【小説】プライベート・エモーション 第八話
"Kyoko. Wait!"
"I'm okay."
"No, you're not. You always smile like that when you're falling apart."
"Don't start, Kyle."
"That's why you disappeared again, right?"
"I know what you mean, but I'm fine. Not just fine. Totally fine. I'm totally fine here. Totally."
"Come back to New York with me. You're killing yourself in this place."
"I'm not going back."
"Kyoko, please. Don't walk away again."
緑に整えられた木々と、きれいに敷かれた石畳のエントランスフロアから放たれるライトに照らされた空間の中で、彼らの英語だけが意味を持たずに伝わってくる。何も考えず、部下を押し出す目的で外の世界に出てきてしまった後悔と、目の前の現実を受け入れられない足が、木の陰で細かく震えている。
「あの男、京子さんの恋人とか……そういう相手っぽいです。でも……」
「……」
「速すぎて何言ってるのか分かんなかったんですが、『フォーリングアパート』『ウォークアウェイ』それと『カムバックニューヨーク』からすると、別れ話なのかもしれないです。推測ですが」
言葉が耳に届かないまま、瞳は二人を捕まえて離さない。
重なって侵入する早風の声だけを頭が拾い始めたとき、隣にしゃがみ込む彼の目が覗き込んでいた。吐き出す空気はどこにもぶつからないまま声にならずに消え、舌の裏にはアルコールとは別の苦味が張りつき、身体の内側だけが空洞のように響いている。早風の視線が、タクシーの二人ではなく、俺の顔色だけを確かめるように一瞬留まった。
「部長大丈夫ですか?」
世界を完全に遮断した彼らの感情の内側では生きた言葉が重なり合い、その渦の外に立つ自分など誰の目にも映らないまま、次から次へと身体だけが痛めつけられている。
抜けきらない酒がみぞおちの下で濁ったまま逆流するように、喉へ苦みを押し上げてくるが、吸い込んだ息の勢いでどうにか押し戻すたび、内側だけが不自然に軋んだ。早風の熱い手の温もりが背中を揺らしている。
「……だ、だい、じょうぶ、だ」
乾ききった喉の底から微かな声が出たが、別のものも胃から上がってきそうになる。
「京子さん、部屋にもどりましたよ。とりあえず僕たちも戻りましょう」
早風の腕に支えられた身体はエントランスの入り口を通り抜けているのに、置き去りにされた視線だけが、立ち去ったタクシーの跡をまだ眺めていた。微かな機械音を響かせて降りてきたエレベーターの扉がスーッと優しく開くと、外の世界を遮るように狭い空間へ流され、二十一階のボタンに灯りがともるのを見ているはずの目が、まだ彼らの立っていた歩道を視ている。ふわっと浮き上がった身体の真ん中辺りから、苦い液体が這い上がってくる。
「もうすぐですから」
漏れる無声音と酒の匂いが、狭い空間を床から天井へと満たしていき、早風の動揺まで連れて内側へ戻ってくる。ようやく扉が開くと、エレベーターホールの冷たい空気が頬に触れ、重い身体だけがその腕へ傾いたまま外へ流れ出た。すべてを忘れたい頭は部屋の番号を思い出すことさえ拒もうとするが、他力に任せた身体は、顔を合わせたくない人がいる場所へと運ばれていく。ドアの前まで来たとき、堪え切れなくなって汚濁を吐き出した。
「ごめん。本当にすまない。ここでいいから、もう、帰ってくれないか」
「……こんな状態で放っておけるはずないじゃないですか」
「本当にごめん……これ以上……醜態を見せたくない」
「……そんな……」
「帰ってくれ。頼む」
吸った息を吐き出すと、乾いた心を守るように、目の奥から温かさが溢れ出した。自力では止められないと知っている身体は、すべてを浄化する濡れた温もりの流れを、そのままにしていた。
「頼む。こんなところを見られたくないんだ。お願いだから帰ってくれ」
「……」
スニーカーの足音がゆっくりと遠のくと、閉じた瞼の裏で揺れていた空間が残像となって広がりながら意識は暗闇へと落ちていく。
