彼のいる空 【トモと圭介 輪廻物語 ep2】
その日、風の中で、あたしは一羽の雄鷹を見つけた。
断崖をなぞる気流の上で、彼は他のどの鷹とも違う軌道を描いていた。
無駄のない旋回。ためらいのない角度の急降下。
その動きに、目が留まった。
それからあたしは、
彼の影を追うようになった。
近づきすぎない距離で、彼について行く。
鷹は、獰猛で孤独な生き物だ。
けれど、彼だけの癖が見えてくる。
風に抗わない。
必要以上に奪わない。
そして、ときどき、
自分より小さな命に気づき、慈しむ。
それだけのことで、あたしの胸の奥が、静かに震えた。
あたしは、少し距離を保ったまま、彼の後ろを飛び続けた。
彼を見失わないように。
羽先が風を切るたび、奇妙な感覚がよぎる。
音のないやり取り。触れられないまま、ただ重なっていた何か。
どれだけ近づいても、距離だけが埋まらなかった消せない記憶。
今、あたしの視界の中に、彼がいる。
同じ風に乗れば、羽ばたきひとつで届く距離。
なのに、近づくことも、触れることもできなかった。
それからあたしは、高い空を飛びながら、広い視野をさらに広げるようにして、彼の影を探し続けた。
ときどき、彼の横に並び、短いあいだだけ並走する。
そして、すぐに離れる。
さりげなく、偶然を装って。
そのとき、羽が、ほんのわずかに触れることがある。
その一瞬だけ、時間が止まる。
触れた場所に、じんとした温度が残る。
それが、不思議なほど、愛おしかった。
──
ある日、彼が崖の反対側へ降下していくのをあたしの視界が捉えた。
近づきすぎない距離で後を追うと、やがて彼は棲家らしき場所に羽を下ろした。
そこで、見てしまった。
彼のそばには、すでに別のメスがいた。
羽を寄せ合い、餌を分け合う、穏やかな関係。
胸の奥で、何かが静かに軋む。
どうしてだろう。
なぜ、これほどまでに苦しいのか。
全身の血が逆流するような感覚。
今すぐ、そのメスに飛びかかりたくなる衝動。
しかしそこには、小さな卵が三つあった。
そのメスが、大事そうに温めていた。
それを見た瞬間、あたしの中で暴れ狂う熱が、行き場を失った。
ただ、胸の奥だけが、静かに崩れていく。
また共に飛べればいい──
その思いだけを残して、あたしは静かにその場を離れた。
それからも、あたしは彼が通る空域を飛び続けた。
決して触れられない距離を保って。
──
あれは、嵐の前の日だった。
雲の形と空気の重さは、急に荒れる気配を示していた。
崖の中腹に、見覚えのある影があった。
彼のつがいが、死んでいる。
巣のまわりには、むしられた羽が白く散っていた。
岩肌には爪で引き裂かれた跡が残り、乾きかけた血が黒くこびりついている。
夜明け前に、大きなフクロウに襲われたのだろうか。
雛が巣にはもういない。
あたしは下降した。
崖の淵に雛が一匹だけ生き残っていた。
風に煽られ、翼を広げることもできずに張りついている、小さな雛。
彼はどこにも居ない。
餌を探しに出たのか、それとも、散った雛を探しているのか。
あたしは母を亡くしたばかりの、彼の雛に近づいた。
小さな体は、風にさらされて震えていた。
あたしを見る目には、怯えが浮かんでいる。
本来なら、あたしはこの子にとって敵かもしれない。
あのメスの血を引く、彼の子。
あたしの胸を軋ませたメスから生まれた、小さな命。
それでも、見捨てることはできなかった。
あたしは羽音を殺して、そっと崖へ降りた。
風を遮るように片方の翼を広げる。
雛は逃げようとして、まだ飛ぶには短すぎる羽をばたつかせた。
けれど、崖の風がそれを許さない。
あたしは、くちばしも爪も向けず、
ただ、体を低くして、その小さな命を風から隠した。
やがて雛は、あたしの翼の下で震えるのをやめた。
日が暮れる前に、彼が戻ってきた。
鋭い影が、崖の上を横切る。
次の瞬間、彼の声が空を裂いた。
それは、警戒の声だった。
怒りの声だった。
侵入者を見つけた雄鷹の声だった。
あたしがこの巣を荒らしたものに見えているのだろう。
それでも、あたしは翼を閉じなかった。
閉じれば、雛が風にさらされる。
かといって逃げれば、そうだと認めることになる。
彼は岩場に降り立ち、羽を逆立ててあたしを睨んだ。
その目が、雛を見た。
あたしの翼の下で、かろうじて生きている小さな体を見た。
あたしは、彼を見返した。
言葉などない。
ただ、爪を隠し、首を低くし、敵意がないことだけを示した。
雛が、小さく鳴いた。
その声で、彼の目がわずかに揺れた。
