見出し画像

息子が教えてくれた光-絶望の先に見えたもの

その時、私は自身の無力さに狼狽えていた。

一昨年、大学を卒業して実家に戻ってきた次男は、ゲーム制作や、創作のためになる勉強や読書を貪るように続けていた。
もともと彼は、幼い頃から、特別絵が得意だったということでもなかったが、その時もそれを自覚してのことであり、毎日欠かさず基本の練習を繰り返していた。

大学時代から、精神状態が良くなかった彼は、絵をSNSに上げたり、無料のゲームも制作して配信していたが、その作風は、自身の病みの実体験も含まれるものもあり、もしかしたらその創作も、精神的に病む原因の一つなのではないかと密かに案じていた。

ただ、精神的に苦悩している、若い世代の気持ちを代弁するかのような、根の深い絵や描写に、彼の世界観に惹かれる人たちが多く、海外のフォロワー含めかなりのファンが増えていった。

大学を卒業して、同級生はみんな社会で生きている。
その劣等感を全て創作にぶつけているようだった。
同時に病院へは3週間に1度通っていた。

母としての模索

息子とは、精神的な不調について話しだすと、決まって空気が悪くなってしまっていたが、読書や音楽の話については気が合う方だったので、創作の話を絡め、時には良い会話をすることもできた。

母親というものは、我が子に対して一喜一憂してしまい、皮肉なことではあるが、それがかえって悪化することになってしまう。
離れていたら悪い妄想で不安が募るが、そばにいたらいたで、表情や顔色にまで反応してしまうのだ。

精神的な病に特効薬はない、ゆっくりと見守るしかないのだろうか。
今は黙って見守るべきか、時には諭すべきか、不安と安堵が波のように押し寄せてくる。

大学時代心理学科だった彼は、やはり心理学や哲学、脳科学などの知識もあり、読書もそういった内容の小説や専門書を読み漁っていた。
太宰治、三島由紀夫、夏目漱石、人気作家中村文則なども愛読している時があった。

その頃の私は、息子が選ぶその本の著者たちに対しても、様々な考えが過ぎった。
もしかしたら息子も、この歴史上の作者たちのように、精神を病みながら、自ら人生を終えてしまう末路になってしまうのだろうか?

しかし、やはり彼の創作に、回復への糸口があるのではないかと強く思っていた私は、ある時提案してみた。
「先生に作品見てもらったら?」

息子の絵もゲームの世界観も、可愛いアニメ風なものと、目をそむけたくなるような猟奇的なものが融合されたような作風であった。
虚無感しかない人生観、焦燥感、心のざわつき、どうしようもないもがき、それらの感情に囚われている人の、共感を得るような創作。

もしかしたら、先生にとっても良い診察材料になるのではないか、さらに息子にとっても、専門的な観点から会話が進み、自信にもつながって行かないものだろうか。
私は勝手な妄想に浸っていた。

しかしそれは見当違いだった。
処方された薬は毎回変わったが、息子に合うものはなく、先生は、今後はカウンセリング中心と言っていたが、診察時間は次第に短くなっていった。

やはり甘かった。
息子の体調は見るからに良くない。
鬱症状、頻繁に起こるパニック症などから、ますます疲弊していった。

創作に希望の光を探す

それでも、私のあれこれ考えを巡らせて、今日の体調は少し良さそうだ、そのように一喜一憂しているのとは対照的に、彼は家の中にいても常にタブレットを抱えていた。

夜更け、静まり返った部屋から漏れる、タブレットの淡い光を見ていると、その創作の中から生まれるエネルギーは、希望の光を探す作業にも思えた。
それは、死に物狂いにも似た、彼の創作への意志を思い知らされることになった。


クラウドファンディング挑戦したが

ある時、珍しく柔和な表情を浮かべる彼が、会話をするような姿勢で居間の椅子に座っていた。

何やら、以前無料で配信したゲームの続きを製作するにあたり、運転資金として、海外のアーティストを支援するサイトで、100万の目標額でクラウドファンディングをスタートさせたとのこと。
その無料のゲームは、2000ダウンロードくらいされていて、YouTubeなどでも実況している人が何人もいたほどだった。

私は言い尽くせない喜びでいっぱいになった。
その行動力と、とりあえず息子の命に繋げるからだ。

結果は、その1ヶ月後、予想をはるかに超えた250万の額で成功させた。

私の喜びとは対照的に、息子は嬉しそうではあったが、やはり冷静だった。
その姿は、まだ見ぬ苦難の遠い未来を見つめているように感じられた。

息子の思いから気が付いたこと

その後は、特に変わりなく生活は続いていたが、やはり体調の話をすると空気が悪くなってしまう。
そんなある日、息子が「また一人暮らしをしたい」と言ってきた。
恐らくクラウドファンディングをしたのは、そのためでもあったのかもしれない。

しかし、そのことがきっかけで、軽く言い争いになり、不覚にも私は泣いてしまった。
また大学時代の時のように、心配で不安な毎日を過ごすのか、そんなに簡単に考えていたのかと思うと、やりきれない気持ちで、その後の食事の時間も、また涙が出てきてしまった。

