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択びつつ進む

【記録◆2024年7月29日】①

 宇陀市には、「青葉瀧」と「青葉の瀧」という似た名の滝があります。

 月初めに行った『青葉(あおば)神社』の『青葉瀧(あおばたき)』は、以下の記事。

 本日の行き先は、『青葉寺(せいようじ)』の『青葉の瀧』です。

滝への山道

 10代の頃、『敦盛の最期』という話が教科書に載っていて、そのときに、『青葉の笛』という歌を覚えました。数え年17歳の若武者が持っていた笛は「青葉の瀧」近くの藪にあった竹で作られた、と言われているそうです。

道のそばの小瀧

 気温の高い日でしたが、細い流れに沿って樹々の間を進んでいく時には、暑いと感じません。

水面に映る樹

 流れが速い所なのに、映っている枝の葉が数えられそう。

青葉の瀧(下段)

 石積みの堰堤から水が流れ出ています。
 夏草に覆われているため、どこを通っているのか判りません。

堰堤の真下

 すぐ近くに行っても、石の間から流れているようにしか見えません。
 水量が多いときには、水路の出口が判るのでしょうか。

青葉の瀧(中段)

 晴れた日が続いたので、こんなに水が多いとおもっていませんでした。

 落ち口の向こうには、遠くにある「上段」の流れさえも見えています。
(真昼の光が当たっているため、写真では判りづらいけれど。)

落ち口
中ほど
浅い滝壺
流れ出る水

「お寺の境内で、古来より滝行が行われている」とのことでしたから、滝を写真で見たときには、ひとの手が加えられているように感じました。
 けれども、実際に見ると、おおかたが自然の造形だったのでした。

 奈良と三重の県境あたりには、「遺跡のように見える所」が多いのです。

滝の周り

 ここへ来るとき、下流の対岸も、上の写真のような壁になっていました。

上段へ向かう道

 滝の左側に道があったので、少し躊躇ってから上りました。金属の棒が、枕木より上に突き出ています。かなりの量の土が流れ去ったのでしょう。
 草を刈ってくださっているのがありがたい。

中段を見下ろす

 だんだんと滝から離れていく気がした時点で、引き返しました。
 なんとか滝が見える位置まで戻り、進む方向は合っていた、と確かめて、前後のどちらへ進むか迷った末に、再び折り返して先へ。

「帰ってしまったら、次の機会は無い」というのが判断の基準。
 ここからなら、まだ先へ進めます。二本杖で歩く車椅子ユーザーなので、進むときには帰るための体力が充分に残るよう、常に計算しているのです。

「青葉の瀧の上段」を目指していたのに、辿り着いたのは、その落ち口?
 山の上から蛇行してきた水が、足の下で大きく曲がって落ちていきます。

 そう、足の下なのです。地表に水はありません。
 それなのに地面は、流れの上にあるとおもえないほど安定しています。

 倒木や流木が作った堰に土が溜まったのなら、踏み抜いてしまうはず。
 しかし、どこを踏んでも、地面は固いのです。

「中段の堰堤」のように手が加えられて、そうなっているのでしょうか。
 ここも、夏草と堆積物が、水路を判らなくさせています。

 そして、地面の下に消える流れは、そのままの勢いで下流に現れます。

地下から現れる

 そして、すぐに急斜面を流れ落ちるのです。

流れ落ちる

「上段の滝」を正面から見られなかったため、ここが落ち口なのかどうか、確かめることはできません。

斜面を流れ下る

 来た道を戻るとき樹々の間から、斜面を下っていく流れが見えました。
 この先に上段の滝があるのかも。

樹々の間から

 帰り道をだいぶ下ったので、上の写真は、たぶん中段です。
 さらに下ると、来るときには気づかなかった分岐がありました。

分岐

 上段の滝前に出られるとしたら、ここ以外になさそう。
 しかし、かなりの量の土が右下へ流れ去ったのか、道ではなく山の斜面であるようにしか見えません。

「踏み跡」であったとしても、右側に杖を突く余地がなく、わたしは右脚が利かないので、少し躊躇ってから、「この先には行かない」と決めました。

 つまり、生きている間には行けないということ。
 不自由な身から離れて自由になったとき戻ってこよう、とおもいます。

 先天性の障害は左脚のほうが進行が速かったため、長らく右手だけで杖を突いていました(不自由な足を出す時には反対側の手に持った杖で補う)。
 右脚が利かなくなってからも、左手だけでは杖をうまく扱えないのです。

