アジール ー自分軸の拠点ー【最終回】
あらすじ
日韓ワールドカップが開催された2002年。
零細な音楽事務所を経営していた41歳の私(戸田)は、ワールドカップのテレビ観戦どころではなく、公私ともに悶々とした日々を送っていた。
そして秋も深まったある日、南青山から恵比寿へ向かう明治通りを歩いていて、かつての女友達の北川さんと邂逅する。
臨床心理士を辞め、シンガポールに単身赴任していた北川さんは、帰国してジュエリーデザイナーとなっていた。
お互い配偶者のある立場で、決して一線を越えることのなかった私(戸田)は、北川さんを勝手に〝ソウルメイト〟だと思い込んでいたのだが・・・・・・。
北川さんとの、カウンセリングもどきの会話で、〝アジール〟という概念を教えてもらった私(戸田)は、孤独ながらも〝自分軸〟で生ききっていこうと決めた。
アジールって?
「アジールって? 聖域のこと?」
「そうね。注意したほうがいいのは、聖域であるアジールは自分の〝内〟にあるということ。〝外〟に作ったほうが人間にとって楽なんだけどね、そうすると宗教になっちゃうから。それが心地良いという人にはそれでもいいんだけど」
「じゃ、俺のアジールは?」
「そんなこと、人に聞いているようじゃ・・・・・・」
呆れるとほんの僅かに斜め左下に視線を泳がせる北川さんに、私はこう質問した。
「そのアジールってのはさ、パワースポットとは違うの?」
わずかに左目を細めて、アララ!という表情を見せた北川さん・・・・・・。
「いかにも戸田さんらしい連想ね・・・・・・」
「ということは違うんだね?」
「パワースポットと言われている場所には気をつけたほうがいいわ。全ての人に都合のいいことが起きるなんてあり得ないし」
それぐらいのことは私にも想像がつくが、私が黙っていると北川さんは畳みかけるようにこう言った。
「そういえば、昔、良く戸田さんが学生時代、京都の鞍馬寺から貴船神社までの山道を歩いていたら、口から出まかせに言ったことが、すぐ現実化した話を、耳にタコができるくらい聞かされたのを思い出したわ」
もちろん、私もよく覚えていた。
「大学3年と4年の間の春休みに、日本文学科の修学旅行で京都に行ったときの話だね。木の根っこが這いまわっていた鞍馬の山道で、近くにいた女性に口から出まかせで、俺は今、バンドをやってないけど、必ず京都にツアーに来ると言ったら、1週間後にあるバンドから誘われて、1ヶ月後のゴールデンウィークに、東名阪のツアーで京都の拾得と京大西部講堂で演奏した実話ね」
「私は鞍馬にも貴船にも行ったことはないけど、たぶん、あの辺は何らかの説明できないパワーがあるとは思うけど、人が自分に都合よく考えているパワースポットでなないと思うわ」
そうかもしれないと私は思った。
自然だろうが宇宙だろうが、パワーっていうのは、人間に都合のいいものとは限らないことは想像がつく。
地震や津波だってパワーには違いないし。
「じゃ、どんなパワーなんだろうか?」
「そうね、パワーのことはわからないけど、あの辺りって磁場が相当変わってるんじゃないかしら? SFみたいな話にはなるけど、何か強烈な磁気の変化で、過去と現在と未来という時間軸が変容するようなイメージかな?」
「時間があるのは重力があるからで、その重力が磁気の作用を受ければ、未来のイメージが現在に現れる? とか?」
SFチックとはいえ、難しい話になってきた・・・・・・。
「そうね、そんなイメージかしら? それに時間とは、過去・現在・未来の順で進むのではなく、未来から現在、そして過去という、常識とは反対のベクトルで進むという説もあるの。磁場の作用で、記憶が未来から現在まで流れてきたのならば、戸田さんの経験も説明できるわ」
北川さんは笑いながらこう言った。
「となると、パワースポットというよりも、善悪とかを超越した、とにかくわけのわからない怖いところかもしれないね」
