【小説】プライベート・エモーション 第七話
「本日はお越しいただきありがとうございます。ようこそ料亭立柳へ。一日女将を務めさせていただきます。京子です」
玄関ホールで着物に身を包み、三つ指をつき、挨拶をした彼が慎ましやかな微笑みを浮かべていた。
言葉を失って立っている早風の隣で自分も同じような表情をしていただろう。
*
昨夜を引きずりながら水曜の朝を迎えた。
朝六時のリビングは、これから始まる舞台のような緊張を漂わせている。仕込まれた料理の数々は冷蔵庫の中で最後の仕上げを待ち、床に並んだ酒の瓶は、自分たちの出番を前に静かに息を潜めているように見える。彼が創りあげたものだけが、この部屋に静かな熱を持たせていた。
「おはよう」
水色のストライプが縦に流れる白いシャツに、オフホワイトのセンタープレスの入ったチノパン姿でリビングに現れた彼が、キッチンカウンターの向こうでエスプレッソを淹れはじめた。
首の付け根あたりで一つにまとめられた黒髪が、両側の鎖骨の間に垂れていて、白く細い首から華奢な肩へ続く流線形に、シャツの襟がふわりと乗っていた。
しばらくすると、コクと深みを醸す珈琲のアロマに満たされ始めたリビングに朝陽が届き、眩しい水曜の朝を開幕させた。
「もう起きたのか? まだ朝六時過ぎだけど」
「眠れなかったの。今の生活で体内時計が昼と夜逆転しちゃってて。何も予定がないんなら、眠たくなるまで起きてるんだけど、今日は寝過ごせないから寝ないことにしたの。コーヒー飲むでしょ。エスプレッソにする? カプチーノも、ラテも、アメリカーノもできるわよ」
「じゃ、アメリカーノで」
大きめのマグカップにエスプレッソを落とし、ケトルのお湯で香りをほどいたアメリカーノを左手に、愛用する小さなコーヒーカップを右手に持って振り向いた顔には、いつもの笑顔の中に眠さが混じっていた。
「眠かったらソファで横になってれば」
「寝落ちしちゃったら嫌だし」
「買い出し前に起こしてやるよ」
「嫌だ、恥ずかしいじゃない」
「え? 何が」
「寝顔を見られるの」
「気にしないけど」
「私が気にするのよ。あまりにも綺麗であなたを動揺させちゃうかもしれないでしょ」
「いやいや、それはないから」
返事を考えるより先に言葉が出て、彼が小さなカップをカウンターに置く音と、次の言葉が重なった。
「あるあるよ。男は狼なのよ」
「なんか古い言い回しだな。昭和かよ。それに狼も相手によるだろう」
「私の寝顔は極上の一品級だから、心を奪われるわよ」
「とか言って、本当は口開けていびきかきながらよだれたらしてんだろう」
「あら、私にはいびきもよだれもなくてよ」
「『なくてよ』ってなんなんだ。高貴な生まれか」
「お蝶夫人」
「何それ?」
「後で早風さんに聞けば? 多分知ってるんじゃないかな。アニメのキャラの台詞だから」
「……そうするよ」と返事だけが先に口から落ちた。
カウンター越しの声は、そのまま俺を横切って続き、輪の中心にあるのは、彼と早風の話題だけだった。
七時に向かって本格的な朝へ変わりつつあるリビングは、ガラスの向こうから差し込む光を受け、これから誰かを迎えるために少しずつ整えられていくようだった。けれど、マグカップの縁を指でなぞっていると、輪の中心から少し外れたままの自分だけが昨日から続く翳りを持ち越している気がして、その暗い部分だけは、見ないほうへそっと押しやった。
「じゃ、ちょっと横になっちゃおうかなー。コーヒー飲んでから。ん……やっぱり、横になるのやめとこ、早風さんを迎える準備しないと」と言った彼が、小さなエスプレッソの入ったカップを持ったまま、リビングのガラスの壁の前で朝陽と戯れている。
「朝ってこんなに気持ちいいのね。いつも寝る時間が来たわ、くらいにしか思ってなかったけど。逆転生活はよくないわね。やっぱり」
「俺もどちらかと言えば逆転生活みたいだけどな」
「立柳さんは、単に睡眠不足生活じゃないのかしら」と言って朝から笑顔を投げている。