それ以来、息子とはあまり話さなくなり、明らかに彼の症状も悪化することになってしまった。

このままではいけないと、家族会や勉強会などでノートに書き溜めていたものをまた読み返してみた。

するとあるところで目がとまった。

支えるうえで大切なことの一つに「距離感」ということ。
これはきっとどのような人間関係にも当てはまることではないだろうか?
結局は家族も他人ということだ。
関わる中で、それを頭の隅に置いて見守ることも本当の優しさなのかもしれない。

きっと私は(これだけ心配している、これだけ辛い)ということを、ただ必死に、その思いを伝えようとしていただけだったのかもしれない。

息子との間にかすかな温もりが戻り始めた時、一人暮らしの話になり、同じ県にある町の名前を出してきた。
私はすぐに賛成した。
その後家探しをして、一昨年の暮れに家を出ていった。

通院はやめてしまったそうだ。
理由を聞くと、お決まりの「意味がない気がする」だったが、次の言葉に、私も納得した。
「先生も忙しそうだし」ということだった。
恐らく息子は、通院にも少し傷ついていたのかもしれない。

家を出てから1年以上たつが、依頼も増え、ひたすら創作の作業に追われているようだ。
あいかわらず精神的に病むこともあり、心配になることも時々あるが、息子との、この距離ができたことには、大きな意味があったと思っている。

前しか見ていなかった私

そもそもなぜこのようになってしまったのか、なぜもっと早いうちに気が付くことができなかったのだろうか、結局私は前しか見ていなかったのだ。

私の造形家の夫は、幼少期の葛藤を抱え、今は少し落ち着いたが、長年事あるごとに荒れていた。

私は昔から、この夫の創作と人間性が生み出す魅力に圧倒されてきた。
その魅力を多くの人々と共有し、広めたいという思いが、私を動かす原動力になっていたのだ。

それが、夫の機嫌を取りながら、時には激しく罵倒しあうことも多かった。
確かに家族笑いあうことも多かったが、子供たちにとっての本当の意味での安全基地ではなかったのではないか。

息子の苦悩により、私は母親であるということを、本当の意味で自覚させられることになった。

思えば、息子の様子が変わったのは高校生の時からだった。

次男のクラスは生物生産科(農業)で当然推薦などで進学すると思っていたところ、いきなり文学部の方で一般入試をすると言いだした。

この頃何かと、人とのかかわりで苦悩していた彼が、何か目的を作ることで高校生活を乗り越えようとしているようにも見えた。

目指す大学は、通っている高校のレベルからは、相当努力しても難しかったが、家庭環境も良くない中、彼は10倍の倍率で合格させた。

入学後は、1年生はなんとか人並みに充実した大学生活を送っているように見えたが、特に症状が悪くなったのは大学2年くらいだった。

凄惨な時期から

ある時
「生きるの辛くて」
そうlineが入りすぐに電話した。

それ以来、少なくとも月1回は息子の所へ行くようにした。
離れて暮らしていたため、時々様子を見に行っていたが、創作が支えになっていた彼は、自律神経が悪化しても、エナジードリンクを何本も飲み作業をし続けた。精神が崩壊していくと自傷行為や、咳止めなどの市販薬を飲むという毎日を過ごしていた。
私はその自傷した血液や散らかった部屋の掃除に行っていたようなものだ。

その時期の私は、車中で一人になると涙があふれ、夜は天井を見上げ、悪い想像で眠れない日々を過ごしていた。
あの凄惨な日々を思えば、今は少しだけ日差しが刺しこんできたように感じている。

まだ時々、何かのきっかけで精神的に体調が悪い時はあるが、息子の生きる力を知れたこと、目に見えない何かを乗り越えたこと、そのことは信じたい。
そう思えるのも、今距離ができて、客観的に冷静になったことで思えることに違いない。

激しく精神を病んできた息子、孤独に創作を続け自分の世界を構築してきた息子、どちらも尊いと思う。

絶望から光へ

引越しをした日、食事をしながら彼が、静かにぽつりと私に言ったのを思い出す。その言葉を吐き出す機会を待っていたかのようだった。

「生きている意味が見つからないから、自分で目的作った」


ボサノヴァが流れる賑やかな店内が、不意に静止したように感じられた。
私と息子の席だけが世界から切り離されたようだった。

その言葉は確かに、私の胸の奥深くに沁み渡っていった。
しかしあの瞬間、私は何を言えばよかったのだろうか。
自分の無力さが彼の言葉の重みに押しつぶされそうだった。

その時のことを、私は後でしばらく後悔した。
当然のことながら、その言葉は、息子が振り絞って必死で語った一言なのだ。
それなのに私は、その時欲しい言葉をあげられる器の人間ではなかったということだ。

さらに、家族とは互いに支えあう存在なのか、それとも独立しながらも繋がりを保つものなのか、それはきっと、いつまでも自分に問いかけながら生きていくのかもしれない。

思えば私自身、これだけ自分の不甲斐なさ、弱さと向き合うことがあっただろうか?
これは私への戒めであるとともに、人として私自身も生まれ変わりたいのだ。
それに気が付かせてくれた息子に今心から感謝している。


そして

誰もが生きる目的を明確に持っているわけではない。
でも、息子には、自分自身でその目的を見つけ、作っていける力がある。
その力がある限り、どんな闇の中にも、光を見出せるのだと、私は信じている。




いいなと思ったら応援しよう!