【第10回】不登校支援では心は動かない──“場”という回復の土壌
前回は、“する/される”という支援関係の構造そのものに違和感を抱いてきたこと、そして、その関係性だけでは届かない何かがあるのではないか、という思いを綴りました。
(前回の記事 「不登校支援って言葉が嫌い」はこちら)
「支援では届かないものがある」──これは私が不登校の子どもたちと関わるなかで、何度も痛感してきた感覚です。
構造化された支援、計画的な関わり、制度のなかでの役割分担。整った枠組みの中で、なぜか子どもたちの表情はこわばっていく。そして、それは私自身にも向けられる問いでした。
支援という言葉に含まれる「目的」「成果」「変化」の視点が、関係性そのものを窮屈にしてしまう。そんな違和感が、私の中にありました。
今回は、支援という「構造」ではなく、その外側にある関係の中にある、私が “場” と呼んでいるものについて書いてみたいと思います。
支援の構造を超えて、人が人として回復していくきっかけになるのは、結局この“場”なのではないか──そう感じています。
現代の支援と「場」が失われる構造
今の社会や教育の現場では、「支援」はとても構造化されてきています。
目的が定められ、計画が立てられ、成果は数値で評価される。
一定の枠組みがなければ、多様な立場の支援者が連携することは難しいし、記録は変化を追ううえで役に立ちます。
けれど、支援が整えば整うほど、私たちはいつの間にか「子どもをどう動かすか」という問いに囚われていきます。
もっと関わった方がいいか。もっと丁寧に話を聞いた方がいいか。いや、むしろ放っておくべきか。
どうすればうまくいくのか──。
その問いに迷い始めたとき、支援は“関係”ではなく、“操作” に近づいていきます。
対象化され、計画化され、評価のための関係。
変化を「生み出す」ことが求められるその枠の中で、人たい人と言う「関係性」は静かに失われていくのです。
私がずっと感じてきたのは、その構造の中でこぼれ落ちていく何かの存在でした。
それが「場」であり、そこでしか育たない「関係性」でした。
変化を起こすのではなく、変化が生まれる土壌。
評価や効率では測れない、生きた関係性の空気。
私が本当に力を感じたのは、そうした構造の外側にある時間でした。
何かを「する」でも「される」でもなく、ただ共にいることが許される時間。
評価も変化も急がない、ただの関係。
役割や立場はあっても、それは互いを補うためのものでしかなく、誰かの序列やラベルにはならない。
そういう環境の中で、子どもたちは不思議と少しずつ動き出すように見えました。
“場”とは、そうした関係の中で立ち上がってくるもの。
「何かをしてあげる場所」ではなく、「何かが起きてもいい場所」「何もしなくてもいい場所」。
子ども時代の公園で感じた「場」
私が「場」という言葉を考えていたとき、ふと、子どものころの公園を思い出しました。
私の家の前は大きな広場でした。
暇になると、私は窓から外を眺めていました。誰か来ないかな、と。
すると、ふらふらと近所の子が顔を出す。
私はすかさず外に出て声をかけ、遊びが始まる。
やがて次々に子どもが集まり、人数に合わせて遊びは自然と変わりました。
小さい子がいれば、自然とハンデをつけたり、ルールを変えたりした。
誰かが指示したわけでも、教育的に考えたわけでもありません。
ただ一緒に遊びたいから、遊びを続けたいから、自然にそうなったのです。
そこには「多様性」なんて言葉はなかったけれど、まさに多様性が生きていました。
誰かが誰かを支援するでもされるでもなく、同じ場にいる者同士が自分たちなりに折り合いをつけながら関わっていた。
だからこそ、あの場所には居心地の良さ、生きやすさがありました。
強制も管理もない。
ゆるやかな関係性だけが漂っていた。
くっついたり離れたりしながら、それぞれが自分のままでいられる。
あの空気が、私にとっての“場”の実感でした。
「してあげる」では動かない心
私はこれまで多くの子どもたちと関わってきましたが、
マニュアル的な声かけよりも、あの「共にいる時間」が子どもにとって大きかったのではと感じることがあります。
卒業後の子どもたちとの会話を思い出します。
「なんというか、話を最後まで普通に聞いてもらえたのがうれしかった」
「適度にほってくれた」
「やらされてる感がなかった」
「一緒に話したり、何かするのが楽しかった」
彼らが後から振り返って語るのは、整えた支援計画や働きかけではなく、
お菓子をつくったこと、たわいない話をしながら散歩したこと──そんな時間でした。
私はそのとき、「何かしてあげよう」と思っていたわけではありません。
ただ一緒にいて、ともに何かをしていただけです。
教室の休み時間のような時間を、ともに過ごしただけでした。
けれどあとになって「あの時間がよかった」と言われる。
そこに、“整った支援”では説明しきれない何かがあるのだと思います。
場は、生き物のようなもの
場は、最初から形を決めて用意できるものではありません。
ただ人が集まるだけでも場にならない。
人が集まり、ゆるく関わり、
その場にいる誰もが主役であり主役でない。
そのたびに形を変えながら、生き物のように立ち上がってくるもの。
支援や制度だけでは作れない関係。
けれど、人の回復や変化のきっかけは、いつもそんな曖昧な場から芽吹いていたように思います。
次回へのつながり
しかし、この「場」の感覚は、あまりにも曖昧で、生き物のようです。
誰かと共有しようとしたとき、言葉にしたとたんにこぼれ落ちてしまうようなものでもあります。
再現性も、一般化も難しい。
支援として「機能するか」と問われれば、正直、答えに詰まってしまいます。
それでも私は、あの「場」にこそ、人が動き出す本質があるように思えてなりません。
誰かに“してもらう”ことでも、“してあげる”ことでもなく、ただ人と人が同じ空気を分かち合うときに、ゆるやかな変化が芽生える──私は、その瞬間を何度も見てきました。
そして、こうした“構造を超えた場”を意識的に大切にしようとしてきた実践が、世界には確かに存在しています。
次回は、そんな“場”を支援の核心に据えた取り組み──トリエステ、オープンダイアローグ、そしてペタゴーなど──に目を向けながら、今回の話を少し拡張して考えてみたいと思います。
