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【第13回】学校現場の不登校支援は機能しているのか? ― 書類に埋もれる不登校支援

前回までは、学校が「場」となりにくい構造や、教師が「する/される」の関係に縛られる現実を見てきました。
前回記事 【第12回】学校での不登校支援──居場所をつくる難しさ

では、その学校の内部で具体的にどのような支援が行われているのでしょうか。制度や理念で語られる「理想の支援」と、現場の実際にはどれほどの隔たりがあるのか。今回も、私が現場で見てきたことや、同じ立場で働く支援員の方とのやり取りから「支援の枠の肥大化」に焦点を当てます。


支援担当の仕事はどこまで広がるのか

ここ十数年で、学校の中で「支援」という名のもとに担う仕事は急速に拡張してきました。発達特性を持つ生徒への対応、不登校生徒の支援、家庭背景に課題を抱える生徒のフォロー、安全確認や福祉との連携……。支援担当は、もはや「一部の特別な生徒を見る役割」ではなく、学校全体に広がる課題を担う立場になりつつあります。現場では、数十名単位で「支援対象」とされる生徒が存在し、その範囲は拡大し続けています。


会議に並ぶ数の衝撃

この現実を最も端的に表すのが「支援会議」です。私が見てきた学校では、週に一度、一コマ使って支援会議が開かれます。そこでは各学年が「支援対象と思われる生徒」を資料にまとめて提出し、情報を共有します。

その会議に毎回挙がる名前はおよそ七十人前後。年度が進むにつれ減ることはなく、二学期には百人を超す人数に達することもあります。わずか五十分の会議で百人の生徒の名前を確認する――これが現場の実態です。一人ひとりを深く検討する余地はなく、何か大きな出来事があればその経緯を確認して終わってしまいます。

私自身、初めてこの資料を目にしたときは衝撃を受けました。文科省の統計から不登校の数が多いことは予想していましたが、ここまで多岐にわたる支援対象が学校全体を覆い尽くしていることには驚かされました。


名簿に埋もれる支援の矛盾

学校で行われる支援会議は、本来は生徒一人ひとりへの支援を深めるための場です。ところが実際には、名簿が膨らみ続ける中で、多くの生徒が「ただ名前が載っているだけ」の存在になってしまう。支援の枠が広がったはずなのに、逆に埋もれていく生徒がいる――その矛盾を強く感じました。

提出される資料を見ても、その中身は先生によって大きな差があります。「特になし」「変化なし」といった短い文言が毎週のように並ぶこともあれば、細かな様子や心情を丁寧に記す先生もいる。そこには、担任の多忙さや制度的な要因だけでなく、学年や個々の教師の姿勢の違いも表れています。

記録は本来、子どもの姿を共有するためのものですが、忙しい日々の中でルーティン化した作業は、その本来の目的を見失いがちです。いつの間にか「会議に出すためのタスク」や「提出すること自体」が目的となり、形骸化してしまう場面が少なくありません。名簿に名前を挙げておけば「見落としはない」と見なされ、仮に後に問題が起きても「資料には挙がっていた」と説明できる。逆に挙げなかった場合のリスクを考えれば、とにかく名前を載せざるを得ない。結果として、名簿は膨らみ続ける一方で、深い議論や支援の具体にはつながらず、資料そのものが「予防線」としての性格を帯びていくのです。

この構造は皮肉な矛盾を生みます。支援の枠が広がっているように見えても、現場で実感するのは「支援や関わりの深まり」ではなく「単なる書類の増加」であり、先生にとっては「事務作業の増加」です。支援という言葉や枠組みが広がるほど、実際の中身は薄まり、一人ひとりの姿に目を向ける余地は小さくなっていくように見えました。

「支援対象が増える=より多くの生徒が支援を受けられる」わけではない。むしろ「支援対象が増える=支援が分散し、希薄になる」という皮肉な現実がそこにあります。この矛盾を前にすると、支援会議に並んだ百人近い名簿は、子どもを支えている証のようで、むしろ「支援という言葉」に子どもたちが埋もれていく光景のようにも見えました。

特に、不登校生徒たちはその象徴です。「エネルギーをためている」「見守る」といった言葉で語られることの多い彼らは、その言葉だけで緊急性がないと判断され、資料のなかで埋もれていきます。別教室の生徒も同様です。登校しているという事実だけで「安定している」とみなされ、議論の後回しにされがちです。

