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アジール ー自分軸の拠点ー【連載③】

あらすじ

日韓ワールドカップが開催された2002年。
零細な音楽事務所を経営していた41歳の私(戸田)は、ワールドカップのテレビ観戦どころではなく、公私ともに悶々とした日々を送っていた。
そして秋も深まったある日、南青山から恵比寿へ向かう明治通りを歩いていて、かつての女友達の北川さんと邂逅する。
臨床心理士を辞め、シンガポールに単身赴任していた北川さんは、帰国してジュエリーデザイナーとなっていた。
お互い配偶者のある立場で、決して一線を越えることのなかった私(戸田)は、北川さんを勝手に〝ソウルメイト〟だと思い込んでいたのだが・・・・・・。
北川さんとの、カウンセリングもどきの会話で、〝アジール〟という概念を教えてもらった私(戸田)は、孤独ながらも〝自分軸〟で生ききっていこうと決めた。

あらすじ

北川さんの〝カウンセリング〟

私の想像していた通りだった、が、本音では北川さんからのアドバイス、いや、癒しとなる言葉でも貰えれば、と虫のいいことを望んでいた私だったが、いざ、そんな言葉をかけられた途端、照れるというか恥ずかしくなってしまった。

「そうかな。そんなに簡単にわかるもんかねぇ?」

「戸田さんほどわかりやすい人は珍しいよ。すぐ表情に出るし。自分じゃ気づいていないでしょうけどね」

それは北川さんだけではなく、少なからぬ人達から何度も言われてきたことだった。

「たしか結婚して子供が生まれて離婚した。よくあることよね」

「そんなによくあっちゃ、困ると思うんだが・・・・・・」

「親権のこともあるし、さすがにそのあたりのディテールを聞いてね、私なりに思ったことを伝えることは止めといたほうがいいと思うわ」

「そうだね、それじゃ、北川さんのクライアントにならなきゃ、あっ! もう辞めてたか」

そんなことを忘れていた程、私には余裕がなかった。

「戸田さんの場合はね、意識と行動を一つずつ検証するまでもなく、性格の根本、そうね、本質といってもいいわね。本質さえ明らかにすれば、それで済むと思うのよ」

そう聞いた私は、思わず力が抜けた。

「それで済むわけ?」

「たぶん、ね」

「そんな、曖昧な・・・・・・」

そんなやり取りが続いてから、北川さんは言った。

「一言で言えるのよね。戸田さんは他人と一緒に生きることに向いていないのよ」

(そりゃないだろう?)と思った私は唖然とした。

「あの、北川さんね、それってさ、俺は社会不適応者っていうこと?」

一瞬、考え込んだかのように見えた北川さんは、それほど考え込まずに答えた。

「不適合者とまではいかないかな。物心ついたときから家庭で普通に生活して、学校や職場で特に問題なく生きてこられたし、今も生きているでしょ? 私が言いたいのは、結婚のように他人と家庭を築いていくことには、少なくとも向いてはいないということなの」

「でも、全ての人間が結婚するわけじゃないといってもね、つがいとなって子孫を残していくという動物としての本能に基づいた営みには適していない、ということだよね?」

「そう言われると否定はできないわ。でも、人間は生物の中で唯一、本能以外の意識、つまり思考と感情という〝過剰〟を背負っている存在ですからね。そう考えると、特に異常ということにはならないわ。もし戸田さんのような人を異常と言うのなら、人間自体が異常ということになるし。それもそれで正解ではあるんだけどね。そういえば、柄谷行人好きだったわね? 柄谷の夏目漱石論にね、意識と自然の二項対立があってさ、戸田さんは意識の一部分が異様に肥大化していてね、ときとして自然を異様に抑圧してしまう。それが極限に達すると、今度は自然のほうが欲望の発露として暴発してしまう。そんな〝異様の人〟なのよね」

柄谷行人まで出してきた北川さんは続けた。

「ま、難しい話なんかしなくても、戸田さんと一緒に家庭を築いていける女の人なんて、希少種だと思うわ」

(そこまで言うか・・・・・・)

「なら、俺が結婚して離婚した由美子、由美子さんは希少種なんかじゃなかったわけだ・・・・・・」

「うん!」

「〝うん!〟なんてさ、嬉しそうに言われてもね・・・・・・」

北川さんは、左側の頬を少しだけ眼の方に上げ気味に微笑んだ。

「だって面白いから」

「それじゃ、そんな希少種なんて、今まで俺の周りにいたのかな?」

数秒の沈黙の後、北川さんは答えた。

「よく逢っていた頃の私もその一人だったけどね」

(・・・・・・)

脳が一瞬にして蒸発してしまったかのような空白感。

「200%鈍感なくせに、自分では全てを把握しているような素振りをみせる、そんなどうしようもないお馬鹿さも戸田さんの特徴なんだけどね」

(そんな・・・・・・)

相手のことをわかってもいないのに、勝手にソウルメイトだと思い込んで悦に入っている。そんな自分には呆れるだけだ。
そういう鈍感さと自分勝手な思い込みもまた、自分の〝本質〟であるような気がしてきた。
そう思うこと自体、私の自意識過剰かもしれない。
多かれ少なかれ、人間同士、特に異性間のコミュニケーションなんて、そんな行き違いだらけなんだろうな、とも思った。
それに、今更そんなこと言われたって、それはもう過去のことなんだから。

