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高校生AIネイティブ起業家が既成勢力を駆逐する?いや『天狗』を育ててどうするの?

最近、AIに関するニュースを見ていると、一つの物語が繰り返し語られている。

高校生がAIエージェントを使って起業

若手エンジニアが世界を変えるサービスを作った。

AIネイティブ世代が既成勢力を打ち破った。

そして経済界の偉い人たちや起業家コミュニティは、それを未来の希望として称賛する。

もちろん、若い人が挑戦すること自体は素晴らしい。

AIを学ぶことも悪いことではない。

データサイエンスを学ぶことも必要だろう。

しかし私は、その物語が社会全体を覆い尽くしていくことに強い違和感を覚える。

なぜなら、その先にある社会は、人間が生きやすい社会ではなく、むしろ生きづらい社会になるように思えるからだ。

データサイエンス教育そのものには反対しない

私の住む地方でも、地元大学データサイエンスを必修化した。

これは時代の流れとして理解できる。

統計を理解する。

AIを理解する。

データを読む。

こうした能力は現代社会における読み書きそろばんのようなものになりつつある。

だから教育機関が教えること自体は不自然ではない。

問題はその先である。

データサイエンスを学んだ若者が偉い。

AIエンジニアになった若者が偉い。

起業した若者が偉い。

資金調達した若者が偉い。

そういう価値観が社会全体に広がったとき、社会は確実に歪む。

能力主義が暴走すると何が起きるのか

AI時代の能力主義には特徴がある。

それは、

「技術的能力だけが過剰に評価される」

ことである。

例えば、

AIモデルを作れる。

コードを書ける。

AIエージェントを構築できる。

そうした能力は確かに価値がある。

しかし社会を支えているのは、それだけではない。

介護をする人。

地域活動を支える人。

子どもを育てる人。

顧客との信頼関係を築く人。

職場で後輩を育てる人。

地域の消防団を支える人。

こうした人たちがいなければ社会は成り立たない。

ところがAI時代の成功物語では、そうした人々はほとんど語られない。

スポットライトが当たるのは常に技術エリートである。

「成功した人=人格者」という危険な錯覚

私がさらに危惧しているのはここだ。

若くして成功した人は、

優秀な技術者である。

優秀な起業家である。

ということは言える。

しかし、

人格的にも優れている。

人生について深い洞察を持っている。

社会全体を見渡せる。

という保証はどこにもない。

ところが成功すると周囲は持ち上げる。

投資家が持ち上げる。

経営者が持ち上げる。

メディアが持ち上げる。

起業家コミュニティが持ち上げる。

すると本人の周囲には称賛する人しかいなくなる。

これは本人にとっても不幸である。

なぜなら失敗から学ぶ機会が減るからだ。

私が見たメタバース企業の末路

私は三年間海外のメタバースプラットフォームを利用していた。

しかしそのサービスは終了した。

私は以前から違和感を持っていた。

運営陣は技術的には神レベルだった。

しかし利用者を見ていないように感じた。

彼らは夢を語る。

技術を語る。

未来を語る。

しかし利用者が求めていたのは居場所だった。

人間関係だった。

コミュニティだった。

その感覚が欠けていたように見えた。

私はずっと、

「この会社は危ない」

と思っていた。

そして結局、サービスは終了した。

もちろん経営破綻の原因は単純ではない。

しかし私はそこに、

技術力と人間理解は別物だ

という現実を見た。

AIネイティブ英雄譚の危険性

今のAIブームでは、

高校生起業家

10代AI開発者

若手スタートアップ創業者

英雄として描かれる。

しかし私はその物語に強い違和感を覚える。

なぜなら人生は起業コンテストではないからだ。

20歳で成功することと、

60歳で豊かな人生を送ることは別問題である。

会社を作る能力と、

人を育てる能力は別である。

AIを使いこなす能力と、

弱者の痛みを理解する能力も別である。

ところが社会は前者ばかり評価する。