別教室は本来、支援の拠点であるはずです。ところが現場では、そこに「来られている」という事実そのものが、すでに支援ができている証のように扱われてしまう。結果として、支援の議論や新たな関わりから外され、むしろ支援から遠のく場にもなっているように思われました。


支援の範囲はどこまで広がるのか

支援の範囲は、不登校や発達特性にとどまりません。海外にルーツを持つ生徒への配慮も、近年大きな割合を占めています。

国際教室と呼ばれる別室では、日本語指導に加え、宗教や文化に関わる配慮が必要です。祈りの時間や食事制限、服装などへの理解。家庭によっては日本語や英語がほとんど通じず、面談のために数か月前からボランティア通訳を探すこともあります。こうした業務は、校内の国際支援担当が通常業務に加えて担わざるを得ないのが現実です。

さらに、ひと昔前なら生徒指導の領域とされた「非行傾向の生徒」についても、現在は支援担当が状況を必ず把握するようになっています。中心的に対応するのは生徒指導ですが、背景に家庭環境や心理的要因が絡むことも多く、会議には名前が挙がり、支援担当も並行して情報を確認しています。

また、日々の学校内でのトラブルについても、支援担当は必ず情報を確認します。中心的に対応するのは担任・学年・生徒指導ですが、その背後に発達課題が隠れていることも少なくないためです。さらに、アレルギーや起立性調節障害といった身体的な問題も養護教諭と情報共有しなければなりません。

加えて、支援担当は日常的な観察を通じて小さな異変を見逃さないよう努めています。たとえば、夏場に長袖を着ている子には虐待によるあざや自傷行為の跡を疑い、明らかに痩せてきた子にはネグレクトや摂食の問題を想定し、養護教諭と連携して定期的に身体測定を行うこともあります。

このように、行動面・心理面・身体面を横断的に把握する役割を担うことで、支援担当は結果的に学校内で最も多方面にアンテナを張る存在となっているのです。


不登校の幅と「生存確認」

「不登校」と一口に言っても、その中身は幅広い。別教室にほぼ毎日通える生徒もいれば、週に一度来られるかどうかの生徒もいる。年に一度も顔を見せない生徒も含まれます。それらがすべて「不登校支援」という同じ枠で扱われています。

さらに、学校には「生存確認」という重大な役割も課せられています。これは、長期にわたって学校に来られない生徒について、定期的に家庭を訪問し、子どもが安全に暮らしているか、虐待やネグレクトが隠れていないかを確認する仕組みです。電話やメールでは不十分で、実際に子どもの姿を確認することが義務づけられています。(ビデオ通話は可)

しかし現実には、当然ながら先生に会いたくない子がほとんどです。そのため、家庭に行っても2階の窓から顔を少し出してもらったり、玄関先で足や手だけを見せながら声をだしてもらったりすることもあります。なかには、保護者から外出する時間を聞き、その姿を物陰からそっと確認する対応さえ行われています。

こうした実態は、学校が単に「教育」だけをしているのではなく、福祉や保護に近い役割まで担っていることを示しています。

より重たい事案では、学校だけで抱え込むことはできません。児童相談所や家庭子ども相談室、青少年相談室など外部機関とのやり取りや定期報告をコーディネーターが担っています。これらの件数は地域差が大きいものの、私が見てきた学校では非常に多く、日常業務に重くのしかかります。


「数」と「幅」が示すもの

このように、支援の範囲は年々広がり、今では教育を超えて福祉や国際対応、生活指導の領域にまで及んでいます。けれどその拡大は、必ずしも子どもへの関わりの深まりを意味しません。むしろ「支援対象が増える=支援が薄まる」という皮肉な現実が見えてきます。

数と幅が増えれば増えるほど、一人ひとりに向ける時間は削られ、支援の名のもとに積み上がるのは、書類や会議の段取りばかりで、結果として、肝心な生徒と向き合う時間や関わりは減り、最終的に最も大きなしわ寄せを受けるのは子どもたち自身なのです。

こうした背景を見れば、理想と現実がいかに噛み合っていないかが分かります。多くの人は「もっと外部の専門家を入れるべきだ」と考えるでしょう。しかし実際には、外部の専門家を導入しても必ずしも上手く機能していない現場の事情があります。膨大な業務と制度的な枠組みの中で、不登校支援はどう位置づけられ、どう扱われているのか――次回は、その点を掘り下げていきたいと思います。

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