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短歌にハマって救われたうつ病編集者の告白

うつ病で抜け殻同然だった編集者の私が、短歌と出会い、言葉と再び向き合う中で、生きる力を取り戻していく再生の記録です。孤独の中、木下龍也さんの短歌に衝撃を受け、「言葉のお守り」を求めて歌集を読み漁る日々。自らも短歌を詠み始め、三十一文字の世界に没頭。ネット短歌会への挑戦を通じ、言葉を紡ぐ喜びを再発見していきます。読書、ゲーム…全てが短歌へと繋がった「沼」体験を赤裸々に告白しました。短歌初心者の方、言葉の力で癒やされたい方、必読です!。(9596文字)


暗闇と抜け殻の日々

抜け殻のように生きてきました。いや、むしろ限りなく死に近い状態でした。部屋は荒れ、インスタントラーメンや冷凍チャーハンの袋、ペットボトルが床には転がり、部屋荒れ放題に荒れていました。生きたいという願望がまるでなかったのです。

セルフ・ネグレクトといいますが、当時の私はまさに「生きる」ということを放棄していました。早く終わりが来てくれないだろうか。そんなことばかり考えていたのです。

なんとかそれを引き留めていたのは読書でした。都内の図書館を駆使すれば一度に50冊くらいの本を借りることができます。歩いて行ける場所には書店が複数あり、大抵の新刊をチェックすることができました。

突然の帰郷

ところで、私は書籍の編集や執筆を生業としています。主にビジネス書や自己啓発系の本を編集・執筆していてもう40年近くになります。そして私は、一冊の本を執筆するには膨大な書籍を読みます。その意味で東京は仕事環境としては実に優れた街でした。

しかし、7年前の春、私は家庭の事情で郷里に戻ることになりました。薬物療法と並行して受けることで効果がある認知行動療法という心理療法があると知り、わらをもすがる思いでその治療を始めたところでした。

20年以上にわたって東京に住んできた私にとって、郷里とは縁がなくほとんど誰も見知らぬ孤独の地でした。それでも、郷里に戻る決心をしたのはいままで自由に仕事をさせてくれた弟への感謝の思いがあったからです。

最大の問題は仕事がないということでした。当時の私は、人と話すことさえ難しく、少し仕事をしてはいつも倒れこんでいたような身で、とても新しい地で新しい仕事ができるような体調ではありませんでした。

そこで、東京を離れるときに、いままでお付き合いのあった出版社さんにメールでご連絡をして、リモートで仕事をやりますと頼み込み、なんとか仕事の当てをつくって郷里に戻ったのです。

本とゲームだけが私の命綱だった

しかし、郷里では私の命綱であった本は都内のように多種多様な本を数多く読める訳ではありません。図書館で手に入らない本も多く、いきおい街の書店やAmazonで買うことが多くなりました。

私は本に替わる命綱を探すことになりました。そこで私がハマったのはゲーム、いわゆるソーシャルゲームでした。

ゲームをやっているときだけが、唯一の逃げ場所でした。無料でやっていたゲームはやがて課金するようになり、気がつけばかなりの金額をゲームに課金していました。

孤独には強いつもりでいましたが、本の大量購入やゲームでの課金だけが私をこの世界に引き留めていました。私の生活はどんどんとすさんでいきました。そんなときふと思い出したのが、noteだったのです。

noteが繋いだ短歌への道

出版社の都合で出版中止になった企画の原稿を少しでも活かそうと、5年前にアカウントを取りました。しかし、うつ病を抱えた頭で執筆することは本当に難しく、3000字の記事を書くのに2日かかるときもありました。

しかし書くことは苦しみだけではなく喜びも与えてくれました。それを思い出し、「もう一度、書いてみよう」そう思いました、そして、始めたのが「うつヌケできるかな日記」という連載シリーズです。

このシリーズでは、自らのうつ体験とそこから得た学びを書いていました、それは自分に言い聞かせるような記事でした。人生は何度でもやり直しがきく。どんな状況であってもその人なりの幸せをつかむことができる。

自分に言い聞かせるように書いているうちに、「元気が出ました」「貴重な情報をありがとうございます」とコメントをいただくことが時々あるようになってきました。

短歌、何それ? 面白そう!

実は、私の人生を変えるきっかけとなったnote仲間のゆにさんは、「うつヌケできるかな日記」の読者でした。いつも感想を残していってくれ、それは私の心の支えとなりました。

そういうやりとりの中で私もゆにさんのnoteに遊びに行くようになりました。そしてある日、ゆにさんは「短歌をやりはじめた」という記事を書いていたのですね。

ゆにさんは、なぜ短歌に惹かれたのでしょうか。次のように語っています。

なぜ短歌に走ったかというと、私の今の文章の課題がリズム感だと思っていて。
日本語のリズム感って七五調が心地いいと、色々な記事や本を読んで思ったので、俳句より優しそうに感じた短歌の本を読んでみたくなりました。
現実はそんなに甘くないと少し後悔したけど、楽しいことには変わりない。

