光透霊(ことだま)
「してはいけない」
「しないといけない」
そういった言葉を発するのは、「先生」と呼ばれる方々。
(この文章の前後を逆にはしないでください。)
「実行前には黙っておく」というのが何よりも重要。
「できるはずがない」という言葉で先回りをされないよう。
追い風が吹くまで待っていたら、できる時は過ぎてしまいます。
(進行性の障害がある場合は特に。)
だから、せめて逆風が生じないよう、注意を払うのです。
「できるはずがない」と言われて聞き流していると、次には、
「取り返しのつかないことになる」という言葉が来ます。
あきらめるよう説得するのが「先生」の役割で、子どもたちが生徒なら、同じように可能性を否定しているのでしょうか?
それでは、ひとは進化できません。
結婚した直後にわたしは、訊きもしないのに内科医から断言されました。
「妊娠はしない」「妊娠しても流産する」と。
けれども、その9ヶ月後に出産しています。
そして、出産したときには、訊きもしないのに産科医から、次の可能性を否定されました。
また、生まれた子に対しては、「こんな赤ん坊はみたことがない。人間は優れた資質であっても異質なものを排除しようとするから、この子は将来、苛められます」と、得意げに告げられたのでした。
それで、「言霊というものがあるのに、どうして赤ん坊の前で、『将来、苛められます』と、自信満々に宣告するのですか?」と反論したのです。
「これまでにいなかったのなら、いま集団で生まれてきているのです」と、根拠もないのに直感を伝えたら、医学博士は、知識では反論できないため、「あなたが正しい」とおっしゃったのでした。
この子は3歳のとき、
「おかあちゃんのおなかのなかに しゅぅ~っと きたの。おかあちゃんのところに おかあちゃんがすきとおもって きたの」と話しています。
すぐさま記して、「なんのために うまれてきたの?」と訊いてみたら、
「あそぶためっ」と、うれしそうに即答されました。
わたしの子どもたちは、生まれる可能性を医師から否定されていたので、「生きているだけで良い。あほらかに生きよ」と伝え続けていたら、先生と
呼ばれる方々には「規格外」と映ったらしく、
「おかあさん、心配でしょ。毎月、教育相談を受けられますよ」と、何回も勧められ、「心配していません」と答え続けて12ヶ月目に、「おかあさんは少しも揺らがなかったので尊敬します」と、心から感心されました。
また、面識のない先生からは手紙をいただき、「ダンスで賞を取られたとお子さんがうれしそうに話されていました。踊られる間があるのでしたら、お子さんの成績がもっと良くなるよう見てあげてください」と伝えられ、
「教育学の教授に面談をお願いしておきましたから」と、都合も訊かないで日時を決められていたため、遠くの大学まで行くことに。
ところが、教育学の教授は、「ご家庭にも、まったく問題はありません」と結論づけて、「私から先生に、他所のご家庭に口出しをする間があったら貴女のすべきことをしなさい、と伝えておきます」とおっしゃったのです。
それから小声で、「いまは学校がおかしくなっているから、こういう子は学校へ行かないほうがいいのですよ」と、本音を言い加えられたのでした。
ここまで先生方に心配された子どもたちは、自発的に勉強を始めたとき、
クラスや学年で1番になっています。わたしには、子どもたちがもらった「皆勤賞」のほうがうれしかったけれど。
可能性に満ちた子どもや若者さえも狭い枠に押し込めようとする社会が、
「高齢の障害者」の行動を執拗に止めようとするのは当然なのか………

しかし、先生方には、「できるはずのないことができる理由」は判らず、代わりにわたしが、考えついた仮説を専門家に伝えています。
「人並みの肺活量がないのに、心肺機能が健常者より高いのは、運動選手が空気の薄い高地で訓練をするのと同じような効果があったためでは」とか。
「貧血にならないのは、体内を巡っている血ではなく、これまでに有害物を包み込んだ赤血球が、壊死した腫瘍から排出されているためでは」とか。
腫瘍に関する「仮説」は、以下の記事内。
専門家でも、それぞれの立場から正反対の主張をしていますので、両方を知るようにしています。
そして、どちらも否定はしないで、自分にとって正しい説を取るのです。
ある本には、「大量の出血が続けば貧血になるし、何ヶ月も気にしないで過ごせる人はいない」と書かれていたから、「3年3ヶ月の間に失った量を考えると、物理的にはおかしいとおもいます」と、心で返事しました。
また、「たいへんな悪臭を伴うので、その苦痛に耐えられるはずがない」と書かれていたから、「たぶん有用微生物が無臭にしてくれています。床に血液がボタボタ落ちていた頃にも」と、心で返事をしました
「30年前、乳牛70頭がいる牛舎を微生物で消臭した話」は、以下の記事内。
0歳のときには、内臓が壊死するまで放置されても生き延びました。
医療過誤による大量出血で、生きているはずがない状態になったときも、
この世に留まりました[詳細は、以下の記事]。
日本人は「言霊が宿る貴重な言語」を使える希少な存在なのに、どうして他者の心に絶望を延々と撒いていくのでしょう。
友人は妊娠中に医師から、「胎児が出産まで生きられる可能性は0%で、もし生まれても重い障害を負っている」と告げられたけれど、そのとおりになりませんでした。
別の友人は医師から、「生まれた子が生きられるのは、3週間が限度」と告げられたけれど、そのとおりになりませんでした。
「世界中でも、10歳まで生きた子はいない」と教えられた友人もいますが、そのとおりになりませんでした。
他者の心に絶望を捻じ込もうとするのは、希望を持たせないため?
しかし、かなう願いを断ち切る言葉は、呪いなのでは。
いっぽうで、「先天性の障害でも、絶対に治ると信じないとダメっっ」と強く言われるのが、わたしには煩わしい。
この記事の見出し画像で、チョット黒い笑みを浮かべているのは、
「先天性の障害が治るのはダイエットより簡単とはおもわれたくない」と、公言できた瞬間だから。
「したいこと」は、どうすればできるか分かります。
できないことは、したいとおもいません。
何十年も前、幼い子どもの小さい傷が治らないので不思議におもったら、
「ちかくにいたおとなが、えらいことになったとさわいだ」と、泣きながら話してくれました。
それで、「そんな言葉は聞かなくてもいい。明日に治るよ」と慰めたら、これまでと同じく、翌日には傷痕が消えていたのです。
若い友人にずっと前、「心配をするって、優しい心のようにおもえても、重たい想いを送りつけて、相手が望む進展を妨げることでは」と話したら、
「良いことのように、ぼくはおもっていました」と、すぐ返ってきました。
真心の器となる言葉なら、光を広げていく「言祝ぎ」となります。