ピピー、ピピー、ピピー。ピピー、ピピー……
遠くから届いたその音が次第に大きくなっていくと、どこかへ行っていた意識が引っ張られてくる。止めようとするが、腕が張り付いてうまく動かせない。目の前にぼんやりと浮かぶ淡いベージュ色の天井を見つめながら、自分がどこにいるのか考えようとしているうちに、どうにか携帯へ届いた指がガラスの上を泳ぎ、雑音を消した。背中と頭を支える柔らかな感触の中で、身体が仰向けにベッドへ寝かされているという現実だけは把握できたが、ここへ着地するまでの道のりを見つけられないまま頭を動かそうとした瞬間、急に頭痛が襲ってきた。
夜の光に照らされたエントランス、歩道に止まったタクシー、そこから出てくる二人の影、植栽の茂みの中でこちらを見つめる早風の顔。続く映像が今いる場所へと繋がっていくが、最後だけが暗くなっている。不意に玄関のドア前で嘔吐した記憶にハッとして身体を起こすと、頭痛が激痛へと変わった。
早風が立ち去ってから一体どうなったのか、ベッドで目覚めたのはいいが、飛んだ時間をたどろうとすると、財前さんの姿だけがぼんやりと浮かび上がる。ベッドサイドテーブルの上で充電されている携帯を手に取ると、【木曜日 8月16日 6時23分】の表示が朝を迎えていることを告げていたが、同時に、そのままになったリビングやキッチン、そして玄関の向こうで溜まりを作っているものを想像すると、青ざめてくる。
ガンガンする重い頭を抱え、壁伝いに手を添わせながら、ふらふらする身体を引きずって部屋のドアを開けると、朝陽が差し込むリビングが昨日を忘れたように静かに眠っていた。皿もグラスもきれいに元の位置へ戻され、自分たちの役目を終えて安心したように静まっている。借りてきたボトルや備品もキッチンの床とテーブルに分けて並び、持ち主が引き取りにくるのを待っている。
ゆっくりと玄関に向かううちに昨夜の鮮明な光景が蘇り、鼓動だけが昨日と同じ速さで鳴り始め、深く息を吸って覚悟を決めた手がドアの取っ手にかかり、扉を押し開けた。そこに広がっているはずの醜悪の斑点は悲惨な花を咲かせておらず、異臭の代わりに、アンバーとムスクの甘く重い香りだけが微かに漂っていた。財前さんが片づけたのか? と口の中でぼそっと漏らした声は、後ろから届いた彼の声にかき消された。
「え? 大丈夫なの?」
目と口を開いた驚きの表情を浮かべた顔が、開いたドアの隙間から様子をうかがうように覗いている。
「……あ……」とまた言葉を繋いで前へ出せなくなったことに気づいて、そのままその場で固まってしまう。
「飲んで」とリビングから戻ってきた彼からペットボトルの水が手渡されたが、心配そうな顔と見たこともない昨夜の顔が重なった。途端に酸素が必要になった胸が上下に動き、落ち着かせようと水を一気に飲み下す。
「迷惑かけてごめん」
水が喉を通り過ぎると、詰まっていたものが少しだけ下がり、声がようやく形になった。
「らしくないわね。迷惑なんかじゃないわよ。それよりもうちょっと横になってた方がいいと思うから、そこに立っていないでリビングにいきましょ」
「もう、大丈夫。頭が、ちょっと痛むだけで……」とまで言ったが、それ以上言葉がもつれて声にならない。
頭の芯に残る鈍い痛みが、一歩ごとに揺れた。添えられた彼の手の温度に押されるようにリビングのソファへ沈み込むと、ぼやける視界の端で、こちらの痛みまで引き受けようとするような優しい表情だけが近くにあった。
「ここでしばらく横になってて、9時になったらモール近くの薬局がオープンするから行ってくるね」
「これくらい大丈夫。二日酔いくらい平気だから」
「大丈夫じゃないわよ。昨日は本当にびっくりしたんだから。だって早風さんがここまで担いでくれたからよかったけど」
「早風が?」
「散歩がてら駅まで早風さん送っていったんでしょ。そこまでは覚えてると思うんだけど。でも途中で急に具合が悪くなってしゃがみ込んだみたいで」
意識が遠のく暗闇の中で、離れていく足音の記憶だけは残っているのに、それが再び近づいてきた気配はどこにもなかった。俺の壊れていく内側を受け止めた早風が、財前さんには、その核心だけを伏せている。昨夜から心に刺さったままだった棘が、誰にも触れられない場所で少しだけ抜けていくようだった。何も知らないふりをして続いているこの朝の静けさが、早風の沈黙に守られていることだけは、痛む頭にもはっきり分かった。