午前中、まだ朝の名残がほのかに残るキッチンに立った彼が、冷蔵庫で出番を待っていた料理に順番を与えていくのを、リビングの端から眺めたり、ときどき言われたものを取ったりしながら過ごした。昼前になると、彼は足りないものだけを確かめて近くのスーパーへ出かけた。両手に小さな袋を提げて戻ってくると、何事もなかったように仕上げの続きを済ませ、午後の光がリビングの床を明るくしはじめた頃になって、ようやく「用意してくるわ」と部屋へ消えた。
彼がいなくなると、急に寂しい表情を浮かべたように空間が静かになった。戻るのを待つ気持ちだけが残り、どこにもないはずの壁時計の秒針が、耳の奥でカチカチと時を刻みはじめた。
しばらくすると、リビングのドアが静かに開いた。
透ける絽の袖から白い手首を覗かせて着物姿の彼が静かに立っていた。淡い銀鼠の生地が、昼の光を水のように含んでいる。
「お待たせしました」
そう言って笑う彼の声は、それまでと変わらないが、帯に締められた細い腰と、うなじに落ちる後れ毛を見て、言葉を失った。
女なんだ、と。
普段着やドレス姿を見ながらも否定し続けてきた、自分を守ろうとする意識が、力を失った。
何と言えばいいのか分からないまま、見た目の艶やかさに見入っていると思われたくなくて、早風が来るにはまだ時間があったが、迎えにいくと言ってマンションを出た。
*
「こんなふうに出迎えたかったの。で、この先は、女将じゃなくて、普通の京子でいくわね。早風さん、キャサリンじゃなくて、京子って呼んでね」
「え、え、そんな、素敵なお名前があったんですね。きょ、きょ、京子さん。素敵です。今日もすごく綺麗で……また惚れ直しました」
玄関先で、早風は「京子さん」と呼び切っていた。「きょ、きょ」と詰まった直後とは思えないほど、自然だった。
早風を迎えに行く前、着物姿の彼を前に言葉を失った時と同じように、喉がまた詰まる。脇に立ったまま、惚れ直しました、という声だけを聞いていた。
「いやだもう、私ってそんな魅力的なのね。罪な女だわ」
「罪な女性って、その言葉自体が罪というか、ミステリアスというよりも、神秘の女神です」
「嬉しすぎよ。あら、ごめんなさい。そこに立たせたままにしちゃって。中にどうぞ」
早風の足音が硬い玄関を離れ、リビングのほうへ吸い込まれていくと、昨日から積み上げてきた支度の気配が、午後の光を受けて少しずつその全貌を見せ始めた。
カウンターキッチンにはボトルが並び、その手前には背丈も形も違うグラスが、ホテルのバーのように整えられていた。トレー、アイスペール、アイストング、ワインオープナー、栓抜きも、ウォールキャビネットの下に揃っている。
少し後ろへずらされたソファの手前には、白くふかふかした絨毯がフローリングの上に敷かれている。ソファの上にもクッションはあるが、小さくてかさ高く、座るには向かない。座るべき厚手のクッションは、絨毯の上、ソファとローテーブルのあいだに並んでいる。テーブルの上にそっと置かれたお品書きが、今日の物語のステージを見せていた。
「え!」
絶句は想像通りだった。玄関で京子さんと呼び切った早風の顔に、さっきと同じ驚きがもう一度戻り、着物姿の彼が立つリビング全体を見回す目だけが、どこから受け止めればいいのか分からないように揺れている。キッチンからローテーブルまで並べられたものすべてが、今日はただの食事ではなく、彼が本気で仕立てた宴なのだと、言葉より先に告げていた。
「これって、どこかのお店が丸ごとやってきたみたいです」
「そうなの、ちょっと張り切っちゃって。だって、早風さんがここに来るんだもの。これくらいはしないとね」
「ぼ、ぼ、僕ごときに」
「僕ごときなんて言わないの。あなたはここにやってきてくれた素敵なお客様なんだから。人としても最高よ。超がつくくらい」
『超がつくくらい』
その褒め言葉は、早風の首あたりに留まったのか、その肩が少し下がり、俺の耳にも、彼が何の迷いもなく口にしたその言葉だけがしばらく残った。財前さんは早風の反応を深追いせず、リビングの奥へ半歩身を引くと、ローテーブルの前に並べた厚手のクッションへ視線を流し、そのうちの一枚を、客を迎える前の最後の仕上げのようにそっと直した。
「こちらへどうぞ」
店で見るキャサリンのようなふざけるような感じはなく、早風を丁寧に席へ招く姿は、本当の女将のようだ。
「何か食べられないものや、アレルギーがあったら言ってね。少し時間をいただければすぐに用意できちゃうから」