「余計なこと言っちゃったわね。この話はここまで。次はね、戸田さんの本質の話に移りましょうか」

「今度は、何を言って俺を驚かすのでしょうか?」

正直な話、身構えないと聞けないような気になってきた。

「まず、一つ目。これが本質の話ね。喩えていうと戸田さんは〝一国平和主義〟なのね」

「なんじゃそりゃ?」

「外敵から侵略されても抵抗することなく、なるように身を任せるしかない。そもそも争いが嫌いで嫌いで仕方ないのだから。他の国の戦争にも平和にも興味はない。興味があるのは自国の平和だけ。学校生活が始まると私達は競争の世界に放り込まれる。自由競争の資本主義社会では競争に勝ち残らなければ、他人どころか自分を愛する余裕さえ持てないのよね。最近、規制緩和を背景に世の中で跋扈している〝自己責任〟という規範が競争社会の熾烈さに拍車をかけている。〝自分平和主義〟の戸田さんにとって、ますますヘビーな世の中になってきているわ」

そう言われても、わかるような、わからないような曖昧な気分だった。それでも私は次を聞きたくなった。

「それで二つ目は?」

「二つ目はね。自分の本質をわかっていない戸田さんは、物心がついて自我が芽生え始めた途端、自分の本質と正反対のことを志向するようになったのよ。他人と争うどころか競争さえ嫌、というか自分の中に争いや競争をデフォルトで装備していなかった戸田さんは、自分にないものを必死になって求め始め、それらを身に着けることに夢中になったよね? 社会人になってから、今でいうところのパワハラ、モラハラ、カスハラ、セクハラとか当たり前だった環境下、水を得た魚のように、ハラスメントの加害者、被害者を大いに演じてきたわね?」

「そう言われても、素直に〝はい〟とも〝いいえ〟とも答えられないけど」

私は正直、そうとしか答えられなかった。

「覚えがないの?」

そう言われると、そんな気がしないこともない、という程度だった、が。

「たしかに自我に目覚める前、子供の頃、他人と競い合うことは嫌いだったけどね。小学生の頃は毎朝ね、今日も無事に一日が終わることだけをね、掌を合わせ祈ってから登校したのは事実だ。ところが思春期になったらね、今だからわかるのだけど自意識が異常に過剰になっちゃってね。この分野では勝てなければ、別の分野で何とか他人に差をつけてやろうとか、そんな精神状態がデフォルトになってしまったよ」

それを聞き、納得感からか口角を微妙に吊り上げた北川さんはこう畳みかけてきた。

「マネジメントオフィスのボスという仕事の適性もね、戸田さんの本質とは正反対なのよ。時代の先端を志向するはずの音楽産業ってね、やはり芸能の世界なわけで、前近代的な徒弟制度のような体質も色濃いでしょ? 単に挨拶がなかっただけで〝潰してやる〟みたいな理不尽なことも少なくなかったでしょ? 何事にも陰陽はあるから、逆に義理人情の暖かい世界でもあるけど。自分の本質とは真逆の世界でも、いや真逆の世界だからこそ、敢えて飛び込んで体験するから得られる刺激。案外、人間がこの世で生きる意味ってのはね、こういうことかもしれないと時々、思うことがあるのよ。善悪とか正邪とか宗教じみたことじゃなくってね。とてもシンプルでしょ?」

そこまで言われると、身に覚えもあり、少しは理解できるような気分になってきた。

「うん、そういう世界で揉まれに揉まれてきたことは確かだ。自ら飛び込んでね。そして、意識こそしてなかったけど、自分としては正直に生きてきたつもりだったけど、北川さんに言わせると、俺の本質とは真逆の生き方をしてきた、ということか・・・・・・」

「そうね、でも考えてみてよ。誰もが自分の本質に忠実に生きていたら、世の中つまんないでしょ?」

「それはどうかわからないけど、自分に無いものを求められずにはいられない、という衝動は俺にもあったし、今でもあるかもしれない」

それから俺は北川さんにこう切り返した。

「じゃぁ、北川さんね、人間ってさ、自らの本質に忠実に生きたほうが幸せなの? それとも本質と逆に生きたほうが刺激的だし幸せなの? どっちが正解なの?」

「正解なんてないわよ。どっちの人生をどの程度の比率で生きていくのかなんて一人一人違うし、戸田さんのように、自分の本質と真逆のベクトルで生きてきて、これからどう生きていくのかってさ、とても興味深いと思わない? それは私にはとても予測できない。私は他人である戸田さんの過去と現在を、私の主観を混じえながらでも、客観的に分析はできるけど、戸田さんの未来なんてわからない。占い師じゃないのよ」

話がここまで進んできた。私は今夜、北川さんと会席を設けた最大の動機を披露した。

「すでに臨床心理士を引退している北川さんに、プライベートな席でカウンセリングを期待するなんて野暮なことはしたくはなかった。でも、何でもいいから少しは楽になりたいんだ」

「相変わらず、心に鎧をまといながらも、最後に本音を吐露してくれたわね」

「なんでもいいから・・・・・・」

「戸田さんもインナーチャイルドって聞いたことがあると思うけど、わかりやすく言えばトラウマのようなものね。臨床心理士に限らず医療、そしてマーケティング、コンサル、ソリューションとか世の中のビジネスのほとんどは、人間にとってマイナスなことにフォーカスをあてるものよね。病根を特定することは必要不可欠で、とても大切なことだけど、プラスになること、ポジティブなイメージを喚起する〝場〟があるってことを知るのも大切だと思っているの」

「うん。人ってさ、デフォルトのままでいるとどんどん不安・恐怖にまみれて不機嫌のスパイラルに巻き込まれるもんだしね。そのプラスでポジティブな〝場〟って何?」

「アジール。医学用語でも心理学用語でもなく、私が個人的に大切にしている言葉なの」

と北川さんは答えた。

アジール ー自分軸の拠点ー【最終回】へ続く


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