「ええ、磁場がどう作用するのかわからないから・・・・・・」
「北川さんのいうアジールは違うんだね?」
「ええ。それでも土地には土地のエネルギーがあるからね。例えば戸田さんのアジールにあたる土地には、戸田さんの思念がエネルギーとして残留しているかもしれないし、戸田さんの魂にアジールのエネルギーが作用し続けるかもしれないけど・・・・・・」
「それで何か都合の悪いことは?」
「ないから安心してね」
その夜以来、私は北川さんとは逢っていない。
翌年の2003年、私はオフィスの代表取締役を辞任した。
解散を決定した「ZZT」最後の全国ツアー終了のタイミングだった。
フロントマンのヴォーカリストのみオフィスに所属したまま、メンバーを募集して新バンドを結成する予定だった。
私も大いに期待していたソロアーティストもメジャーデビューを果たしており、ブレイクに向けてのロードマップは出来上がっていた。
所属アーティストのポートフォリオに問題はなかった。
私の後継者は「ZZT」のチーフマネージャだった。
42歳で私がこの仕事から引退したのは、前年に北川さんからアジールの話を聞いたからだったのか、そうでなかったのかは今でもわからない。
そのあたりの自分の意思というものが自分でも確信できないのだ。
ただ、人生で起きることだけが起きただけ、と私は思っている。
経営学部の出身だった私は、都内にある母校の大学院に入学した。
そこでコンピュータによる統計解析、データ分析を学んだ後、幸運なことに指導教官のツテで、民間のシンクタンクに入社した。
他にはマネジメントオフィス経営の経験を活かし、ポピュラー音楽の専門学校で非常勤講師の職を得たこともあった。
住居もさいたま市内の実家近くに移し、一人暮らしを続けてきた。
コロナ禍の2021年、シンクタンクを定年退職した私は、フリーランスのデータサイエンティストとしてSQLやパイソンを使いながら仕事を続けていた。
北川さんと逢わなくなってからも、慌ただしかった生活の合間に、私はアジールのことを考え続けてきた。
幼児期からの記憶を掘り起こせば、自分のアジールを特定するのはそれほど難しいことではなかった。
アジールとは〝自分軸〟で生きる拠点
1968年の4月から3年間、都市銀行に勤務していた父の転勤で、両親と兄と私の4人家族は、山梨県甲府市内の社宅で暮らしていた。
父の勤務していた銀行の甲府支店に、地元の和菓子メーカーの社長さんが新しく発売したお菓子を持参されて紹介したそうだ。それが「桔梗信玄餅」。そんな時代だった。
私は小学校2年生の4月から5年生の5月(7歳から10歳)までの間、甲府駅北口にほど近い小学校に通っていた。
学区で指定されていたのは武田神社西側にあった小学校だったが、社宅の子供たちは駅北口に近い小学校に越境通学するのが通例だった。
鉄筋コンクリート3階建ての社宅は、甲府駅から武田神社に向かって北に延びる武田通り沿い、山梨大学の北側の大手1丁目にあった。
その社宅の庭で私は、父から補助輪を外した自転車の乗り方を教わった。
庭の武田通り側には、コンクリート製の滑り台と砂場があり、反対側にはとても狭いながらも、小学生が野球で遊べるほどの細長い庭があった。
私の記憶では、その庭で遊んだ相手は、同じクラスの友達と社宅の友達の半々だった。
この社宅で生活していた7歳から10歳までの3年間は、私の自我が芽生えるプレステージだった。
今でも鮮明に憶えていて、青春期に入ってからの私が、自分の根の暗さの根源に違いないと直感した経験があった。
ある日曜日の昼下がり、運動神経に恵まれなかった私が、大好きな野球で仲間外れにされた。今でも鮮明に憶えているが、一人で社宅の階段の2階と3階の間の踊り場でうろついていた私は、強烈な憎悪を噛みしめていた。
僻み、嫉妬、恨み。生まれて初めて体験した〝憎しみの原点〟だ。