「好き嫌いも、アレルギーも何もないです」
「よかったわ。それじゃ、最初に何を飲まれますか? そこには書いてないけど、ソフトドリンクもあるから。お決まり通りビールから始める?」
「実は僕、ビールあんまり好きじゃないんです」
「そうなの? お店ではいつもビールスタートだったから、てっきり好きなものだと思っていたわ。私もビール苦手なのよ。気が合っちゃったわね」
気が合う、という軽い言葉に、朝、アニメの台詞なら早風さんに聞けばいいと笑っていた彼の声がふいに戻ってきた。寝顔や珈琲の冗談で散っていたはずの小さな棘が、二人のあいだにだけ通じるものを見せられるたび少しずつ熱を持ち、まだ何も始まっていない宴の端で、自分だけがまた輪の外へ押し出されていくような気がした。
絨毯の上で、膝の高さは揃ったが、飲み物の話だけが、まだ決まらないまま続いていた。落ち着きなく動く早風の視線が、カウンターに並んだボトルと、お品書きのあいだを行き来している。
「なんかすごすぎて……何を飲めばいいのか……」
「お前、酎ハイ派じゃなかったっけ?」
何が好きかは知らなかった。ただ、この前のカラオケボックスでの印象が焼き付いていたから、てっきり焼酎しか飲まないのかと思っていた。
「まぁ、そんなんですけど。日本酒も好きです」
裏切ろうとするかのように、早風が目を輝かせた。
「純米大吟醸と純米吟醸、どっちが好きかしら?」
「うん……どちらかと言えば、純米吟醸です」
「だったら、黒龍かな。スッキリした飲み口よ。ちょっとフルーティな香りがするけど大丈夫?」
「もう、全然、全く平気です」
彼がカウンターへ向かい、瓶の口を開けると、小さな音を残して吟醸の香りがリビングのテーブルの上に立ち、冷えた酒器が三つそろう頃には、早風の表情だけが先に酔っていた。同じ席にいるはずなのに、その明るさへ手を伸ばすには、まだ薄いガラス一枚ぶんの距離がこちらの前に残っている気がした。
黒龍で、宴は静かに始まった。
席を立った彼が、先附をトレーに乗せてやってくる。湯引きした鱧の上に紅く色づけされた梅肉が、夏の涼しさをテーブルに漂わせる。
「すごい」
早風は箸をつけるのが惜しいかのように、ずっと鉢を見つめて、ゆっくりと鱧を挟んで口へと運んだ。
「これ、正に料亭の味だ」
そう呟いて二口目を運ぶ早風の顔は、もうすっかりこの席の客のものになっている。箸が鉢の縁を、小さく鳴らした。
彼が空になった鉢を引いて、カウンターで次の準備をしているあいだも、早風の関心はその背中へ向いたままだった。
「あの料理は京子さんが作ったんですか?」
「そうだよ。いまから出てくるもの全部な」
そう答えた声は自分のものなのに、さっき早風が口にした京子さん、という呼び方だけが、返事よりも濃く耳の奥に残っている。
「部長は手伝わなかったんですか?」
「手伝うも手伝わないも、こんな本格的な料理に手を出せないだろう」
「まぁ、そうですけど。この料亭というか、バーラウンジというか、これも全部京子さんのアイデアなんですか?」
「ああ、全部、彼が考えたんだよ」
「……」
早風が黙ってこちらを見ている。さっき口にした「彼」という言葉だけが、その視線の奥に残っているようだった。部下にどう思われようが、以前のように罵倒されようが、自分の考えを変える気はない。
「部長は、彼女のことを京子さんって呼んであげてないんでしょうね」と思っていた通りの言葉が飛んできた。
「……ああ、呼んでない」
「そうですか。でも今日は何も言いません。京子さんの気持ちを大切にしてあげたいから。せっかくここまでしてくれているのに、僕が変なことを言い出したら京子さんを侮辱することになるから」
「……」
「部長のことを受け入れたわけじゃないですが、多分、部長が京子さんを受け入れると信じているので」
早風が一度こちらを見て笑った。その笑みには、責めたい気持ちを押しとどめ、財前さんが差し出している今日という場を壊すまいとする硬さがあった。同時に、俺がそれを完全には拒めなくなっていることを見抜いたようなやわらかさも、同じところで揺れていた。張りつめていたものは、先附の匂いが薄れていくのに合わせて少し緩み、キャサリンの微笑みを浮かべた彼が次の皿を運ぶたび、宴は早風の静かな納得に守られるように続いていった。