「こんな時に悪いんだけど、立柳さんの裸、上半身だけ見ちゃったわ。鍛えられた筋肉が目の保養になっちゃった。いやだ、ごめんね。嘔吐物で汚れちゃってたから。でも脱がせたのは早風さんだったから、私は少し手伝っただけよ」と照れながら嬉しそうに話す顔が、普段の時間を戻している。
しかし、笑顔を作る口元が、ほんの少し強張っているように見える。こちらを安心させるために明るく振る舞うほど、その中に薄い陰がさし、早風が沈黙で守ったものとは別の何かを、彼もまた明るさの内側へ押し込めているように見えた。
リビングで電源がオフになっているテレビの黒画面に、自分のぼやけた輪郭だけが映っていた。すべてを消すように目の前のペットボトルを握り、残りの水を流し込んだ。
【木曜日 8月16日 8時55分】
ローテーブルの上で、時間だけが冷たいガラスの表面に浮かんでいた。
<パパ、今日休みだよね。そっち行っていい?>
携帯が不意に震え、沙理衣の文字が、静けさの表面に小さな亀裂を入れた。間の悪さに一瞬だけ息が詰まったが、父親であることまで昨夜の醜態に預けるわけにはいかない。これまでのように自分の都合で家族を遠ざけることだけはもうできず、何事もない顔をした短い文字を、指先がゆっくり選んでいった。
<大丈夫。一日ここにいるから>
<じゃ、夕方くらいまでに行くね>
<そっちまで迎えにいくよ>
<大丈夫。今日、侑李と一緒に映画に行くんだ。その後になるから>
<そっか。じゃ、ここで待っている>
<そうだ。同居人の人もお盆休みでいるんでしょ? 挨拶するね>
忘れていた。
同居人を紹介するはずだった。
財前さんは、生活を共にするただの男性という枠には、もう収まらない存在になっている。侮辱する言葉を投げても、勝手に線を引いても、壁を作っても、彼は何も言わず、笑って許してくれた。その揺るぎない想いが自分の中に根を下ろし始めている。それなのに、元男性という事実を高二の娘がどう受け止めるのかと思うと、娘を、彼を、自分を、すべてを裏切ることしかできない。偽りを差し出すと決めた瞬間、真実は心の底に沈み、その代わりに薄い嘘だけが息をし始めた。携帯を握る手だけが小さく震え続け、消せない現実をまだそこに残していた。
<いや、今日はいないんだ。実家に帰ってる>
<わかった>
勝手に彼がいないということにしてしまった。嘘をつくと決めたのに、「わかった」と返事が届くと、罪悪感が急に湧いてきて、送ってしまった言葉を取り戻したくなってくる。財前さんを娘の前に差し出すことも、沙理衣の不安を真正面から受け止めることもできないまま、娘と彼のあいだで荒れ狂う択一に揉まれ、父親として当然の判断をしたのだと、その言い訳だけがひどく静かに内側を撫でながら沈んでいく。最悪なことをしたかもしれないという予感はあったのに、それが普通だと正当化したことで、まだ見えていない不幸の入口に、自分の手で鍵を差し込んだ気がした。
三十分ほどで戻ってきた彼は、薬とペットボトルの水を手にソファの横へ立つと、「今から店のみんなに連絡してこの荷物運んでもらうね」と微笑んだ。
「……ああ」
その顔を前に、娘のことをどう説明しようか考える暇もないまま、彼は「そうそう、ママから映画のDVD借りたんだけど、今日一緒に見ない? お盆休みももうすぐ終わるし」と笑顔を続ける。
「今日、夕方娘が来るんだ」
痛む頭をどうにか働かせ、絡まる舌を無理に動かして、やっと口にした言葉だった。
「え! そうなの? 挨拶した方がいい? 何も言わないで部屋に引っ込んだ方がいいかしら?」
二日酔いで冴えないこちらの顔から、彼が意図をすくう様子は見られない。掌の汗が再び滲み始めた。
「ごめん。本当に悪いんだけど、午後からしばらく外に出て行っててくれないかな? 娘はまだ高二で……今はまだ、財前君を紹介するのを控えたんだ。悪い」
そう言うしかなかった。
「……あ、あっそか、そうよね。私って馬鹿よね。ごめんなさい。挨拶するとか図々しいこと言っちゃって恥ずかしいわ。店のみんなが荷物運び終わったら出ていくから、心配しないで」
一瞬だけ見えた。
言葉で心を繋いでいる彼が創り出した笑顔の中に、瞳が引き潮のように輝きを失っていく様子が、コンマ三秒ほどの世界に浮かんだ。
「そうだ、久しぶりに新宿まで行っちゃおうっと。伊勢丹のメイクコーナーでタッチアップしてもらって……そうそう、伊勢丹の化粧品売り場って日本一らしいの。東の伊勢丹か西の阪急って言われてるんだって。楽しそうじゃない」
