は、「登美」という字を使ったそうです。

「登美(トビ)」が後に、「トミ」と呼ばれるようになった、とのこと。
「鳥見山」西麓の『等彌神社』は、「等彌(とみ)」と読みます。

 音と字を追うだけで、たいへん。
(奈良県民でさえも、「鳥見山」を「とりみやま」と言っています。)

 日本書紀に記された「金色のトビ」は、たしか登美家のこと。
「等彌神社」には、出土した「八咫烏」の神像が祀られているそうです。

 熊野に上陸した九州勢を「鳥見山」まで案内したのがクシヒカタの子孫。
「金色に輝く鳶が網膜に焼きつくと、黒い烏になる」という説もあります。

『宗像神社』の御祭神は、宗像三女神。
 以下の記事で行方を追った「タギツヒコ」は女神の名をもらっています。

 三女神のひとり「タギツヒメ」が、タギツヒコの祖母なのです。

 そこで、初代大王の子「沼川耳(二代目大王)」は、なぜ「沼川姫」から名をもらったのか、という疑問が生じました。

「沼川姫」は、翡翠の産地『高志の国』の姫君で、「事代主」の妃です。
「沼川耳」の祖母も「事代主の妃」ですが、「沼川姫」ではありません。

 事代主の妃「活玉依姫」の娘「タタライスズヒメ」が、「沼川耳」の母。
 事代主の妃「沼川姫」の娘は「ミホススミ」です。

 以下の記事に書きましたが、「ミホススミ」は事代主の子なのに、なぜか『村屋坐彌冨都比賣神社』で、父娘ではなく「夫婦神」として祀られます。

 似た例は多く、『大屋姫』は夫と、「夫婦神」ではなく「兄妹神」として祀られています。しかも、『大屋姫』のほうがだいぶ年上なのに。
『大屋姫』については、以下の記事。

「沼川姫」は「事代主」の妃なのに、古事記では「大国主」の妃にされて、なにが根拠なのか「高志の国を侵略した大国主とは政略結婚だった」という説までがあります。

 出雲王家は、武力で侵略しません。武力ではなく、言葉の力を使います。
「事代主」も、「コトシロヌシ」という音の意味は「言論で統治する王」。

「沼川姫」が、出雲から高志の国に戻ったのは、夫「事代主」の命が不意に奪われてしまったためで、「大国主から蔑ろにされたため」という説は何を根拠にしているのか解りません。

「事代主」は『美保の崎』で攫われたから、最期に会ったのは、美保の郷に住んでいた「沼川姫」だったのかも(会う前に行方がわからなくなったとは考えたくありません。会えないままになってしまったとは…………)。

 古代日本が「母系社会」だった頃は、家に通ってくるのが夫だったから、居ても居なくても暮らしに困ることはなく(財産を継ぐのも女性だった)、ひとは愛だけの結びつきで満ち足りていた、と想像します。

 現代日本が「父系社会」であるためか、「女性は老いると蔑ろにされる」という価値観で、古代史も解釈されているように感じます。けれども、
〇「大屋姫」と「イソタケ」の子「タカクラジ」は、ムラクモの異母弟。
〇ムラクモの母「穂屋姫」は、大屋姫が養育した「イソタケ」より年下。
という点から、

 この時代には、男性側に心の成熟が求められた、と考えます。

 20代前半にわたしは、「あんたみたいに年とった女は」と、50代男性から蔑まれたのですが、最近、『心が満たされないと、支配できる相手を求めて対象が際限なく低年齢化する』という話を聞き、合点がいきました。

「年とった女」の40年後

 以下の記事にも書いています。
「2200年前の社会を、現代の感覚で解釈するのは時代錯誤」と。

 また、上の記事で、「初代大王は、后が祖母世代である可能性も」などと書いているのですが、二代目になると、后が曾祖母世代である可能性も……

 それで、『やまとの 高佐士野を 七行く(ななゆく)媛女(をとめ)』
[訳:狭井川(さいかわ)沿いの台地で野遊びをする7人の乙女]のうち、最年長の姫が大王の后(祭祀王)となり、他の姫君が妃となって王家の子を育てていたのでは、と考えもするのです。

 競う必要がない社会では、女性たちも、愛だけで繋がれるから。

[注:『note』の記事は、学問を修めていない者が想像した内容で、歴史を学ぶ方の参考にはなりません。念のため。]

『宗像神社』から鳥見山西麓に向かって走ると、
「外山(とび)」の隣が、「薬師」という地名だったので驚きました。 
 前回の記事に、以下の仮説を書いたばかりだったので。


 記紀では、「大物主は祟り神となって疫病をもたらし、その子孫が祟りを鎮めた」という話になっているけれど、大物主が祟り神だったのではなく、「その子孫だけが、疫病を収められたのではないか」と。


 前回の記事は以下。


◇◇鳥見山(桜井市)◇◇

 九州勢に占拠されるまで、「桜井市の鳥見山」は出雲神族の聖地でした。
 ここから「みむろ山」を遙拝できなくなったため、「宇陀市の鳥見山」に遙拝の場を移しています。

『大神神社』御神体は「みむろ山(467.1m)」ですが、拝殿は山頂ではなく
「標高326mあたり」を西から遙拝する位置にあります。

『大神神社』の拝殿からは山頂を遙拝できないのに、『等彌神社』の奥から「鳥見山」に入っていくと、「山頂(467.1m)」と「標高326m」が正面で重なるため、南西から両方を遙拝できるのです。

みむろ山(鳥見山から)

 葉が繁る季節に来るのは初めて。
 みむろ山が見える場所は、冬よりも少なくなっていました。

「ふたつの山頂の延長線上」には、なんらかの力が生じるのか、来るたびに身体が変容します。安易な気持ちで行く所ではないのでしょう。

 上の記事で、等彌神社の『黒龍社』を参拝して、「この黒龍は大神神社の白蛇と対になっているようです」と書きました。

 ところが、つい最近、『大神神社の神は黒龍』という話を聞いたのです。
「大神神社」には、黒龍は祀られていないのに。

『黒龍社』の位置は、等彌神社の主祭神を祀る「本殿」より高い所です。
 ここにも、隠された歴史があるのでしょうか?

臥龍のよう

「臥龍」が「昇龍」になるような力が、地から天へ向かうのでしょうか。 このような形で再生している「倒木」が、何本も見つかります。

「鳥見山」の他では、見たことがありません。

昇龍のよう

 帰り道では、「緑の濃淡」を内側から撮りました。

稲荷社の鳥居

『黒龍社』から下りていくとき、きょうは『稲荷社』のほうへ行ってみようとおもいました。

ハートの形

 等間隔にハートが並んでいる道を進んでいきます。
 それらを形づくるのは、掃き集められた落ち葉と、神域を守る方々の心。

苔が輝く幹