弱者の痛みを知らないエリートが社会を設計するとどうなるか

私が最も恐れているのはここである。

社会を設計する人たちが、

挫折を知らない。

失業を知らない。

病気を知らない。

貧困を知らない。

排除を知らない。

そういう人ばかりになることだ。

もちろん苦労したAI技術者もいる。

だから個人を批判したいわけではない。

問題は構造である。

成功した人ばかりが発言力を持つ。

成功した人ばかりが表彰される。

成功した人ばかりが政策に影響を与える。

すると社会は、

「できない人が悪い」

方向へ傾いていく。

能力主義の暴走である。

私はAIそのものを恐れているのではない

誤解してほしくない。

私はAIそのものを否定しているわけではない。

AIは道具である。

データサイエンスも道具である。

問題は、

誰が使うのか。

何のために使うのか。

である。

AIを学ぶことは大事だ。

だが、

倫理を学ぶことも大事だ。

歴史を学ぶことも大事だ。

哲学を学ぶことも大事だ。

地域社会を学ぶことも大事だ。

人間の苦しみを知ることも大事だ。

その両方が必要なのである。

本当に必要なのはAI時代の文武両道ではないか

江戸時代の武士剣術だけ学んでいたわけではない。

学問も学んだ。

礼法も学んだ。

人格修養も重視した。

だから文武両道という考え方があった。

AI時代にも同じことが必要なのではないか。

AIを使える。

データを分析できる。

起業できる。

それは素晴らしい。

しかし同時に、

人を思いやれる。

弱者の声を聞ける。

共同体を大切にできる。

成功しても驕らない。

そうした人格的成熟も求められる。

結び――私が恐れているのはAIではなく価値観の暴走である

私が恐れているのはAIではない。

AIを神格化する価値観である。

技術者だけが偉い。

起業家だけが偉い。

若くして成功した人だけが偉い。

そういう社会である。

社会には様々な役割が必要だ。

技術者も必要。

起業家も必要。

農家も必要。

介護職も必要。

地域活動を支える人も必要。

そして人生に傷を負った人の経験もまた社会の財産である。

AI時代だからこそ、

「何ができる人間か」

だけではなく、

「どんな人間か」

を問う社会であってほしい。

私はそう願っている。


上の文章を生成するにあたって、
近藤が入力したプロンプト=人間としての生の声。


AIエリートが言うみたいに、高校生AIエージェント駆使したAIネイティブ起業をして、「既成勢力」を駆逐して、大成功したとする。

AIエリート、起業家コミュニティ、イノベーションを起こせと叫ぶ経済界の偉い人たちはそのスーパーマンAIネイティブ高校生絶賛する。
本人の周りにはそういう人たちしかいなくなる。そして、
周りの偉い人たちからチヤホヤされて本人が天狗になる。

それ、人間として身につけるべき資質が偏っているし、本人の人生の後半のどこかでひずみが来ると思う。

それ、本人の教育上よくないし、そういう社会は歪んでいると思う。


私が3年間使ってきた海外のメタバースのプラットフォームサービスを終了する。

私はプラットフォーム本社の人達を見て、
この人たちは自分の技術者としての夢ばかり追いかけてユーザーを軽視しているずっと不満だった。

あの人たちって、ITエンジニアとしては神レベルだけど、精神年齢お子様だなと思った。

そして、やっぱり私が思ったとおり潰れた。


だから、若手AIエンジニアをもてはやす風潮、若手起業家をもてはやす風潮、若手AIネイティブ起業家をもてはやす風潮危惧している。


私が住んでいる地方地元大学が、データサイエンスを必須科目にした。
そのこと自体はまあ、時代の変化に対応したんだろうと思う。

しかし、

データサイエンスができる若者が偉い、
AIエンジニアができる若者が偉い、
先端テクノロジーを駆使して起業した若者が偉い、


という社会は歪んだ社会だし、ますます生きづらい社会になると思う。

弱者の痛みを経験したことのない人ばかりがもてはやされて、私から見ると暴走するのが怖い。

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