【第11回】不登校に支援はいらない?──世界から見る「場」と関係性の力
前回までの記事では、「支援」という言葉に潜む“する/される”という構造の違和感、そしてその構造の外側にある関係性──私が“場”と呼んでいるもの──について書いてきました。
第9回では、支援という行為が、時に人と人との関係性を一方向に固定してしまうこと──「してあげる」「してもらう」という関係の中で、お互いが苦しくなってしまう構造を見つめ直しました。
第10回では、その構造の外側にある“場”──評価も変化も急がず、ただ共にいることが許される時間と空間──について、私自身の実感や子どもたちとの日常を通して言葉にしてみました。
今回は、こうした“場”を意識的に育もうとしてきた世界の実践──イタリアのトリエステ、フィンランドのオープンダイアローグ、そしてデンマークのペタゴー──に目を向けながら、私が現場で感じてきたことと重ね合わせて考えてみたいと思います。
精神医療を地域にひらいた──イタリア・トリエステの挑戦
イタリア北東部にある港町・トリエステ。
ここでは、1970年代に精神医療の歴史を大きく変える改革が行われました。中心となったのは精神科医フランコ・バザーリア。
彼は「精神病院は治療ではなく、収容と管理の装置になっている」と強く批判し、精神科病院を完全に廃止する法案──いわゆるバザーリア法──を成立させました。
トリエステでは病院の門が開かれ、患者と地域の人々が行き来できるようになりました。
治療の場は地域へと移され、カフェや共同作業所、小さな住まい、日常の中のさまざまな場所が、新しい関係性を生み出す“場”になっていきます。
そこでは、医療従事者は「治す人」としてではなく、「共に生きる人」として関わります。
診察よりも、食事をしたり、日常を共にしたりすることが重視される。
施設の中で完結していた医療が、まちの空気の中に解かれていったのです。
この改革は、単なる制度変更ではありませんでした。
強制入院や隔離を前提としない関係性が生まれ、患者の社会復帰率は大きく改善し、精神疾患への偏見も減少しました。
トリエステのまちは、「治療の場」ではなく、「生きる場」へと変わったのです。
答えを急がない支援──オープンダイアローグの対話
一方、フィンランド西ラップランド地方では、1980年代からオープンダイアローグという革新的なアプローチが始まりました。
当時、この地域は統合失調症の発症率が非常に高く、従来の薬物治療や入院では改善が見込めないという課題を抱えていました。
この実践の核は、「対話」です。
発症後24時間以内に初回面接が行われ、本人だけでなく家族や周囲の人々もその場に招かれます。
そこで大切にされるのは、「結論を出すこと」ではありません。
むしろ、結論を急がず、さまざまな声が場に響くことそのものが力になるという考え方です。
支援者も専門家も、意見や分析を一方的に述べることはしません。
ただ共に場にいる者として話を聴き、必要があれば応答する──
そのプロセスの中で、関係性がゆっくりと回復していくのです。
統計的にも、オープンダイアローグは再発率や長期入院率の低下、社会復帰率の向上といった成果を示しています。
けれど、そこにある力の本質は、数値で測れる成果ではなく、その場にいる一人ひとりが尊重され、安心して自分らしくいられる関係性そのものにあります。
教育でも治療でもない「共にある人」──ペタゴーの実践
もうひとつ、支援の構造を超えた実践として私が注目しているのが、デンマークの福祉・教育分野で活躍する専門職「ペタゴー」です。
ペタゴーは教師でもなく、医療者でもなく、「共に生活をする人」「共に育つ人」として現場に存在します。
彼らが重視するのは、遊びや生活の中で子どもや障がいのある人と関係を築くこと。
何かを“してあげる”のではなく、“共にある”こと自体を支援の中心に据えています。
働く場所も特別な施設ではありません。
学校の教室、保育園、グループホーム──
つまり、日常の延長線上にある“生活の場”そのものです。
ペタゴーたちは、そこにある「小さな関係性」を丁寧に紡ぎながら、誰かの変化や成長を焦らず見守ります。
そこでは、役割や立場ではなく、“一緒にいる人”として相手を見るまなざしが、ごく自然に息づいています。
そして支援は、特別な行為ではなく、共にいる時間そのものになっていきます。
私の実感と、世界の実践が交差するとき
私がこれらの実践に触れて強く感じたのは、「変化」は常に関係性の中で生まれるということです。
それも、誰かの意図や操作によって起こすのではなく、空気や関係性の中で自然に育っていく。
そうした変化は、評価も成果も求められない時間と空間──“場”の中でこそ、ゆっくりと芽生えていくものだと思います。
現場でも私は、こちらが何かを“してあげよう”としなくても、関係が安定し、安心が広がっていく中で、子どもたちが自分のペースで動き方を探り始める場面を何度も見てきました。
そこには、「これをやったから変わった」という明確なものはありませんでした。
ただ、そこには、自然に安心感や関係性が生まれていた──そんなふうに感じています。
支援という行為よりも、支援が成立する以前の関係性のほうが、ずっと重要なのではないか。
どんなに綿密な支援計画を立てたとしても、“する/される”という関係性のままでは、子どもが安心できず、動き出すきっかけをつかめないことも少なくありません。
支援において、どんな中身や技法を用いるかももちろん大切です。
けれど、それらが本来の力を発揮するためには、まず人と人とのあいだに、安心できる関係性が必要なのだと、私は感じています。
もちろん、支援や介入が先に必要なケースもあることは、私自身の現場経験からもよく理解しています。
虐待やネグレクトなどの家庭環境に起因する不登校、心身の強い不調を伴うケース、あるいは発達特性が強く現れている子どもたち──
そうした状況では、“場”だけでは難しいこともあるし、まず安全を確保したり、医療的・専門的なサポートが不可欠なこともあります。
けれど、それらの支援がいかに丁寧に行われたとしても、人との関係性が育たなければ、本人の変化や回復にはつながりにくい。
だから私は、どのような状況であっても、“場”の存在が持つ力を見落としてはならないと思っています。
関係性の中でゆっくりと自分を取り戻す時間と空間は、支援の土台であり、変化を育む土壌でもあるのです。
次回に向けて──なぜ学校は“場”になれないのか
これらの実践は、どれも「支援とは何か」を根本から問い直すものでした。
現実の学校現場では、“場”をつくるという発想そのものが、支援や教育の中で抜け落ちてしまっていることが多いように思います。
なぜ、学校は“場”になれないのか。
なぜ、先生たちは「共にいること」ではなく、「すること」「指導すること」にばかり追われてしまうのか。
次回は、学校という制度がどのように“場”を奪っていくのか──
その構造を、私自身の経験をもとに掘り下げていきたいと思います。