再び中段の滝前
左側から

 滝行に必要な「白い行衣」を着ていないので、
「かみさま、そばに行かせてください」と、挨拶をしてから近づきました。

 空中に舞いあがる飛沫が見えます。

右側から
右側から(中ほど)
右側から(滝壺)
右側から(流れ出る水)
最後に見上げて

 自然界では常に、自分が択べます。
 進む先も、引き返す地点も、居る場所も、在り方も。

 導かれているような気もするのは、大きな胎内のような場で周囲の全てと交感しているためでしょうか。
 そこは、誤った選択に対して寛容ではありません。

 だから、わたしは自分で選ぶのです。
 社会においても。

 先天性の身体障害があると判ったとき、「ダンスは、どの種類もダメ」と告げられました。「踊り続けたら、取り返しのつかないことになる」と。

 その6年前、40歳でジャズダンスを始めたときには、「この筋肉の状態で踊れるはずがない。精神力ですね」と、専門家に感心されていたのですが、障害があるのは別の所で、筋肉はそれを補うため疲弊していただけでした。

 後に、「筋疾患」の遺伝子も持っていると判りましたが、発症しているか確認していません。麻酔なしで筋肉を切り取らないと検査できないため。

 初めて麻酔なしで切られたのは幼稚園に通っていた頃でした。予告もなく顔の真横に医療器具を突き立てられる寸前、近づいてくる物の形状が怖くて(中世の騎士の槍のようでした)泣き叫んだのを憶えています。

「軍医さんだったから……」と、おとなたちが話すのを聞きました。
 でも、わたしは兵士ではなく、そこは戦場ではなかったのです。

 2回目に麻酔なしで治療されたのは、医療過誤によって瀕死になった時。
看護師さんに、「麻酔は使えないのよ。ごめんなさいね」と謝られました。
 動けないよう身体は、複数個所が縛りつけられていました。

 麻酔なしの治療が痛かった、という記憶はありません。
 瀕死になったのは、力任せに筋肉を裂かれたためだと後に判ったけれど、その痛みも記憶にありません。

 過去記事に何回か書いていますが、その加療は、「まったく必要がなく、なんの効果もなく、それどころか太い血管を引きちぎる行為」と、専門家が断言しています。3人の専門家が眉をひそめ、1人は激怒してくれました。

 戦争末期には、通常の半分の期間で医師免許が与えられたそうです。
 その差の数年間に学べなかった知識のひとつが、「まったく必要がなく、なんの効果もない加療は、健康体を損傷する」ということなのでしょう。

(そのとき裂かれた筋肉は治らないまま皮だけで繋がっている、というのが判ったのは20年後。手術が必要だけれど危険なので高齢になるのを待つよう伝えられました。高齢になってからも命を賭ける気になれませんが。)

 ごぼごぼと音を立てて流れ出た血が止まるよう傷口に布を詰め込まれて、
他の病院から駆けつけてくれた医師が、「危険は去った」と判断するまで、何時間も縛られたままでした。
(大きな病院の医師だったため、ご自分の診察が終了するまで、こちらには来れなかったのです。)

 数分ごとにこれ以上は耐えられないと感じた、という記憶はあります。
「苦しいので姿勢を変えられませんか?」と尋ねたら、看護師さんに再び、「(縛っている所を)外せないのよ。ごめんなさいね」と謝られました。

「耐えて耐えて生きられるのなら甲斐はある。これで生きられないのなら、耐えている時間は無駄になるだけでは?」と考えていました。

 数時間前に、死の宣告はされています。

 医師が口をすべらせたのです。そうでなくても、わたしが生きられるとは周囲の誰も考えていないのは判ったから、「それでも生きられたら、体験を文字にしよう」と考えたのでした。

 自己治癒力によって回復してくると、「生きられそうだ」と感じるのに、そのたび薬剤を注射されて元の場所に突き落とされるから、「楽になるなら治療だろうけれど、これは何なのか?」と、疑問が生じました。

(薬剤が追加されるたび、それを代謝する内臓に負担がかかるのかも?)