こちらに話しかけているように振る舞う声のトーンは少しだけ上ずり、伊勢丹やメイクの話で楽しそうな行き先を急いで作りながら、彼が自分の傷ついた場所を見せないよう、笑いの形だけで必死に支えていることが分かった。図々しいことを言ったのは彼ではなく、恥じるべきなのは俺だと分かっているのに、今更どうすることもできないと諦めると、生まれそうになった言葉は形を持てないまま消えていった。
店の人間は時間通りに来て、昨夜の特別感を演出していた酒瓶や備品を手際よく運び出し、リビングに残っていた宴の気配は、扉が閉まるたびに一枚ずつ剥がされていった。すべての物が消えて平常を取り戻したはずの部屋の中で、彼だけが片づけ残された空白のように立ち尽くし、さっきまで笑いで満たそうとしていた場所を、何も映さない顔のまま見つめていた。
「じゃ、行ってくるね」と言う彼の笑顔には、曇りを一切見せまいとする意識が立ち上がっていたが、その強さの奥に、かえって隠しきれない翳りを見つけてしまった。新宿へ向かうバッグの持ち手を握り直す指先だけが、暗さを隠すように白くなっていた。
「パパ」
柔らかいソファに身を横たえ、眠りに吸い込まれそうになっていたとき、不意に沙理衣の声が聞こえた。
気のせいかと思いながら目を開けると、覗き込む娘の顔が天井を背景に視界を埋めている。
「沙理衣、どうしたんだ? 早くないか?」
「映画見なかったんだ。侑李ドタキャン。彼氏に負けた」
夕方にやってくるはずだった娘の到着は予想以上に早く、それを知っていたかのように彼がここを出て行ってくれたことに感謝した。
「昼飯食ったのか?」
「まだ」
「一緒にどっか食いに行こうか」
「いい。お腹すいてないし」
「どうしたんだ。疲れてるじゃないか」
「同居人ってどんな人? 変な人っぽいの?」
「え?! どうしたんだ突然」
彼の話題を振ってきた娘の目には、こちらが隠したつもりでいたものの輪郭が、すでに薄く映っているように見えた。下駄箱の奥に残ったヒール、風呂場や洗面所に置かれた彼の物が、今さら逃げ場を失った証拠のように頭の中へ並び、酔いの残る身体から、別の冷たさがゆっくり広がっていった。
「変っぽいもん……透明人間かっつぅの。部屋にはカギかかってるし」
「カギ?」
「パパ知らないんだ」
知らなかった。
「ていうか、勝手に人の部屋を覗くのはだめだろう」
「もともとあたしの部屋だけど」
「……」
「どうでもいいけど、そんなこと。パパが何か隠してる気がするだけ」
「何も隠してないし、変な人でもない。普通に良い人だよ。信頼できるし。気も遣えるし。人の邪魔は絶対にしないし」
信頼できると分かっていたのなら、なぜその人を実家に帰っていることにしたのか。なぜ娘の前に立たせる勇気を持てなかったのか。嘘を選んだ後悔を償うように、娘に向かって差し出せなかった彼を、言葉に替えて口にしていることに気づいた。
「正体不明っていうか、キモい」
「会ったこともない人間のことをそんなふうに言うもんじゃない」
「パパなにムキになってんの?」
「……」
沙理衣の言葉を正したかったのは、財前さんに悪いことをしたという罪悪感が反射のように胸を突いたからなのか、見たこともない人の気配だけで誰かを決めつける娘にしたくなかったからなのか、自分でも分からなかった。ただ、最愛の娘の口から彼を傷つける言葉が零れるたびに、自分が同じ刃を何度も向けてきた事実まで呼び覚まされ、胸の内側へ凶刃となって戻ってくるようだった。
「パパ、どうしたの?」
「いや、なんでもない。沙理衣には人の気持ちが理解できる人間になってほしいんだ」
「パパが人の気持ち分かんないから? 仕事しかできないから?」
娘の言う通りで返す言葉がない自分が情けない。彼女に棘を作ってしまった自分が情けない。忘れていた頭の痛みが蘇ってくる。
「パパごめん。こんなこと言うつもりで来たわけじゃないの」
「謝ることなんてない。パパがもっと……」
「やっぱ、なんか食べに行きたい」
「……そうだな、寿司でも行くか」
「本格的なとこじゃない方ね」
「わかっているよ」
出かける前に風呂場、洗面所、下駄箱を確かめると、さっきまで沙理衣の目に触れることを恐れていた彼の物は、最初からそこになかったように姿を消していた。俺を守るために、一つひとつ丁寧に気配を拭い、自分の大事な物まで存在ごとないものにしていった彼の手つきが目に浮かぶ。その静けさが遅れて身体の深いところへ流れ込み、中心に触れた瞬間、吐き出す息の中で行き場を失った想いがかすかに揺れた。
