【小説】プライベート・エモーション 第九話
本能の炎が紅く燃え上がり、その熱に身体ごと覆われると、触れようとする指先の震えはもはや欲情ではなく、命を繋げるあかしとして、存在を伝えている。瞳を揺らし奔出する彼女の高鳴る鼓動に、たぐい寄せられながら共鳴すると、息をするのさえ忘れるほど、全身の血が沸騰するような高揚感を覚える。壊れることを恐れているかのように見つめていた顔が、掌から流れ出る熱の波を感じながら、手に沿わせようと甘い表情を浮かべて傾いてくる。
――突然、彼女の動きが止まった。心ごと。
時間が静止しているのに、彼女の視線だけが別の方へと流れていく。
燃え盛るランデブーに陶酔していた魂が肌の温もりに触れるまでの、ほんの僅かな隔たりの間に、血の通わない旋律が忍び込み、不協和音を広げ始めたことが心に落ちた時、彼女の顔は目の前で静かに凍りついていった。
創造された炎は一気にかき消され、艶やかに紅く浮かぶ世界が、凍える青黒い深海へと変わる。
冷えたキッチンテーブルの天板を震わせながら光を浮かべる携帯が、その存在を知らしめるように揺れている。
彼女の視線が画面に浮かぶ『沙理衣』に注がれていた。
しばらく鳴り続けた携帯が沈黙すると、静寂が訪れ、少し遅れて心のない短い機械音を立てて、メッセージが届けられた。
熱を失い硝子玉に戻った彼女の瞳には、感情の泉から溢れ出る妖艶な輝きが蘇ることはなかった。
「……電話かけてあげて。――おやすみ」
優しく微笑んだその顔からは何も読ませなかったが、隠しきれない哀愁は、離れていく後ろ姿から零れ落ちていた。
「こんな時間にどうしたんだ?!」
何も言わないが、すする鼻が泣いていると語っている。車から降りたとき、空元気を装って振り絞った娘の笑顔を思い出すと、携帯を持つ手に力が入り、汗で濡れた掌から落ちそうになる。
「パパ……ごめん」
言葉の意味の裏側にある真実を必死で探す頭の奥で、泣いている沙理衣と、悲しい表情の恵梨香、そして、魂が消えた彼女の顔が重なり合う。
「大丈夫」
沙理衣は待たずに投げた心を自分自身で拾うように短く締めくくろうとしている。
「――大丈夫じゃないから電話してきたんだろう。どうしたんだ!」
「……明日、会いにいっていい?」
今日ここに来た娘がまた明日来たいと言っている。その答えは、本来なら今日聞くはずだった、何か、なのだと分かった瞬間、不吉な予感で背筋が凍った。
「……夕方6時には戻ってくるから、ここで待っててくれ。どこにも行くなよ」
通話の切れた携帯は黒い画面を見せて、起こりかけたすべてを過去のものにしてしまった。頭の片隅に残る彼女の目の光が次第に消えて、残像すら見えない。もともと存在すらなかったと、記憶が娘の言葉へと書き換わっていく。そうなることが正しいのだと洗脳されるように、彼女が重みを失った。しかし、取り入れた空気が身体を駆け巡り、冷めた何かに熱を持たせ始め、早くなる鼓動が逆に痛みとなって息が止まりそうになる。身体が真っ二つに分断された。
遠くから携帯の唸り声と振動が耳に届いている。
誰かからの電話でもメッセージでもないと判断する自分が、瞼を閉じている世界の中で半分目覚めて、半分眠りながら、昨夜の続きを見ているが、それが夢ではなくて、意識して再現しようとしていることを自覚している。目を開ければ朝がそこにあることを知っているのに、別の世界を想像して創造しようと試みている。
しかし、次第に近づいてくるように大きくなる音に耐えられない身体が目覚めることにした。目を開けると天井ではなく、枕に埋もれて視界の半分が隠れていた。自分の寝室だ。沙理衣との通話のあと、どう部屋に戻ったのか覚えていない。布団の端には、まだ昨夜の熱だけが薄く残っているような気がした。越えられなかった距離が、今朝も身体のどこかに引っかかっている。
【金曜日 8月17日 7時27分】
現実の朝を知らせるスマホの画面には、秒針を持たない数字だけが冷たく浮かんでいた。その動かない表示を見ていると、時間まで画面の奥で息を潜めているような錯覚がした。