当時、まだ競争や争いから無縁だった私は、山梨大学の学生が『沖縄を返せ』を歌いながら武田通りをデモ行進していたのを友達と見物していた。
テレビでは東大安田講堂の闘争が報道されていて、当時の私には何の感興もなかったものの、それらの景色と映像は自然に私の耳目に入っていた。
それから10年も経っていない高校生になった私が、山梨大学の学生達と同じ白ヘルメット姿で三里塚闘争や狭山闘争に参加することなど、当時の私は夢にも思っていなかった。
北川さんの指摘のように、自ら争いの世界に飛び込んでいったのだ。
大手1丁目の社宅から武田通りを挟んだ西側に、子供にとってはとても広く感じられた原っぱがあった。
雑草が生い茂っていたこともあり、子供たちが遊び場にすることはほとんどなかった。
この原っぱこそ、私が一人で自分の世界に浸っていた空間だった。
当時は認識していなかったが、社宅から武田通りを挟んだ西側の原っぱの住所は屋形二丁目だ。原っぱの西端には小さな小川が流れていた。
北から南に向かって標高が下がる盆地なので、小川の水の流れは勢いがあった。
ある日、私はこの小川に、どこかから拾ってきた30センチぐらいのお気に入りの鉄材で橋を造ることに熱中した。
橋の両端の土を手で擦って艶を出す。それだけで完成したのだが、生まれて初めて自分の空間を創造した手応えと充実感を憶えている。
その日、どこからか子供たちが現れた。越境通学していた私が知らない子供たちで、武田神社の西側の小学校の通う子供たちだった。
子供たちは私が造った橋を見ると、いきなり鉄材の端を取り上げ、遠くへ投げしてしまい、そのままどこかへ立ち去っていった。
それでも私が怒ることはなかった。
口惜しささえ感じなかった。
争うことを知らなかったし、また鉄材を拾ってきて造り直せばいいからだ。これが私の本質、北川さんが言った〝一国平和主義〟なんだろう。
この広場に友達を連れて来たことはなかった。
一人でいることの平和を愛する私が、唯一、自分の世界に浸ることのできる原っぱこそ、私のアジールだったのだ。
私が熱中して読んでその世界に引き込まれていた『魔女とライオンと子供たち』をこの原っぱで読んだわけではないのに、それから数十年後に『ナルニア国物語』がブームになったとき、私の脳裏に浮かんだ光景はこの原っぱだった。
つまり、一人で過ごすことが心地良かった当時の私が好きだったモノやコトは、ほとんどがこの原っぱの記憶に収斂されていたということだ。
今はもう存在しない原っぱ、アジールは、私の内面に存在していたのだ。
そして、小学校5年生のとき、父の転勤で埼玉に戻ってからは、あの「ヒガハス」辺りも、私のアジールとなったのだ。
2024年12月のある日。
私のFacebookのメッセンジャーに、北川さんからのメッセージが届いた。
Facebookで私を検索したそうだ。
私達が最後に逢った2002年から22年が経っていた。
北川さんは20年前、既に起業していた配偶者とともに豪州に移住していたそうだ。
2002年から僅か2年後の移住ということになる。
以下、北川さんからのメッセージだ。
(略)と、こちらではそんな生活をしてきたのですが、私は末期の乳がんで余命3ヶ月と宣告されました。
そして今、在宅緩和ケア中いうこともあり、人の死生観についての事例を片っ端から収集して頭に入れることに集中してきました。
臨終を間近にした人達が最も後悔したこと。
それは「もっと自分に正直に生きても良かった」、つまり今流の言葉で言うと、もっと〝自分軸〟で生きて良かったということです。
私流の解釈ですけどね。
人は幼児期から家庭・学校・職場、つまり社会で生き残っていくために〝他人軸〟で生きる洗脳を施される。
洗脳が言い過ぎなら、刷り込み・教育と言ってもいいでしょう。
もちろん、それも〝愛〟なんですけどね。