メニュー最後の西瓜のジュレをローテーブルに並べる彼の背中に、早風の視線が留まった。
「お着物が本当に似合ってます。お店でも着られているんですか?」
聞けずにいたことを、早風があっさりと口にした。
店で着物を着るのか、それとも着ないのか、同じ屋根の下で暮らしていながら、キャサリンのことを知っているようで、結局はうわべだけしか知らないまま、料理が得意なことも、何でも簡単に作れてしまうことも、こんな本格的な席まで整えられることも、一枚ずつ彼の内側を見せられるたび、自分のほうが剥がされていくようで、今日は着物姿まで見てしまった。けれど、それ以上に、箱根に行ってみたいと何気なくこぼした本音に心を動かされたことがまだ怖くて、着物を着る意味や着ない意味まで知ってしまえば、また彼の内奥へ、足元から落ちていく気がした。
「店では着物を着ないのよ。あんまり興味がなくて。でも奈美に『着物の一着や二着くらいは持っておきなさい』って無理やり呉服店に連れていかれて。生地も柄も、全部彼女のセンス。店だけじゃなくて、昼間にも着られるように選んでくれたのよ」
ただ興味がないだけだと言う彼の答えはあまりにも軽く、身構えていた自分の方がおかしく思えて、酒の酔いが少し回ってきたのか、内側がふっと軽くなった。
「ママさんが選んだんですか。京子さんに似合う色や文様を知ってるんですね。さすがです」
「私、背が高いから着物が似合うなんて思ってないのよね。今もそう思ってるわ」
「ま、全くそんなことないです。すごく、本当にすごく綺麗で、似合ってます」
「早風さんもお世辞がうまいのね」
「おせじなんかじゃないです。本当にそう思います。そうですよね。部長」
早風の視線だけが突然こちらへ向けられると、口が動かなくなった。それでも彼の言うことが間違っていないと分かっているせいで、今朝、着物姿の彼に言葉を失った衝撃が頭の奥によみがえり、言いかけた返事をそこで止めてしまった。
「ですよね。立柳部長」
「立柳さんはあまり関心ないと思うわ」
「いや……ああ、そうだな」
「何が、そう、なんですか?」
「いや、だから、着物だ。着物、案外似合っている」と言った先から照れ臭くなってしまった。グラスを持つ指先が小さく震え、それを見せないように必死になる。
「案外じゃなくて、マジで似合ってるの間違いじゃないですか?」
「なんだか、二人は上司と部下よりも、気の合う仕事仲間って感じちゃうわ」と言いながら、彼はテーブルの上の酒瓶を整え、店で見慣れた奈美ママと同じ要領で、うまく間を埋めている。
「奈美は自分に着物が似合うのを知ってるし、着物が大好きだから、みんなに勧めるのよ。もうだいぶ昔の話だけど、成人式、着物で行こうって誘われたのよ。その頃、二人ともすでにお店で働いていたから、お金もあったし、着物をあつらえることもできたのよね」
「行ったんですか? 着物で」
「ううん」と彼は首を横に振った。
「誰に見られても恥ずかしくない自信はあったわ。でも、見せたい人なんていなかったの。高校は1年で中退してるし、中学のクラスで仲良くつるんでた子もいなかったしね。唯一、奈美ぐらいよ。彼女は小柄だったから、クラスのちょっと悪ぶっている子たちに可愛がられて、うまく輪の中に入ってたわ。私のクラスは悪い子もいなかったぶん、常識的な子たちばっかりだったから、良くも悪くも蚊帳の外だったの」
前しか向いていない彼の口から零れた過去は、話している顔に、光を沈めたような重みを宿らせていた。早風が口を開きかけて閉じると、しばらくのあいだリビングのテーブルに響くのは、酒器を置く音だけで、西瓜の冷たい甘ささえ、急に遠くに感じられた。
「着物もそうだけど、キャサリンのドレスは結構いいよ」
この沈黙をどうにかしたいと焦る頭が、普段絶対に口にできない言葉で空気を揺らした。それが本音だったと気づくと、恥ずかしさで汗が滲み出てきて、驚きを浮かべる早風と、少し目を泳がせるキャサリンを前にして、しばらく動けなかった。
「えっ! 部長……」
「あ、いや、そのだな……」