 注射針が近づいてくるたび、「それは何のためですか?」と質問すると、
数回の質問の後、耐えかねた医師が看護師さんに指示を叫びました。
「このひとには、何かをする前にかならず説明をしてっっ!」と。

 翌日に医師が、「身体がボロボロになるほど薬を使ったのに、あなたは、肝臓がまったく弱っていないのです。あれだけ大量の薬が使われると肝臓の数値がひどく悪くなるはずなのに」と驚いていました。 

 それで、献血者の腕から抜いた血液をそのまま注射するという全血輸血も試してみたくなったのでしょう。おおかたが死に至るという方法を。

「成分輸血とは違って、この方法だと必要な成分がすべて補われます」
 そう説明はされたけれど、「激烈な免疫反応がある」という面はそれらをわたしが自己治癒力で克服した「数十分後」に、笑いながら話されました。

 医学博士は、知識と照合できるのが楽しくなってきたのでしょうか?
「そんな状態になった時は呼べばいいのに」と、愉快そうに言われたので、
「もう治療は受けたくないのです」と、こらちも笑って答えたのでした。

(家族には前夜、「次は、そのまま死なせて」と頼んでいました。)

 その後も、こちらは不具合と感じていない症状までも加療で止めるから、「薬剤を入れられるたび不具合が増える」と、さすがに気づけます。

 身体は、壊れた組織や有害物質を排出しようとするのです。
「少し身体が休めるよう排出を止めましょう」と伝えられたので、
「必要ですか……?」と問いましたが、加療後、激しい頭痛が起きました。

 肝臓がボロボロになる量の薬剤も排出しようと頑張ってくれているのに、その働きを止めたら、有害物質は全身を巡るしか道がありません。

 実は、縛られていた所が解かれた真夜中は、最も死に近かったのでした。
 付き添っていた家族に、「どんな状態になっても、治療はされたくない。これ以上は身体を死なせてしまう。誰も呼ばないで」と頼んだのです。

 そして、「遠くに光の海が視える……。あの光と繋がったら生きられる。でも、遠いから、あの海との間に入って繋いで……光とわたしを」と。
 そういう意味不明な頼み事を聞いてもらえたから、いま生きています。

 ひとより此岸と彼岸の境界が遠くなったのは、たぶん0歳の時。

「泣き方がおかしい」と何度も指摘したひとがいるのに、「この子はいつもこういう泣き方をする」という返事に阻まれ、内臓が壊死した状態で放置をされたため、意識を失ったときに治癒力が限界まで引き出されたのかと。

(激痛と闘い続けて敗れるまでの泣き方がいつもと同じだったというなら、わたしは生まれたときから何と闘っていたのでしょう。)

 数十年後、「人間の基準が適用できない」と医療者たちに驚かれたのは、
「血液のおおかたが無くなっても意識を失わず、命も失っているはずなのに会話ができる」という点でした。

 その16年後には、別の医師から以下の点で驚かれています。
〇薬剤によって広範囲に壊死融解した皮膚が、痕も残さずに治っている。
(治らないはずなので、皮膚が再生するまで5ヶ月かかりました。)

 17年後には、別の医師たちから以下の点で驚かれています。
〇先天性の身体障害が末期に近い状態まで進行しているのに踊っている。
〇人並みの肺活量がないのに、エアロバイクで体力測定すると満点を出す。

 20年後には、別の医師から以下の点で驚かれています。
〇重度の貧血になっても顔色が良く、検査をするまで貧血が判らない。
〇重度の貧血なのにイベントに出て、最前列で2曲も踊っている。
(鈍いながら頭も身体も動いたので、振付が覚えられたのです。)
〇医学博士の見解によると身体は未産婦なのに、出産経験が2回ある。

 このとき、「お子さんたちは養子ですか?」と何回も確かめられたので、生前整理をした昨秋、27歳のとき(上の子と容姿がそっくり)と33歳のとき(2人目の臨月)の写真を、経産婦である証拠として1枚ずつ残しました。

 2回の出産の痕跡さえ消えるというなら、医療過誤で裂かれた傷も身体は治癒を進めているのかも。「病院へ行かない生き方」を選んだ12年前から、薬剤の代謝には力を振り分けなくてもいいので。

 0歳のときの緊急手術で癒着した内臓は、30年後と60年後の2回に分けて外れました。妊娠が進む速度で外れていったときは数ヶ月かかり、2回目は一度に外れたのですが、どちらも加療は受けていません。

 最初のときは医師から、「癒着が外れなければ妊娠は継続できません」と告げられただけでした。2回目は驚くほどの出血があったけれど、3日後に治りました(決まり仕事だけをして、なるべく横になっていたのです)。

 わたしの場合、身体に任せると回復は、最も良い道を択んで進みます。
 骨折したときも、すぐさま自分で整復して固定しておくと、小学生のとき同級生に蹴られて折れたときと同じ速度で治りました。

 病院へ行かないという選択を、ひとには勧められません。
「わたしには、自分で負うと決めた荷を負うほうが楽」というだけ。