1500万年が凝って(こごって)
「先天性の身体障害があった」と判ったとき、障害の進行によって失われた組織は決して再生しない、と告げられ、「わたしは再生する気がします」と微笑んだら、「痛ましい」というような顔をされました。
しかし、補装具で負担を減らし、再生しているとしか考えられない状態に戻った後、海外で、「ある条件下では再生する」という論文が出たのです。
「できるはずがない」「してはいけない」と禁止された行動を続けたから、
『ある条件下』を創り出せたのでした。
現在の病状を、年齢で判断した医師が、「病名は百パーセント○○です」と言い切ったときにも、「いますぐ病院へ行って治療を開始してください」という指示には従いませんでした。
どの科でも、誤診をされると、加療で身体を損なうばかりなので………。
そのような経過を、以下の記事にまとめています。
これまでの自分の体験は、生きている誰とも共有できません。
此岸と彼岸の境界を、わたしは、誰とも共有できないため。
それを『異・常識』と名づけた鍼灸師さんは、先天性の障害だけではなく重度の貧血にも気づいてくださった唯一の先生。
「あなたのように顔色の良いひとは検査の必要もない」と断言した医師は、しぶしぶ行った検査の結果に目を通すと青ざめて叫ぶのでした。「いますぐ治療を開始しないと命に関わりますっ」と。
つまり、検査をしない鍼灸の先生だけが、正確な診断をなさったのです。
手首の「脈」をとると様々なことが分かる、とのこと。
その後、「病院へ行かない生き方」を択んで、12年以上が過ぎました。
(医師には、「病院の加療が原因で、『悪性の腫瘍が身体の2か所で生じる可能性』が高いから、定期検査を怠らないように」と告げられたけれど。)
深刻な病状が現れてからは、鍼灸の先生に気づかれないよう手当てして、「なにか気づいても、『病院へ行きなさい』とは言わないでください」と、何度も頼んでおきました。
先天性の身体障害も、医療過誤で加わった障害も、医学で治せないから、「わたしは、わたしの専門家」と唱えつつ、何にでも対処してきたのです。
補装具を自分で作り、手当ての方法も自分で考え。
この世に在るのは、すべて誰かが創ったもの。
だから、自分で創ってもいいでしょう。
【記録◆2025年4月1日】
先月末、山へ行けない日が続いて、日常生活に必要な可動域が無くなってしまいました。さすがに苛立って、物を投げつけてしまうことがしばしば。
(拾い上げるときに何度も、「ごめんなさい」と言います。)
苛立つのは、「言われて嫌だった言葉」が、そういう時に蘇るため。
「障害を持つ人たちは、もっと苦しんでいるのに」と嫌味を言われるたび、
「23歳のわたしに『包丁で腹を切ってくれ』と懇願しながら命を終えた父が基準なので、自分の苦痛を見せようとおもいません」と返したかったから。
父の最期は、以下の記事内。わたしは父をなだめ続け、呼吸が止まると、母に人工呼吸の方法を教え、弟に心臓マッサージの方法を教え(本を読んで覚えていた)、静かな声で医師に電話をかけたのでした。
身体障害認定に付いていた「2年ごとに再認定」という但し書きにより、
「障害が進行性だから、重くなるたび級が上がっていく」と分かりました。
けれども、「病院へ行かなかった年月」は、この科では18年になります。
「治らないのなら、医学と関わりたくない」とおもって。
18年前の診察の最後に、「野山を散策しないでください」と言い渡され、
「行きません。行けないから」と答えました。すでに杖を使っていたため。
ところが、「両脚機能全廃」と告げられる予定だった年齢を過ぎてから、
両腕の力で野山を散策して、このところ「冒険家」を自称しています。
「障害の進行を遅らせるため医師から止められていること」をするほうが、わたしは、障害が進行しないので(むしろ逆行するので)。
今回も、二本杖で進みはじめると、日常の動きを妨げるほどの強い痛みがすぐさま消えました。ふだんと違う所を動かすと、ふだん酷使している所がほぐれるのです。
できなくなった動作をするため補助具を組み合わせて作った場を「巣」と呼んでいるのですが、「これで、また、靴下を履く巣で足の爪を切れる」と喜びながら、山の斜面を上っていったのでした。
◇◇嶽の立石◇◇
18年前に禁止された「野山の散策」より、のどかではなさそうな道が先に見えていました。
「ひとつでも岩を見られたら、引き返してもいい」と、まず決めます。

道標を「名札」と間違え、「嶽次郎さんですか?」と訊きました。
きっと数えきれないほど、間違われてきたでしょう。

この樹は、根の上に重い岩を載せています。
でも、芽吹いた場所で、岩の何倍も高くなりました。

「嶽次郎さんですか?」と訊きましたが、それも間違い。

「嶽次郎」さんは、遠くからも判るほど大きかったのでした。
こちらに、切り口のような面を見せています。
手前に倒れているのが、かつての半身。
どのような力が、この大岩をふたつに分けたのか。

浸食によって断面は、二度と合わさることのない形に変わりました。
「立石」の眼差しは、分かれた「寝石」にそそがれています。

「そういえば、『室生龍穴神社の天の岩戸』も、巨石が樹を生やしていた」
と思い出しました[以下の記事内]。
風が岩の表面に残した土から、根を伸ばし続けてきたのでしょうか。
柔らかく温かい土に根差すよりも深く。
そうして、真下には細い根さえも伸ばせない場所で、
「強い風にも倒されない木」となったのでしょうか。

次の岩を、わたしだけが呼びます。「馬酔木の岩」と。
可憐な白い花が、岩にかぶさっているから。

昭和28年発行の「昭和文学全集18 堀辰雄 集」は旧仮名遣いなのですが、そこに収められた『花あしび』という作品を、10代の頃から愛しています。
旧仮名遣いではない文庫本では、『花あしび』は『大和路』という題名になっていました。わたしが、京都出身なのに京都を巡らないで奈良にばかり来ていたのは、この本に内包された世界と響き合っていたかったため。
堀辰雄は馬酔木を、「氣品がある」「いぢらしい風情」と書いています。


「嶽三郎さんですか?」と、遠くから呼びかけます。
違いました。
尾根の道は、まっすぐ先に続いていますが、道標は右の斜面へ向かう道を差しています。
このまま曲がらずに歩いていきたい。こういう道は、脚に優しいので。

このあたりの岩は、なぜ、転がらずに立っているのでしょう?
まるで、天から降り注いだみたいに。あるいは、誰かが置いたみたいに。
帰宅後に調べると、「1500万年前の大規模な火砕流が堆積し、溶結して、釣り鐘状になっている」とのこと。

「嶽三郎」さんは、「天の磐船(あまのいわふね)」を思い出させます。
そちらは、山に隕石が落下したとき飛び散った岩だというけれど、出自が違うのに、こうまで似るものでしょうか。


身体障害が無い方だと、こういう道が歩きやすいのでしょうか?
枕木があるために、わたしは、時間をかけて下りなくてはなりません。
土のままの道なら、足が置ける場所を繋いで、翔けるように進めるのに。
でも、枕木がないと、土が流れ去ってしまうのだとおもいます。
階段を下りた所から、来た道を戻らなくても帰れそう。
かなり急な上り坂ですが、山道なので、翔けるように進んでいきました。

下の道から「嶽次郎」さんを見ると、岩に生えた木の姿がわかります。

逆の方向から、この道を下って階段を上れば、少し楽だったはず。
階段を下りるのではなく上るのなら、両腕の力で身を運べるので。