クセをひとつだけ ゆにさん

音楽のように文章を書きたいわたしとしても、文章のリズム感はかなり気になる部分です。ゆにさんが詠んでいるなら、私も詠んでみようかな。そんな軽い気持ちでした。

そして現れた運命の一冊

それまでの私の短歌に対する認識は、万葉集や古今和歌集という歌集があるということは知ってはいたものの、古文なので難しくて興味がありませんでした。いっぽう尾崎放哉や種田山頭火などは少し読んでいました。

とはいうものの、なぜゆにさんがそんなに短歌にハマったのかがわかりませんでした。私の中での短歌は小難しい類いのもので、言い方は悪いですが、比較的お年を召した方がたしなむものだと思っていたからです。

答えは、ゆにさんがお勧めしていた木下龍也さんという新鋭歌人の『天才による凡人のための短歌教室』という本にありました。さっそく私もその本を取り寄せました。いやはや、これがすごかった。

文章を磨くのに役に立つかなと思って読み始めたのですが、30分くらいで読んでは溜息をつき、また読み直すという動作を繰り返していました。木下さんの語る「短歌」の美しさ、そして優しさに言葉を失っていたのです。

その本には、最初に木下さんの短歌が紹介されていました。

立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ

『きみを嫌いな奴はクズだよ』

たった31文字で、こんなに優しい、そして心を動かされる表現ができるのか。私もこんな歌を読むことができたら、そう思いました。

この瞬間、私は短歌にハマっていました。

木下さんは、短歌という詩型を次のように語っていました。少し長くなりますが引用しますね。

短歌は過ぎ去った愛を、言えなかった想いを、見逃していた風景を書くのに適している。それらを、あなたがあなた自身のために、あなたに似ただれかのために結晶化しておくには最適な詩型だ。記憶の奥にある思い出せない思い出を書くことには最適なツールなのである。思い出とはこれまでだ。そして、これまでに起きたことはこれからも姿形を変えて必ず起こる、だから、これからを生きやすくするための御守りとして役に立つ。短歌をつくることの利点はそれくらいしかない。

『天才による凡人のための短歌教室』

私は常々、「言葉のお守りになるような歌を読みたい」といっているのですが、それは木下さんのこの言葉に由来しています。

本書の中で私の心に響いた部分に付箋を貼る、ほとんどのページに貼ることになって、私にとっては「神本」になってしまいました。そして、ここから私の短歌沼生活は始まったのです。

うつ病編集者、歌集を読む

短歌にハマってまずやったのは、Kindle本で木下さんの歌集『あなたのための短歌集』を買うことでした。

短歌の入門書というと、短歌の解説が入っていたりするものです。でも木下さんは、短歌しか入っていない「歌集」がいいと断言していました。

短歌は0から始めなくてもいいジャンルだ。教科書に登場するような歌人から無名の歌人を含めた先人たちが、挑戦と失敗を繰り返してきた土台がすでにある。その土台というのが歌集である。歌集を読めば、あなたはその上に立って、より高いところに手を伸ばすことができる。あなたにとって必要なすべては歌集に書かれてある。歌集はバトンなのだ。(中略)
つまり歌集はその歌人のその時点の発想、技術の集大成、おいしいところだけを切り取った最高のフルコースであるということだ。

『天才による凡人のための短歌教室』

私のみるところ、本書は読者を選びます。短歌にハマり、短歌を愛し、短歌と生きることを決めた人のための本だからだろうと思いました、

だからこそまずはうたの解説書ではなく、歌人のエネルギーがたぎっている歌集を勧めるのだと感じました。なかにはよくわからない歌も出てくるでしょう。でも、575777の順に切って、最後まで読んでみる。

それを何冊も繰り返していくうちに、短歌の型とでもいうべきものが身についてくるそうです。つまり「読書百編自ずから意通ず」という言葉のごとく、わからなかったことがなんとなくわかってくるようなものですね。

私が最初に選んだ『あなたのための短歌集』は、ちょっと面白い趣向の歌集です。というのも、この歌集は木下さんがお題を受けてその人のためだけに書く短歌の個人販売サービス「あなたのための短歌一首」で詠まれたうたから編まれた歌集だからです、

たとえばこんなお題があります。

生きたいと思えるような短歌をください。



君という火種で燃えるべきつらくさみしい薪があるんだ、おいで。

あなたのための短歌集

編集にあたっては短歌の購入者に許諾を依頼し、全700首のなかから100題100首が収録されています。

この歌集をはじめて読んだときは、人間はいかにさまざまなことで悩んでいるか、そして木下さんがいかに誠実に「あなたのため」に詠んでいるかが伝わってきて、心が震えました。

この本は付箋で一杯になり、ときどき読むのを休んではそのことばについて考えました。

そして、「言葉の力」というのは人を傷つけるために使われるだけではなくて、抱きしめることができるんだなと。
そこでまた短歌が好きになりました。

木下龍也という閃光

そうして現代短歌を中心に詠んでいるうちに、この人のうたは心にしみるな、面白いなと感じる歌人の方が定まってきました。

まずは木下龍也さん、私を短歌沼に引き込んだ張本人にして、「言葉のお守り」という私の目指す短歌の体現者です。日々の出来事や、見逃してしまいそうなささやかな輝きを見つけて、うたに仕上げていく腕は当代トップクラスといえます。