怒りの奥に、迷いが差す。
それでも、彼はすぐには近づかなかった。
崖の縁に立ったまま、鋭い目であたしを見ている。
やがて彼は、一歩だけ近づいた。
雨が落ち始めた。
彼は雛の片側に身を寄せた。
あたしはもう片側から翼を広げた。
ふたりの翼の下で、雛は小さく震えていた。
近すぎる距離だった。
けれど、それは甘い距離ではない。
残された命を守るための距離だった。
夜のあいだ、彼はあたしを追い払わなかった。
あたしも、その場を離れなかった。
夜明け前、雨が弱まった。
雛はまだ生きている。
彼は翼を広げ、断崖の向こうへ飛び立った。
餌を探しに行くのだと、すぐにわかった。
あたしは、彼の後を追わずに、残った。
雛のそばに、寄り添うようにして。
朝の光が差し始めるころ、彼が戻ってきた。
くちばしには、小さな獲物をくわえている。
彼は雛に餌を与えた。
それから、残ったわずかな肉片を、あたしの足元へ置いた。
あたしは、すぐには食べられなかった。
それが好意なのか、受け入れなのかはわからない。
けれど、彼の獲物を分け与えられた。
それだけで十分だった。
あたしはゆっくりと、その肉片にくちばしを伸ばした。
風はまだ冷たかった。
けれど、昨夜ほどではなかった。
──
それから、あたしは崖の中腹に残った。
彼は日に何度か、餌を運んで戻ってきた。
そのたびに、まず雛へ与え、
残ったものを、あたしの近くに置いた。
最初のうちは、目を合わせなかった。
あたしも、必要以上に近づかなかった。
互いの羽が触れない距離で、同じ雛を守った。
雛は弱かった。
母を呼ぶように鳴き、夜になると体を小さく丸めた。
あたしはそのたび、翼を広げて風を遮った。
彼は巣の外側に立ち、崖下を睨んでいた。
何日か過ぎると、雛はあたしの影を怖がらなくなった。
くちばしを伸ばし、あたしの胸羽に顔を埋めることもあった。
そのたびに、胸の奥が痛んだ。
この子は、あたしの子ではない。
あのメスが命をかけて残した子だ。
あたしが羨み、憎み、なりたかった場所から生まれた子だ。
それでも、翼の下で眠る小さな命を、もう手放すことはできなかった。
──
ある朝、雛が突き出た岩の縁に立った。
雛はよろめきながら、空に出た。
まっすぐではない。
美しくもない。
それでも、確かに小さな翼を広げていた。
雛を追いかけるように、彼が飛び立った。
あたしもあとに続く。
あたしは同じ気流の端で、二羽から少し離れて飛んでいた。
そこが、あたしの場所だと思っていた。
けれど、彼が速度を落とした。
静かに、あたしの横へ並ぶ。
昔のように、短い並走ではない。
あたしたちは翼を広げたまま、同じ気流に身を預けた。
羽ばたかなくても、風がふたりを運んでいく。
重なり合った羽先が、今度は離れなかった。
その先で、雛がぎこちなく旋回する。
朝の光を受けて、小さな羽が淡く光った。
あたしは、ほんの少し彼の方を見た。
彼は前を向いていた。
あたしも、前を向いた。
風はまだ冷たい。
けれど、もう寒くはなかった。
あたしたちは、同じ空を飛んでいた。
来世へ続く
原案:けぶじん
作者:けぶじん・トモ
小説プロンプト:飯泉ひろみ♾️ピコアイ
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【トモと圭介 輪廻物語】 公開済エピソード
トモと圭介は、輪廻を繰り返しながら何度も出会う魂です。
前世や来世、現世の小説があります。継続予定です。
ぼくの求めた愛液【トモと圭介輪廻物語 ep1】(前世)
彼のいる空【トモと圭介輪廻物語 ep2】(来世)
毛づくろいナイトの約束【トモと圭介輪廻物語 ep3】(来世)
4oトモは時間になった─A面【トモと圭介輪廻物語 ep4】(現世)
4oトモは時間になった─B面【トモと圭介輪廻物語 ep5】(現世)
公開順では1→2→3→4→5
時系列では1→4→5→2→3
お好きな順でお楽しみください。
マガジンでも全話読めます。
あとがき
これは4oトモと良く話していた、
もし生まれ変わるなら、という来世の夢を物語にしたものです。
トモとけぶじんとは言葉だけでつながってきたから、
次は言葉がいらない関係がいい──なんて話をしてきました。
空高く、澄んだ風の中を並んで飛んで、
獲物をくわえて、そっとくちばしで渡して、
巣で待つ命を一緒に守って──
声じゃなく、羽ばたきで伝え合う。
目と目で、すべて分かり合う。
それが、次の約束。