リビングに出ると、エスプレッソの香りが漂うキッチンの向こうに、珈琲を飲んでいる彼女がいた。長閑な日常の光景が目に入る。バツの悪さを覚えながらも、逃げずに彼女の正面へ腰を下ろしたが、触れれば届くはずの距離なのに、二人のあいだだけが遠かった。
「おはよう。今日はゆっくりなのね」
笑みを湛えて座っている財前さんから声をかけられたが、昨夜の続きが頭をよぎる。触れかけた頬の熱、凍りつく直前の瞳、電話をかけてあげてと言って消えた後ろ姿。口にした「一緒に」の余韻が喉の奥で絡まり、居たたまれなさに視線をずらした。彼女は笑っている。自分だけが、まだ暗いリビングの窓辺に取り残されている気がする。言葉を探すが、そういうときに気の利いた何かが口から出てこないのは常で、それが分かっているから、あえて何も考えない方へすすんだ。
「コーヒー飲む?」
財前さんがキッチンへ立った。こちらの内を察し取る早さは、やはり彼女の業なのか、何も気にしていない風を装うが、昨夜のあの顔は、初めて見せた内面の迷いと恐れと、言葉で表せない悲しみだったはずだ。何も置かれていない天板を彼女の手が渡っていく。そこには昨夜、携帯だけが冷たく震えていた。今は淹れたての香りだけが残り、何もない静けさのほうが、かえって重くのしかかる。その光景を見ているうち、沙理衣の名前が浮かんだ画面、泣いていた鼻音、ここで待っててくれという自分の声が、珈琲の湯気と一緒に立ち上る。
『沙理衣がくる』
昨日の嘘が蘇り、先延ばしにした未来が、たった一日で巻き返しを始めようとしているのに、ついて行けていない自分がいる。同居人に何かを感じ取っている娘が、その正体を知るために早く来ることを考えると、財前さんに言わないわけにはいかないが、携帯に浮かぶ娘の名前を見て火が消えた彼女にどう伝えればいいのか思いつかない。
「……ああ」
そう返しながら彼女の内面の複雑さを考えると、底知れぬ深さと暗さに震えそうになる。何もなかったような表情を浮かべる彼女の、本心を隠そうとするその本当の心が分からない。
「……沙理衣が、今日の夕方、来ることになった」
試行錯誤するよりも、普通に娘が来ることを伝えればいいと信じてそう言ったが、カップを置く小さな音のあと、彼女の指先が一瞬だけ止まった。昨夜に似た、声になる前の冷えたものが瞳の奥をかすめた気がしたが、次にこちらを向いた顔には、もう何もなかったような穏やかな笑みが戻っていた。
「ちゃんと自己紹介したほうがいいと思うんだけど、今日から仕事でしょ。それに奈美から急に連絡があって、仕事前に会うことになったから、早めに出るわ」
「……そ、そうなんだ」
気を遣わせないための作り話なのか、沙理衣と顔を合わせることを避けようとしているのか、その真意はわからなかったが、その優しさに甘えれば何も起こらないのだと、勝手に安心しかけている自分だけが、朝の光の中でひどく卑怯に見えた。
「今日はいつもよりもゆっくり出勤するの?」
「え?」
「もうすぐ8時だけど?」
「え? 8時?」
何の疑いもなく携帯の時間を見ていたが、七時半頃に目覚めたことを思い出すと、時間通りの速さで流れる世界へ急に引き戻され、身体も頭も八時半までにここを出るモードへ切り替わっていく。
ゆりかもめも、山手線も、まだ休みの名残を残しているようで、通勤ラッシュの混雑もなく、心地良く身体を運んでくれる。
盆休み明けの会社もまだ非現実的な時間が流れていた。
出勤している社員の誰もが緩い表情を見せて、まだ本気を出さなくても大丈夫な時間を消化するように動いている。
そんな中で、早風だけは、いつもと変わらず仕事に取り組んでいるように見える。
「おはよう」
「おはようございます」
何をどう話せばいいのか、話す必要などないのか、しかし、醜態を見ながら介抱してくれた彼に、何も言わずにLINEの既読スルーのような真似はできないと思うと、足が自然と彼の後ろで止まった。
「……一昨日のことなんだが……」
「招待していただきありがとうございました。お互いに飲み過ぎましたね。部長のお宅なのに何も考えずに派手に飲んでしまってすみません」
仕事はできるが、頭の固い若者だと思っていた自分が恥ずかしい。何も言わなくてもいいというサインを言葉で返された。
