ケアと尊重、セクハラの境界線はゆらぐ
介護保険制度は介護が社会化したために、セクハラが顕在化した。
しかし、痴呆から認知症への用語変更は、言葉のニュアンスを変えることで、病気として認知されるようになって、診断を受けることへのハードルを下げ(井口2020)、介護現場において、認知症状がある人のセクハラは、問題行動ではなく周辺症状なのである。
ケア従事者は、お尻を撫ぜられても、胸を掴まれても、スケベ爺と思うことをやめてしまった。
生活世界ではどうだろう。
会社のなかでは、みんなが「セクハラ」だと名指しされないように、まなざし方に注意し、暑気払いの会話は、性的な内容に踏み込まないように、つまんない話で終始する。
それなのに一人になれば、友だちがいないことに悩み、アプリで交わる相手を回遊し、好みのAV女優と付き合った気になって、おっさんはコッソリ、セクハラと訴えられない風俗で、密室であるがゆえに、自身をさらけ出せる。
ケアというものを身体化させるためには、共感を磨くための経験を積まなくてはならない。
相手に干渉しすぎる人は、自分自身の欲求を、相手の欲求に共感的に対応できない。
個人を尊重することは、個人の欲求・不安を尊重することで、個人を個別の特異な存在として尊重することを要求する(マイケル・スロート2007=2021)。
私には、幼稚園から一緒の友だちがいる。
スポーツ万能で勉強もできて目鼻立ちもすっきりしているので人気者で、試験の前になると私に勉強を教えてくれた。
その友だちが、二年前に高次機能障害となって施設に入っている。
半身の動きが悪く、言葉も少なくなったその人に、会ってできることは、尊重しようとすることだけ。
元気なとき、人生イヤになったら、雪山に酒だけもって籠ると言っていた。
いま、言葉はなくなり、雪山に独りで行けない友に、私ができることは、アロマセラピーしかなくて、それは共感にはまだ届いていない。