「部長。さすがです。そんなあなたを待ってました」
「……なんだよそれ」
「言葉のままです。部長の本音が少しというか、あれが本音ですよね」
「……」
否定したいのに否定できず、頬が熱くなった。彼の視線だけがテーブルに落ちると、そんな間をさりげなく縫うように、早風がドレスの話題を差し出した。
「ドレスやスーツの好みってあるんですか? ていうか素材とか形を言われても正直わかんないんですが。そうそう、例えば、お気に入りのブランドとかはあるんですか?」
「どこのブランドかと言われれば、シャネルかな」
「それならファッションに頓珍漢な僕でも分かります。女性が好きなラグジュアリーブランドですよね」
シャネルという名前だけなら、早風の言う通り、誰もが知る女性向けのラグジュアリーブランドという、世間一般が持っている薄くて表面的なイメージの浅い箱に収められるものだった。それでも「シャネルかな」と言った彼の声は低く、さっきまでの笑いにも負けない重さを持って、酒器だけになったテーブルの上に残っていた。
「服ならディオールも好きよ。きれいで、優雅で。でもね、いちばん好きなのはシャネルなの。みんなが想像するあのブランドのネームバリューが創り出す付加価値じゃなくて、ガブリエル・ココ・シャネルという人物に惹かれるの。もちろん、ファッションやビューティー商品も好きよ。でも彼女自身に魅力を感じるの」
「生き様、ですか?」
「そう。親に捨てられて、男に利用されて、でも彼女もまた男を利用して、戦争のあいだには憎まれる側にも回った。黒い話は今も出てくるわ。それでも生き残って、1954年にもう一度、自分の名前で立ち上がった人よ。服を着るとき、あの人の人間的な強さをまとっている気がするの」
「……そんな人生を送った人だったんですね。強い、というか……その強さに惹かれるんですね」
「ごめんなさい。堅苦しかったわね。でも私には、その生き方が合うの」
話が終わると、テーブルを囲む三人のあいだに、さっきまで別々の場所で揺れていた明るさが、ようやく同じ温度で戻ってきたように感じられた。低く響いた「好き」という言葉の向こうに、キャサリンとして立ち続ける財前さんの人生が、ココ・シャネルの歩みと重なっていく絵が広がった。
「京子さんのシャネル姿、見たいです」
「じゃ、次回、早風さんがお店に来るときはシャネルを着ちゃうわ」
「本当ですか」
「もちろん。約束するわ。ピンとした姿をお見せするわ」
リビングのテーブルの上で賑わう声を遮るように、カウンターに置かれた彼の携帯が鳴った。宴の空気が、一瞬で別の方向へ流れていく。
「知らない電話番号だわ。ひょっとしてお客さんかしら? もしもし?」
携帯を耳に当てた彼の横顔に、陰が落ち始める。口元の形が変わり、急に別の人に見えてくる。
「間違い電話みたい」
それが嘘であったことを示すように、一分もしないうちにまた電話が鳴った。最初は無視するつもりだったようだが、鳴りやまない電話を持ってリビングを出て行った彼が戻ってこない。
「さっきの間違い電話ですか?」
「本人がそう言ったからそうなんじゃないか」
早風も黙った。十五分以上、彼は戻ってこない。それだけが確かだった。
「ごめんなさい」
彼は着物ではなく、肩から腕にかけて白い肌を大きく見せるサマードレスで戻ってきた。見慣れた普段着でもなく、店のドレスでもなく、カジュアルとフォーマルの狭間に立つ姿は、着物に続き、初めて見るもう一つの彼だった。ただ、そこには和服に漂っていた惹きつける魅力とは違う、心が遠くなっていくような不安がまとわりついていた。
「お客さんだったわ。急に会わないといけなくなったの。一時間ほどで帰ってくるから。早風さん、途中抜けになっちゃってごめんなさい。戻ったら、またファッションの話の続きしましょ。服はもういっか。そうそう、アニメトークしましょ。じゃ、また後でね」
しかし、一時間後彼は戻ってこなかった。
二時間。
三時間。
ローテーブルに残ったのは誰も手をつけない酒器と空いたグラスだけで、早風との話題は、さきほどのシャネルでも、早風の好きなアニメでもなく、帰ってこない彼の行方へ移り、口にするたび、深まる夜と同じ重さを連れてきた。
「こんなに帰ってこないことってあるんですか?」