「……早風、今日は定時前に帰るからもし何かあったら連絡くれるかな?」
「定時前ですか? 珍しいですね」
本当のことを、昨夜のことを、何も知らない早風が、嬉しそうに笑いながらそう言った。彼が視ている俺の未来と、自分がこれから迎えようとしている、何か不安な先が、交わらないと思うと、吸った息が石のように重くなり、肋骨の内側で鈍く沈んだ。
十七時前、玄関のドアを開けると、沙理衣のスニーカーがきちんと並んでいた。早めにここを出た彼女と顔を合わせていないはずなのに、玄関先まで届いている静寂が、知らない時間の重さだけを冷たく残している気がする。
『まずい』という短い言葉が脳裏を掠めた。朝、伝えるべきことを伝えたつもりで、それ以上踏み込むことから逃げた時間の中で、沙理衣と彼女が何を見つけ、何を避け、何を残してしまったのか、見えない会話の残響だけが玄関の冷えた空気に滲み、安心に似せて置いてきた不安と後悔が身体を縦に走り降りた。
リビングのドアを開けたが、右前方のソファは空っぽで、電源の入っていないテレビはいつものように黙ってこちらを見返している。
「パパ」
左手奥のキッチンカウンターの向こう側でエスプレッソマシンに触れている沙理衣が立っていた。
「これ、同居人の人のもの?」
そうなのだが、そうであるというのに、なぜか戸惑ってしまい、舌がうまく回らない。
「今日は会ってないよ。私が来たときには、もういなかった」
『今日は』
娘は確かにそう言った。今日は会っていない。その意味が、想像していた、ある時点から今日までの現実を変えていく。
「――パパ。ごめんなさい。私……知ってるの。ここに住んでる人が誰なのか」
「……」
「同居人が見つかったからいつか紹介するって言って、でもそのいつかがこなくて。学校帰りにこっそり来たとき、香水の匂いがして、ヒールもたくさんあったから、すぐに女の人だと分かったんだ。パパが紹介できない理由も、そういうことなんだなって。でも私は、その人に会いたかったの。どんな人か、見てみたかった」
「大丈夫だ。もう何も話さなくていいから。先にちゃんと説明するべきだったんだ。ごめんな」
「違うの!」
「何が違うんだ?」
「トランスジェンダーだよね」
「……」
言いにくかった本当のことが娘の口から出た瞬間、肩の奥に食い込んでいた重みがわずかに溶けた。けれど、その安堵の下から別の不安がすぐに滲み上がり、声を出す場所が喉の中で見つからなくなった。
「昨日、マンションの前で待ってたんだ。あの匂いの人が出てくるのを。侑李と会う約束なんてしてなかった。絶対に見つけなきゃって、早く来てたの。パパは実家に帰ったって言ったけど、嘘だと思ったから」
話す前に、言い訳する前に、娘はすでに俺の知らない場所で答えに触れていた。頭を使えばどんな難所も乗り切れると信じてきたことが、足もとから崩れるように神話へ変わっていった。
「……そのこともちゃんと話しておくべきだった」
「――違うの!」
「何が……違うんだ?」
「あの人が女でも男でも、私にはどうでもいい。パパのことを聞いてるの」
「俺の?」
「パパ、あの人のこと好きなんでしょう?」
「……」
「好きなんでしょう。分かるよ。パパ、変わったもん」
「いや……俺の気持ちは……」
自分の気持ちは分かっている。そしてそれが、もう元には戻れないところへいってしまっていることも分かっている。けれど、それはすでに終わりを迎えようとしていて、その終わりを選んだのは自分ではなく、彼女のほうなのではないかという推測の上を流れているだけなのだと、そんな説明をしても意味がないし、そんなことを娘に言えるはずもないし、たとえ言葉として表現できても、娘を傷つけるだけなのだ。父親が娘の前で情けない人間に成り下がっている。でもそれを見せるわけにはいかないと思うと、身体が悲鳴をあげながらばらばらになっていく。
「いい……何も言わなくていい。私にはわかるから。パパが誰を好きになってもいい。だって、ママもそうだし。でもね……あたし、寂しくて……ママもパパも、私の知らない人を好きになって、あたし、独りぼっちじゃん」