でもそういう刷り込みによって社会に適応した私達は、こんな世の中でも居心地よく、機嫌よく生きるために、もう一度、生まれたときのように〝自分軸〟に戻って生きたほうがいいことに気づきました。
そしてこの二十数年間、私の心のどこかに引っ掛かっていた、恵比寿で戸田さんに言った一言を思い出しました。
『戸田さんは他人と一緒に生きることに向いていない』と私が言ったのを憶えていますか? あのときの私は感覚だけでそう言いました。
そして今、戸田さんが〝自分軸〟で生きていなかったことが、『他人と一緒に生きることに向いていない』ことの根拠だったと気がつきました。
それは、戸田さんのアジールに他人が入り込むスペースがなかったということでもありました。
体力が驚異的に落ちていることもあり、私にはここまでしか言えません。
もし、私の気づきに感じるものがあれば是非、考えてみてください。
SNSでメッセージを送れるのもこれが最後だと思います。
レスは無用です。
もしも戸田さんがご自身で結論を導き出せたならば、あちらの世界? でまた逢えたときにでも聞かせてください。 以上
よくよく考えてみると、〝自分軸〟で生きることは決して難しいことではない。
高校入試、大学入試の受験勉強のときでさえ私は〝自分軸〟で生きていた。
時間と労力をかければ、ある程度の成果が出た受験勉強は、それはそれで面白かったし、一種の快感でもあったと今になって気がづいた。
〝自分軸〟なのだから、他人の存在は全く気にならなかった。
つまり、私にとっての受験勉強は競争などではなかったし、敵などいなかったのだ。
だから試験会場で緊張する人がいたことが信じられなかった。
逆に、それから後、私は人生のほとんどの場面において〝他人軸〟で生きてきたようだ。
恋愛でも例外ではなかった。
〝自分軸〟で生きていなければ、恋愛など成立するわけがない。
ただ自らの欲望に忠実なだけで、当然、嫉妬や善望、絶望に飲み込まれたりする。
愛などないのだ。
そんな経験も数えきれなかった。
結婚生活だって破綻して当たり前だ。
狭い業界内部での派閥争い。
これも〝他人軸〟で生きる人間にとって、あらゆるハラスメントを内包した快楽だったのかもしれない。
〝自分軸〟で生きてさえいれば、〝世界〟は自分を受容してくれる。
〝世界〟が自分を受容してくれれば、どんな誹謗や中傷もどこ吹く風だった。甲府市の原っぱでの経験、そして甲府市から(旧)大宮市に戻ってきた後、中学二年生夏休みの「ヒガハス」付近での写生時の経験でも。
ところが、思春期の後半以降、私は、他人からの中傷や妨害、いや悪気のない言動・行為に対してさえ過敏になってしまい、ときには過剰な反撃をする人間になってしまった。
思春期の自我の芽生えがあったとはいえ、他人からの視線・評価が異常に気になるという〝他人軸〟で生き続け、どこで学ぼうが働こうが、生活しようが、たちまち居心地の悪さに飲み込まれてしまう。私の人生のほとんどはそうだった。
〝他人軸〟で生きて、自分を世間に合わせたつもりでも、〝世界〟は私を受容などしてくれないというパラドクス。
〝他人軸〟から脱することなく、〝他人軸〟の中で、それでも自分であろうとする悪あがきによる軋み。
そうだ。〝自分軸〟で生きていさえすれば、あらゆる場所が自らのアジールになる可能性があるのかもしれない。
そして、いつの間にか〝自分軸〟から離れてしまったことに気がつく度に、記憶の中でいいので、アジールを思い出せばいい。
北川さんが力を振り絞って贈ってくれた最後のメッセージのおかげで、私は今からの残りの人生を〝自分軸〟で生ききってやろうという愉しいギフト(課題)を得ることができた。
そのお礼は、あちらの世界? でまた逢えたときにでも。
Thank you for everything. Goodbye, my dear friend.
了
【歌詞引用】
「ひとり芝居」
(作詞:山田晃士、作曲:奥野敦士)日本音楽著作権協会 作品コード 023-9738-2)
