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【第12回】学校での不登校支援──居場所をつくる難しさ

※この記事はシリーズの続きです。関連する内容は
9回  不登校支援って言葉が嫌い
10回 不登校支援では心は動かない
11回 不登校に支援はいらない?
  をあわせてご覧ください。

前回までに書いてきたように、私が「場」と呼ぶのは、何かを“する/される”という構造を越えて、ただ人と人が同じ空気を分かち合える関係や空間のことです。評価も成果も急がず、変化は「起こす」ものではなく、「生まれる」ものとして待てる関係性。そんな場があるとき、人はゆっくりと回復し、自分のペースで動き出すきっかけを見つけられる──そういう瞬間を私は現場で何度も見てきました。

ここで言う「する」という言葉は、単に何かの行為をするという意味だけでなく、教師という役割や立場に無意識に自分をはめ込み、その型のまま相手と関わってしまう心理も含んでいます。
では、なぜ学校という場所は、その“場”になれないのでしょうか。以下は、私が現場で見てきたことや、同じ立場で働く支援員の方などとのやり取りを通じて感じた範囲での考察です。


学校文化と制度に染みつく「する/される」

学校という文化や制度の根底には、「する/される」の関係構造が深く染みついています。授業を行い、成果を評価し、生活態度を指導する──この流れ自体が、教師が“する”側、生徒が“される”側という構造を前提にしており、その視点や態度は、どうしても、不登校や別室対応にも表れがちです。

長くこの文化の中で働くうちに、教師は無意識に生徒を「指導対象」として見てしまう傾向があるように見えました。そこに制度としての「担任制度」が重なり、最終的な責任や負担が担任や学年に集中しやすくなっている。形式上は学校や管理職に責任がありますが、現場の感覚としては担任が最も強い重圧を背負う。担任は「自分のクラスは自分でどうにかしないと」「外から口を出されずにやりたい」という心理に傾きやすく見えました。実際「学年で対応しますので、先生は見守っていてください」といわれる場面は多かったです。

さらに近年は、外部からの批判や監視の目も強まり、学校内では「何か起きないように」という空気が徹底されています。こうした外的要因もまた、教師が個人的な考えで動くことよりも、役割に忠実であることのほうが安全だという心理をいっそう強め、行動の幅を狭め、生徒への対応も画一的になりがちです。

文化、制度、そして外的圧力──こうしたものが積み重なり、職員室全体には「まずは、自分の担当生徒が全体に迷惑かけたり、問題を起こさないようにする」という共通の感覚が染みついているように見えました。その結果、学級や学年を超えて全体で生徒を支える形が育ちにくいように見えました。


その典型が「別教室」です。本来なら学年を超えて先生たちが協力し合い、生徒にとって安心できる居場所を作るはずですが、現実にはそうなりません。多くの先生にとって別教室は「どういう場にしたいか」を考える対象ではなく、ただ「教室に居られない生徒を預ける場所」として扱われがちだからです。担任や学年は自分が受け持つ生徒をそこに置くことが中心で、そこでどう関わるかまでは考えが及びにくい。

結果として、生徒にとっても別教室は「居場所」ではなく、「ただ居させられている空間」になってしまう。先生にとっても「自分の学年・学級の生徒がいなければ関係のない場所」になりやすく、皆で一緒に“場”を作る空気は生まれにくい。こうした構造が、別教室を“場”として機能しにくいものにしているのではと感じました。


時間と安全を優先せざるを得ない現実

もう一つの現実は、学校が常に「時間」と「安全」を優先せざるを得ない場だということです。先生の中には、生徒の自主性、主体性を大事にしたい、もっと生徒に寄り添いたいと思っていても、現実には、多数の多感で難しい時期の子どもたちを安全にまとめ上げ、限られた時間で学校外活動・行事やカリキュラムを時間内に安全に終わらせなければならない。そこで必要とされるのは、どうしても効率と統率を優先した「指導」になりやすく、先生の中にはジレンマを抱えている人も多いです。

もちろん、すべての先生がそうしたジレンマを自覚しているわけではありません。中には制度や文化に疑問を持たず、正しい在り方として「指導」を優先し続ける先生もいます。その一方で、「生徒の声をもっと聞きたい」「一人ひとりに合わせて寄り添いたい」と願っていても、現実には「子ども一人ひとりに向き合うこと」よりも「進度や集団の秩序を守ること」などが優先され、思うように関われない──そんなもどかしさに追い込まれる先生も少なくありません。制度や風潮、そして近年強まる外からの圧力が重なり、その矛盾の中で揺れ動いているようです。


「教師をする」が生む圧

その結果、生徒にとっては先生と話しても何だかその先生個人の本心や考えが見えず、信頼や安心感をもちにくくなります。教師が「教師をする」ことに一生懸命になるほど、関係性は硬くなり、ぎこちなく、場は育たない。
そして、やり取りを聞いていると、対話にならず、端々に操作や理由探し、治療のような匂いが漂い、それがまた生徒にとっての居心地の悪さにつながっているように見えました。

実際、指導的態度の強い先生が別教室に入ると、生徒たちの会話や手の動きがピタッと止まり、場の空気が一気に張りつめることがあります。先生自身もその緊張を察してか、ほとんど声をかけずにしばらく歩き回って出ていく。出て行った後、生徒が「あの先生、圧が強くて苦手」と口にする場面を何度も見ました。

その先生も決して生徒への想いがないわけでなく、全体のバランスや運営を大事にし、生徒の安全をしっかり考えているがゆえの行動でもあります。ですが、不登校支援の現場では、しっかりと「教師をする」ことが、かえって生徒にとっては、圧として働き、先生と生徒の双方を苦しくさせているようでした。

結び

これは家庭にも似ています。親が子どもを守ろう、正しい方向に導こうとするあまり、常に「親をする」ことに力を注ぎ、結果として関係がこじれてしまうことがあります。学校での“する/される”の関係もそれに近い。良かれと思っての行動が、距離や緊張を生んでしまうのです。

これは単なる「教師批判」ではありません。先生たちが役割に忠実になってしまうのは、怠慢や無関心ではなく、制度や文化、安全への圧力のなかで責任を果たそうとしているからでもあります。しかし、その構造が結果として「場」を育てにくくし、生徒との関係性を硬直させてしまう。ここに、学校・先生が本来の力を発揮できない深い矛盾があるように見えました。

つまり、学校が抱える「する/される」の文化や、制度的に担任へ集約される責任の仕組み、安全と効率を優先せざるを得ない現実──それらが重なり合い、学校にはどこか緊張した空気が漂い、教師と生徒が自然に関わることを難しくしています。その結果、学校は子どもにとって安心する「場」になりにくい。先生が「熱心に」関わろうとすればするほど、空気は硬くなり、かえって距離が広がってしまう そんな矛盾を抱えているように見えました。

この矛盾を解きほぐしていくことが、不登校支援や別教室が本当に「場」として機能するための第一歩になる、と私は考えています。教師の多忙さや人員不足の解消はもちろん必要なのですが、この、先生たちがそういった行動に至る心理背景、「構造」に目を向けなければ学校は場にはならないと強く感じています。


次回は、不登校支援の現場の実際を取り上げます。
支援の人員は限られている一方で、支援対象の生徒は増え、研修や書類も増え続けています。会議ではどうしても優先度の高い案件に時間が取られ、他の子どもへの対応が後回しになることも少なくありません。文科省が描く理想的なプランと、日々の現場の動き。その間に横たわるギャップを見つめ直してみたいと思います。


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