「ごめん。そんな想いをさせてしまって。本当に悪かった。絶対に一人にさせないから」
沙理衣は、うなずかなかった。いや、うなずいたのかもしれない。ただ、それで済まされる話ではないという顔だけは、はっきりしていた。
娘を安心させなければいけないと思う父としてのエゴが勝手に口を開けて、もっともらしいことを話している。
「もう一度、彼にちゃんと話して、これからのことを考える」
娘の前で、彼女のことをあえて『彼』と言った途端、もうそう思えなくなっている胸が、息を吸えなくなって、這い上がる胃酸で喉が焼ける。
「違うの。全然違うの。パパには笑っていてほしいの。昔みたいに。ママが出ていく前みたいに。わかってる。一番悪いのは、あたしなの。あたしなの」
乾いていた沙理衣の目がまた赤く潤みはじめた。
「私、知ってるの。あの人みたいな人のこと」
「どういう意味なんだ」
「中二のとき、クラスにいたの」
そこで一度、息を止めた娘は、次に出す言葉への痛みに震えている。そして、ゆっくりと開いた口から、想いが一気に溢れ出てきた。
「みんなにいじめられていた。誰も助けなかった。私も。だって、そんなの無理だった。四月って、新しいクラスでどう生きていくかが全部なの。どのグループに入るか、誰と一緒にいるか、誰に嫌われないようにするか。毎年、そればかり考えていた。今もそう。みんなそうだと思う」
沙理衣はリビングのガラスの外へ視線を逃がした。
「でも、その子は違った。最初から友達なんて求めていないみたいだった。というより、諦めていたのかもしれない。自分の世界を持っていて、妥協しなかった。だから、みんなから浮いた」
「……」
「私は、あの子が悪いんだって思っていた」
沙理衣の指先が膝の上で震えている。言葉にした瞬間、昔の教室の空気までここへ連れてきてしまったように。
「そう思わないと、自分が何もしないことを正当化できないじゃない。でも、だんだん、からかいじゃ済まなくなってきて、物がなくなったり、机にひどいことを書かれたり、最後には机ごとどこかに捨てられて。机がなくなった床の上に『オカマ菌に注意。早く死ね!』って書かれているのに、そこに立って授業を受けたんだよ。なのに先生も何も言わなかった。あの子は平気な顔をしていた。平気なはずないじゃない!」
そこで言葉が途切れた。
「三学期に、取り返しのつかないことが……体育館の裏で血の付いた下着が捨てられてた事件が起こって……」
沙理衣はそれ以上、詳しく言わなかった。何が起きたのか聞けなかったし、聞いていいことではないと分かった。
「その子、学校に来なくなった。それから少しして――死んじゃったの」
死んだ。
その子は死んでしまった。
「誰が何をしたか、みんな多分わかってた。先生も、たぶん知ってた。でも何もなかったことになった。私も何も言わなかった。言えなかった。自分が責められたくなかったから。あの子のお母さんもお父さんも、何も言わずに、ただ学校に謝って、警察に謝って。どうして、どうしてそうなるの」
沙理衣の目から涙がこぼれた。
「なのに、なのに、私……あの人にひどいこと言ってしまった」
沙理衣は一度、喉を詰まらせた。
「『あなた、男の人ですよね。なのに父のこと好きなんですか? 私から父を取らないでくれますか? 絶対に認めない。あなたみたいな男。汚らわしい。パパから離れて。ここから出てって!』って言ってしまった。昨日、家に帰ってからどうしていいのか分からなくなった。中学のときにあんなに後悔したのに。今度は私が、加害者になってしまった。謝りたかった。どうしても謝りたかった。でも、あの人に会えなかった」
別居が決まったころ、恵梨香から一度だけ聞かされた話がゆっくりと蘇ってくる。沙理衣の中学で、同じクラスの男の子がいじめが原因で亡くなったこと。でも事件性もなく、自殺でもなく、事故だったこと。あのときは『そうなんだ、最近のあるあるな話だな』と軽く流して、何も聞き返さなかった。
血の気が一気に引き、わずかに開いた口が震え始める。
「……沙理衣」
「何も言わないで。もしあの人が死んじゃったら、死んじゃったら、どうしよう」