「ないな。でも正直なところ分からん」
「え? どういう意味ですか」
「大体、いつもすれ違いの生活をしているから。すれ違いっていうのは時間のことだけど。昼と夜が逆転してるから、こうして、同じ部屋で過ごすことなんてほとんどないんだよ」
「土日もですか?」
「ああ」
「同居人の契約書にお互いのプライバシーを侵害しないってなってるから」
「そんなの関係なくないですか? 京子さんは部長のこと好きなんですよ。で、部長も……ある程度は気になっているんじゃないですか? だったら」
「……」
「あ、すみません。その話はしないようにします」と早風が出かかった感情を抑える。
「にしても、同居人の女性が、夜8時に急に出かけて戻ってこないなんて心配じゃないんですか? お客さんといっても、いい人ばかりとは限らないじゃないですか」
「一応、銀座の高級ショークラブだから、悪い客はいないだろう」
「何を言ってるんですか。金持ちや社会的に信用されてる人だから、裏が怖いんじゃないですか。商社マンならその辺はご存知ですよね」
確かに早風の言うことは当たっていた。銀座の店に来る客が、肩書きや金だけで信用できる人間ばかりではないことも、契約書に書かれたプライバシーという言葉を盾にすれば、心配しない理由まで作れてしまうことも、商社で人の裏側を見てきた自分には分かっているはずだった。彼の身の上に何か起きているのかもしれないと考えると、遠のきかけていた空虚さがまた内側から浮かび上がり、沈殿していた澱んだ感情が揺らぎだす。
「もう、夜11時も回ったし、そろそろお開きにしよう」
「え? でもまだ京子さん帰ってきてないですよ」
「今日は多分、帰ってこないんじゃないかな」
「いや、僕、心配なんで、ここにいます。いさせてください」
「だめだ。俺はもう疲れたよ。大丈夫。帰ってきたら、電話するように伝えるから」
早風には悪いが、実際に心配してここにいても何もできないわけだし、正直なところ、一人になって、彼のことを考えたいというのが正解だった。
「下まで送っていくよ。今なら終電に間に合うから」
居座る早風を追い返すようにマンションのエントランスを出ると、ライトアップされた植栽と敷地内の外装が、いつもと違う雰囲気を醸し出していた。真夏の夜に浮かぶ舞台のように静かに佇み、これから何かが始まろうとしている。その感覚が本当であったかのように、ゆっくりと登場したタクシーが数十メートル先の歩道に静かに止まった。
ドアが開くと、サマードレスの裾から長い脚を滑らせるようにして彼が姿を現した。その光景を目にして、感極まった身体が走り出そうとする。なのに、反応するより早く、見たことのない憂いを帯びた表情に足が動かなくなった。白いドレスが夜の中で存在感を放ちながら、近づくことを許してくれない。何かを考えるようにその場に立ち尽くしている彼を再びどこかへ連れ去ろうとするように、後ろから伸びてきた手が視界に入った。手から腕、足先から脚、やがてすべてを見せるように、白人の男が、すーっと彼の後ろに立った。
その光景に凍りついた。
状況を処理しようと頭が回転しているが、何をどう処理するのか、そもそも何の情報もないものを処理などできないのだ。
突然、右腕に強い力が食い込み、見ていた二人の姿が横へ流れた。視界だけはまだタクシーのほうにしがみつこうとしているのに、身体は自分の意志とは別の場所へ引き寄せられ、白人の男とはだけた白い肩を結んでいた線が植え込みの葉に断ち切られた。すぐ横で早風が腕を掴んだまましゃがみ込み、同じ樹木の影から真剣な顔で前方を窺っていることに気づいた。
心の奥に芽生えた正直な気持ちを、光に当てる前に消そうとしていた。それが、目の前に突きつけられた現実によって、急に一方的な思い上がりへ変わっていく。夜の舞台の上で、静かな憂愁を湛えた彼の横顔と、肩へ伸びる男の手だけが、俺を置き去りにしたまま流れていた。その手に、心臓を鷲掴みにされた。潰れる音のしない痛みだけが、身体の真ん中に残った。
痛みを感じるのではなく、
ただ、痛かった。
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