<今、娘を連れてマンションを出た>
彼が出かける前、言おうと思いながら言えなかったことを、短く伝えた。
恵梨香が選んだ男と暮らしている一軒屋がある練馬の光が丘は、自分にとって全く馴染みのない、ただ娘を乗せてたまに訪れるだけの街でしかなかったが、家の前で沙理衣を降ろすたび、もし恵梨香が出てきてくれたら、とその先を描けない期待だけが先に立つ場所でもあった。けれど財前さんが現れてから、その幻は少しずつ輪郭を失い、熱を失った過去として、痛みさえ遠くなっていた。
代わりに、ゆっくり入り込んできたのは、彼が横にいる未来だった。そこへ一歩踏み出したいと願いながら、踏み出せない自分は、何度も彼を否定する言葉を選び、そのたびに自分のほうを削ってきた。けれど、タクシーの暗がりから現れた男の影を思い出すと、今度は、自分の存在そのものが彼の未来から押し出されていく気がした。あの男とのあいだに残った何かを解くためだけに、俺が一時的に置かれているだけなのではないか。その冷たい考えが、心の表面を細くなぞった。
「パパ? パパ!」
「えっ!……どうした?」
「……もうママのこと好きじゃなくなったの?」
「……」
「大丈夫。おやすみ」
元気なふりをしながら門の向こうに消えていったが、父親の微妙な心情を読み取っている娘の後ろ姿がいつまでも残像となって目の前から消えない。ちゃんと伝えなければならないことがある。そう思うほど、今日一日それを先送りにしたもどかしさが胃のあたりへ重く降りてきた。けれど、その不快感にはいつもの後悔とは違う重みが混じっていた。伝えるべきことの向こう側に、こちらがまだ知らなければならない何かがある。そんな予感が、胃の底で鈍く疼いていた。
そんな物思いに沈んでいた意識が、ずしんと痛む胃に引き戻されると、沙理衣が門の向こうに消えてから、思っていたより時間が過ぎている気がした。時間よりも、彼からの返信が気になった。携帯へ目を落とし、さっき送ったテキストを確かめる。返答はない。メッセージは未読のままだった。自分の帰る場所へ、心と身体を向かわせた。
これまでなら、ここから誰もいないマンションに帰るのが辛かった。娘の顔を見て温かくなった想いを連れたまま、一人の空間へ戻ることが、いつも少しだけ自分を惨めにした。けれど今日は、その空間に彼がいるはずだった。今日してしまったことをちゃんと謝りたい。昨日から引きずっていた屈折した感情を、今度こそ言葉にして渡したい。俺のために開いてくれた食事会に、心から感謝していると伝えたい。その気持ちが胸の奥で急かすたび、ハンドルを握る手に力が戻っていった。
いつもなら下道を選び、一時間ほどかけて、なるべくゆっくり帰る道を探す。けれど今夜は、信号ひとつ待つ時間さえ惜しく、車は光が丘の団地群を抜けて首都高速へ上がった。休みの終わりを先取りするように、首都高速は二十二時過ぎなのに平日のラッシュアワーめいて混み始め、本来ならば池袋のビル群から都心へと流れている頃になっても、車列は思うように前へ進まない。失敗した。焦りだけがアクセルを踏む足の裏で熱を持った。
理由の分からない胸騒ぎに掌の汗が滲み、ハンドルの革が滑りそうになるたび、何か悪いものが近づいている気がした。なぜか分からないが胸騒ぎがする。
ようやく都心へ入ったが、流れは止まらないものの、遅いことに変わりはない。落ち着きを取り戻すことだけに集中していると、湾岸の開けた夜景へと変わっていくところまで辿り着き、一気に空が広くなって、有明のタワーマンション群とお台場方面の灯りが見え始める。
地下駐車場に滑り込んだときには、冷たい画面の数字が二十三時を過ぎていた。
急いだはずなのに遅れてしまった苛立ちを振り払うように車を降り、エレベーターへ飛び込むと、二十一階の数字だけを見つめた。
玄関を開けると、こちらが帰ってくることを知っていたようにライトがついていて、そのやわらかな明るさの下には今日履いていたミュールが揃えられ、靴箱の中には一度消えていた彼のヒール類が、何事もなかったように戻っていた。
大きく吸った空気が、安堵のため息となって玄関に広がっていく。
洗面所にも風呂場にも彼の私物が戻っている。
彼はすでに寝ているのだろうか?
