見出し画像

風まかせ文芸部 『傘』

「この傘、誰の?」
そんな声が聞こえた。
その場にいた皆が振り返る。
英会話スクールの授業が終わり、生徒全員が教室から廊下に出てきたところ。
教室の入り口にある傘立ての横で、講師の田中さんが二本の傘を手にしている。
一本は自分ので、もう一本は誰のものか?ということだろう。
真っ赤な傘。雨に濡れている。
「全員教室から出たよね。授業の前は傘立てに傘は無かったし、誰か忘れてると思うんだけど」
お互いが顔を見合わせる。
そして、自分が手にした傘を見る。
誰もが一本ずつ、傘を持っている。
「え?じゃあこれ誰のだろ?」
そう言いながら、田中さんが赤い傘を開いた。
やっぱり誰も、見覚えがない。
「あ、そーいえば、途中で教室に入ってきた人がいましたよね?」
一人の生徒が言う。
「途中で?いましたっけ?」
……そういえば、いた。
あれは、桂木さんだった。
「え?桂木さん?だって彼女は……」

先週の木曜日。
この英会話スクールがあった日だ。
桂木さんも出席していた。
そしてその帰り道、別れた夫に襲われたという。
喉を刺され、即死だった。
そんな話を、地元のニュースに詳しい人から聞いた。
だが、今夜教室に遅れて入ってきたのは、間違いなく桂木さんだった。

「え?それは、幽霊ってことですか?」
「そんなバカな。見間違いだよ、きっと」
見間違いなんかじゃない。
教室の一番後ろに座っていた私は、後方のドアをそっと開けて教室に入ってくる桂木さんに気付いた。
そんな私に桂木さんは、ふっと笑いかけて、私の二つ隣の席に座った。
その時は何故か、彼女がもうこの世にいないことすら忘れていた。
ずっと一緒に授業を受けてきて、彼女が教室にいることが当たり前だったからだろう。

34歳。三ヶ月ほど前に離婚したと聞いた。
理由は夫の暴力。
私は、その相談に乗ったことがある。
相談を受け、その先を話し合う仲になっていたのだ。
そのまま、夜をともにしたこともある。
お互いに独り身で、年齢も近く、次のパートナーとして考えるのに何の違和感も無かった。
なのに……彼女の死に対して、こんなにも薄い感情しか持てない自分がいるとは。
嘆き悲しむこともなく、淡々と日々を過ごしていた。
だから、教室に入ってきた彼女に、何の驚きも感じなかったのかもしれない。

「でもこれ、桂木さんが使ってた傘と違いますね」
誰かが言った。
「え?そうなの?」
「ええ。彼女が使っていたのは、緑色の水玉模様の傘でした。私、雨の日に彼女と何度か一緒に帰ったことがあって、よく覚えてるんですよ」
私と同い年ぐらいの男性。
確か……中谷さんだったか。
「実は私達ね、付き合ってたんですよ。別れた旦那さんのことも相談されました。今でも付きまとわれているとか、不安がっていて……まさかあんなことになるとは」
中谷さんが肩を落とす。
私は、その言葉のどこかに、自分が彼女の死を心から悲しめない理由を見つけ出そうとしていた。
そんなところにあるはずもないのに。

「でもじゃあ、この傘は?桂木さんのではない?」
「やめてくださいよ。桂木さんの傘なわけないじゃないですか。誰かが傘を差さずに帰ったんですよ、きっと」
生徒はまだ、全員ここにいる。
そして、窓の外には激しい雨が降り続けている。
「でもさ、よく見てよ、その傘。薄っすらと水玉模様が見えるよね。……もしかしてさ、その赤って、桂木さんの血の色……首を刺されたって聞いたけど」
講師が慌てて傘を放り投げた。
傘は床を転がって、私の足もとへ。
「やめなさいよ!なんて不謹慎なことを言うの?ねえ、もう帰りましょ。傘なんて置いていけばいいじゃない」
私の足もとにあった傘がふわりと浮いた。
まるで、誰かがその傘を手にして、自分の頭上に差したかのように。
「えっ……嘘……」
宙に浮いたままの真っ赤な傘の下、誰もいないのに、何かがいた。

「桂木……さん?」
廊下の照明が点滅する。
そこにいた人達が、解き放たれたかのように逃げ出した。
私と、中谷さんだけが残される。
気付けば、身動きが取れない。
「これは……どーゆーこと?」
中谷さんが、傘の下の誰もいない空間に問いかける。
傘が揺れ、湿気で曇った窓ガラスに、指で書いたような文字が、綴られてゆく。
『I'm sorry I can't choose.』
一選べなくて、ごめんなさい一
窓を見つめながら、中谷さんが戸惑いを見せる。
「そんな……じゃあ、あなたも?」
「え……いや、私は……」

その瞬間、私の体が吹き飛ばされた。
廊下の暗闇の中、信じられないほど体が宙を舞い、床に頭を叩きつけ、そのまま気を失った。

翌朝、意識を失って廊下に倒れていた私と、床に置かれた真っ赤な傘に包まれるようにして息を引き取っていた中谷さんが発見された。
警察が呼ばれ、事情聴取を受ける。
「いったい何があったんです?」
まだ若い警察官に問われるが、何と答えればいいのか……信じてもらえる説明を用意していない。
「いやあの……つまり、私は選ばれなかったってことです」
「……は?」
窓を見るが、すでに文字は消えている。
英会話教室だからって、何も英語で……。
桂木さんらしいかな、とも思った。
授業を受ける態度はいつも真剣だったもんな。
いつか、新しいパートナーと海外旅行に行きたいとも言っていたっけ。
それは……私ではなかったということか。
今頃、彼女は中谷さんと……。

英会話教室のあるビルを出る。
雨上がりの気持ちのイイ青空を見上げ、思う。
私は救われたのだろうか?
それとも、取り残された?
まあ、いずれにせよ、私は生きている。
それだけで、これからも英語を習う理由が生まれるってもんだ。
女性は他にもたくさんいる。

あの夜、私が桂木さんと仲睦まじく歩いている姿を、ずっと物陰から見つめていた元夫が、今まさに刃物を持ち私の背後に迫っていることに、私はまだ気付いていない。

こちらの企画に参加させていただきました。
よろしくお願いいたします。

いいなと思ったら応援しよう!