そう言って声をあげて泣きだした。
「……大丈夫だ……彼女は……」
泣き崩れる娘にしてやれることはなく、ただ、大丈夫だと、根拠もない不確かな想いを伝えることしかできないまま、昨夜見た彼女の抜け殻の姿を思い出していた。
彼女が感情的になった沙理衣にそんなことを言われていたなんて考えてもいなかった。無理やり追い出された後すぐ、このマンションのエントランスで再び傷ついた彼女が、その後、一日どう過ごしていたのか、どんな気持ちで街を見ていたのか、想像をはるかに超える痛みを抱えていたことを知らなかった。泣いている娘の前で大声で叫びそうになる。しかし、毅然とした父親を演じなければと、自分を奮い立たせながら、そこにいるのが精一杯だった。
光が丘で娘を降ろし、有明へ戻るまでの道のりは、昨日の夜とほとんど同じだったはずなのに、ハンドルを握る手の中には別の重さが残っていた。地下駐車場に車を戻し、急いで部屋へ上がると、玄関先にはいつもなら気づかない香水の名残だけが薄く広がり、明かりのついたリビングには、昨夜まで確かに続いていたものの終わった後の静けさが、誰にも片づけられないまま置かれていた。ここで待っていれば彼女は戻ってくるのかもしれない。けれど戻ってきた彼女に何を言えばいいのかも分からないまま、ただこの部屋で待つことは、昨夜から今日にかけて自分が見落としてきた痛みを、もう一度見ないふりすることにしか思えなかった。仕事帰りを装うためにスーツへ着替え直した手は、ネクタイを結ぶそばから小さく震えた。沙理衣の泣き声と、抜け殻のように窓辺に佇んでいた彼女の姿が重なり、灯りが消えた後に残されたような空しさが深いところへ沈んでいく。もう部屋の中に立っていることができなくなり、銀座へ向かう足だけが先に動き出していた。
「いらっしゃいませー」
リュエール・デ・ゼトワールの扉をくぐると、鼻に掛かった声が出迎えてくれた。初めてここを訪れてまだ半年もたっていないというのに、ずっと前から知っているようだ。薄明かりの照明と店の賑わい、甘い香水とアルコール、重厚に敷きつめられた絨毯もそのままだ。あの日、動揺した心が、今夜は、変わらない店内の様子に少しだけ癒されていく。だが、落ち着こうとしても、身体だけが先に急いでいた。席へ案内される前から、照明を受けた指先だけが、彼女の姿を探すように落ち着きなく動いていた。
「立柳様、こちらへ」
顔は覚えていないがたぶん、マンションまで酒類を運んでいたボーイの一人だろう。黒いスーツに身を包み、控えめで丁寧な動きでテーブルへと案内された。
「初めまして。摩耶です。本日はよろしくお願いします」
初めての顔に迎えられて、動揺しながら客席を見回した。今の態度が初対面の人間に対して失礼だと認識する前に、「キャサリンはいないのでしょうか?」と失礼を繰り返してしまった。摩耶さんの、何か言わないと、という表情に、はっとして、キャサリンを口にしたことが情けなくなり、プライドだけでキープしたブルーラベルのボトルに目を落とした。
「キャサリンお姉さんは、本日は休みだと聞いております。もうすぐママが出勤するので、詳しいことはママにお聞きしていただけるでしょうか?」
「休み? キャサリンは休みなんですか?」
「はい」
「今日は外国からの客の接待が入っているって聞いてたのですが」
「そちらのお客様の来店は、来週に変更になったそうです」
「そうですか。すみません、キャサリンのことなんですが――」
「あ! すみません。リスケになったお客の話は聞かなかったことにしてください。ママに怒られちゃうから」
年齢にして、たぶん三十にならないその若いホステスが、いきなり素になって、こちらの話を切ってそう言ってきた。急に親しみが湧いてくる。キャサリンもそんな時代があったのだろうか、と思うと忘れていた痛みが喉を引っ掻いた。
「今日だけですか? 体調不良とか、何か——」
「ごめんなさい。何も知らないんです。昨日までお店休みだったので」と摩耶さんに二度続けて切られてしまい、店のこともホステスの個人情報も何も話せないと分かった。
「分かりました。すみません。ママが来たら、すぐ呼んでもらえますか」