洗面所から廊下を挟んで反対側のドアの向こうで横になっている彼の姿を想像している自分が、洗面ミラーに映っている。
とりあえず彼がここに戻ってきたことに安らぎを覚えた。
足音を忍ばせて彼の部屋の前を通り過ぎ、リビングルームのドアをゆっくりと開ける。
そこに彼がいた。
暗いリビングの窓辺に腰を下ろし、夜の街を見下ろしている彼の横顔は、静寂をまとったまま動きを忘れていた。レインボーブリッジの重なる光が、薄蒼く、か弱い輝きを彼に届けている。斜め奥の視界に映っているはずの俺に気づかないまま、心だけがどこかへ抜け落ち、外枠だけを残した人形のように、彼は窓辺に置かれていた。
その姿は何とも言えない哀愁を漂わせ、いや、哀愁という表現を陳腐に貶めるほどに寂しく悲しい。
そして――美しい。
うっすらと靄の立ち込める鉛色の湖に浮き、優しさの代償に心を吸い上げる無情な青い月光に取り込まれた彼が、静寂と耽美の中でゆっくりと消えていく。
不意に脳裏をよぎった幻想が紫電一閃のごとく身体を貫いた。
彼を――彼女を失う。
心臓が止まった。
息が止まった。
瞬きができない。
瞼をほんの少しでも閉じれば、次の瞬間に彼女の姿が消えてしまう。
この目に、この瞳に、網膜に、その奥の奥に、その姿が焦げるほど焼きつけたい。
耳が飽きるほど彼女の声で埋め尽くしたい。
息をするたびに彼女の気配だけを吸い込みたい。
手で、この手で彼女に触れ続けたい。
消えてしまわないように、腕の中へ閉じ込めてしまいたい。
窓辺の静けさの中へ、湧き上がる本能がゆっくりと流れていく。
「帰ってたんだ。気づかなかった。ここでぼーっとしててごめんね」
振り向いた彼女の瞳に、想いは届いていなかった。ただ俺の姿だけが、光を失った硝子の奥にオブジェのように映っている。
「そこで夜景を見てればいいよ」
「ありがとう。でももう遅いから寝るわ」
通り過ぎようとする彼女の背中が、暗い部屋の奥へ沈んでいく寸前、戻らせてはいけないという声にならない思いだけが、頭の中で静かに熱を孕んだ。
「ここにいてほしい、一緒に」
その言葉とともに流れ出た鼓動の波が、遠のきかけていた後ろ姿の奥で震える命と調律を始めると、彼女を取り巻く空間が、熱く色づくように揺れ出し、その身体は光を求めるようにこちらへ向き直った。伏せられていた顔が花弁を開くようにゆっくりと持ち上がり、長い睫毛が生気を取り戻して弧を描くと、瞳の奥で揺れていた輝きが感情を灯し、紅い炎を広げていく。
この目に飛び込んだ火が背筋を抜けるように走り、胸に燻っていた灯を一気に燃え上がらせると、紅く染まった身体の深い場所から、彼女の透き通る肌も、濡れて艶めく唇も、そのすべてを自分のものにしたいという衝動が溢れ出した。吐く息が熱を帯び、理性の縁を静かに焼きながら、ゆっくりと彼女へ触れようとしていた。
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