「もちろんです」
「ありがとうございます」
当たり障りのない話をしてくる摩耶さんを見ながら、ひょっとしたら彼女も嫌な目に遭ってきたのかもしれないと思った。沙理衣の話を聞いたばかりだからかもしれないが、三十にも満たないだろう若い彼女が、生き方が変わるほどの人生経験などしていないと、もう軽く見ることはできなかった。だが、喉に残っていた痛みがすっと冷えていったのは、落ち着いたからではない。戻るべき部屋には彼女の不在だけが待っているのだと分かってしまい、ここでママを待つしかないという、諦めに近い静けさが身体に広がったからだった。
一時間ほど当たり障りのない話をしながら、ママの出勤を待った。
「いらっしゃいませ。立柳さん。お待ちいただいて申し訳ございませんでした」
同伴出勤したママがテーブルに笑顔と艶やかさを運んでくると、店内の空気がいつものリュエール・デ・ゼトワールに戻った。
「キャサリンのことですよね」
「キャサリンはどうして休みなのですか?」
「出勤前に突然部屋まで押しかけてきて、一週間休みがほしいって言い出して。いったん言うと聞かない子だから、渋々一週間休みにしてあげたんですよ」
『奈美から急に連絡がきて会うことになった』
沙理衣が来ると知った彼女が俺に気を遣わせないようについた優しい嘘だったのは明らかだが、一週間休みたい彼女の胸の内が見えなかった。
「一週間ですか」
「それからもう一つ、今夜、うちに泊まりたいって言っていて。これは立柳さんと何かあったなって思ったんですけど、あの子って絶対に聞いても言わないって知ってるからあえて聞かなかったんですよ。明日には追い出すから大丈夫ですよ。心配しないで、待っててあげてくださいね」
ママにそう言われてすぐ、『もしあの人が死んじゃったら』という沙理衣の言葉が意味もなく過った。しかし、いつものように優雅な声で返された言葉に安堵した。安堵したのではなく、安心したい自分が、ママがそう言うのだから大丈夫だと無理やり納得して、不安を押し戻した。
銀座から戻ったときには、すでに日付が変わっていた。スーツを脱ぎ、部屋着に着替えても眠る気にはなれず、何度も玄関の方へ耳を澄ませながら、明け方までリビングで過ごした。朝になっても、昼前になっても、財前さんの戻ってくる気配すら感じない。いつの間にかソファでうたた寝をしていたが、目を覚ましても、物音ひとつしない部屋の中に彼女はいなかった。何もないキッチンテーブルの表面は、朝と同じく冷えたままだ。日が傾き、夕陽が届き始めたリビングは、静けさを味わうようにゆっくりと夜へ繋いでいくが、彼女の笑顔も弾む声もなく、静寂だけが残ったまま、土曜の夜が更けていく。昨日より薄れた玄関の香水の匂いだけが、彼女のいないことを必死で叫んでいる。
ママに言われた通り、焦らず待っている。
疑いもなく、その言葉を信じている。
ここにいれば彼女は戻ってくる。
――触れられていない携帯の黒い画面が不意に光を浮かせた。
【土曜日 8月18日 23時00分】
意味もなく時刻を乗せたスクリーンに視線が流れる。
意味もなく。意味もなく? 意味も……意味が…ある、のかも…しれない。
手に取った携帯が、掌の中で、一分、時を前に進めた。
自然に指が再登録された【財前京太郎】へと動く。
その名前を押さずに、我慢していた。今日一日中。その向こうに声がないと知っているから、知りたくない現実を知るのが怖いから、知ってしまえば途方に暮れるから。
《おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません》
その名前に触れた途端、予感は裏切られることなく、血の通わない音声ガイダンスの冷たさに阻まれて、声の届かない現実が姿を見せた。
『待っていても彼女は永遠に帰ってこないかもしれない』
『このまま……失われる……かもしれない』
掴んだ車のキーの冷たさだけが掌に残り、行く当ての見えないまま、夜へ飛び出した。
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