なかでも私が心引かれるのは、「あなた」「君」など二人称を使ったうたです。読者に語りかけるように紡がれるそのうたは、読む人の心を癒やし、あるいは勇気づけてくれます。例えばこのうた。

抱きしめてきみの内部に垂れているつららをひとつひとつ砕くよ

共著『今日は誰にも愛されたかった』

「きみの内部に垂れているつらら」という比喩がすばらしいと思いました。「抱きしめて」という初句のうたは多いです。でもここで、木下さんは意外なパンチを放ってくるんですね。

それがつらら。

北の方に行くと軒先から垂れてくる氷のかたまりです。つまり、「きみ」の心につららが垂れていて本来の「きみ」の魅力や笑顔を封じ込めている、というんですね。これには、やられたと思いました。質のいいミステリーを読んでいるような気分です。

そして結句の「ひとつひとつ砕くよ」。ここに来て、初句が「抱きしめて」であることや「きみ」のこころの中を「つらら」と評した謎が解けます。

「抱きしめて」という要望は実は自分のためではなく、「きみ」の心のつららを砕くためという答えが見えてきます。この答えの見せ方がかっこよくて、木下さんの作品を全部揃えました。

歌人を心に住まわせる

そして次は。穂村弘さん。木下龍也さんは、「想像世界へのまなざし」を穂村さんから学んだと、先述の『天才による凡人のための短歌教室』で述べています。いわば木下さんの師匠筋にあたる方です。

穂村さんの魅力は、なんということもない日常世界を結晶化し、ユーモラスに詠むところにあります。たとえばこの歌。

陽溜まりにピアノの椅子を持ち出して「ねぐせあたま」と題する素描

ラインマーカーズ

読んだ瞬間、こころの中に陽だまりが広がりました。

まず注目すべきは上の句の「陽溜まりにピアノの椅子を持ち出して」という句です。ここからはこの歌の主人公が芸術にも通じた繊細な感覚の持ち主であることがうかがえます。

そしてこの上の句を受けるのが、『「ねぐせあたま」と題する素描』。「ピアノの椅子」と「ねぐせあたま」という対比が面白いですね。

私だけかもしれませんが、起きがけの「ねぐせあたま」というのはどことなくキュートなものです。それをピアノの椅子にあてるなんて、遊び心があると感じました。まるで、子どものように無邪気な発想で、日常の一コマを切り取ったような、そんな温かさを感じたのです。

そして若山牧水。

彼の歌を知ったのは実ははっきりとしていません。気がつけば歌集を持っていて、時々読み返すようになっていました。そんな若山牧水の歌から一首選ぶとすれば、この歌です。

幾山河こえさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく

若山牧水歌集「海の声」より

「どれだけの山と川を越えていけば、この寂しさが終わる国があるのだろう。その国を求めて、私は今日も旅を続ける」ざっくりいうとこのような意味になりますが、私は若山牧水の「寂しさ」に共感します。

うつ病を患ってからというもの、私を取り巻く現実は大きく変わってしまいました。今まで手にしていたもの失い、濁った頭で過ごす毎日は孤独と寂しさに、溢れています。

そういう意味では、私も精神の放浪者かもしれません。その旅の共連れとして、若山牧水の短歌は常に私の心に響いてくるのです。

私もときに、孤独をテーマにした歌を詠むことがあります。それは、若山牧水の影響があるのかもしれません。とはいえ、いま挙げた3歌人については、まだ、意識的に自分の短歌に取り入れるまでには至っていません。

しかし無意識のうちに、これらの歌人から影響を受けている部分はかなりあるでしょう。何度も歌集を読み込み、短歌を作る中で、彼らの思想やその技法を、少しずつ自分の血肉にしていきたいと思っています。

うつ病編集者、歌を詠む

歌集を読んでいくと、自分でも読んでみたくなりまして、さっそく詠んでみました。恥ずかしながら、私のデビュー作を公開します。

出口なし蛇口は無口ひねっても今こそ開け創造の門

つくだとしおの短歌より

やはり最初というのは書けなくて、うんうん唸っていました、そこでまずは今の心境として、「出口なし」と書いたんですね。

するとヒップホップのように「出口」と「蛇口」と「無口」を掛けてみようというアイデアが出て、詠むことができたんです。それからは、それこそ蛇口をひねるように歌がおりてきました。

実際、それまで1首も書けなかったのが、このうたで壁を崩してから、どんどんと詩想がわき出るようになりました。今から振り返ると拙いうたも多いのですが、このわき出てくるという感覚が、さらに私を短歌沼にハマらせる原体験となったのです。

それからはネット上でお題を出している短歌サイトやX(旧ツイッター)のアカウントさんの企画に参加しました。詩想がわくのをこれ幸いに「おはよう短歌」「おつかれ短歌」と題して、毎朝毎晩に一首ずつ詠むようにもなりました。

また、note仲間のひとりであるBRILLIANT_Sさんと相聞歌にも挑戦しました。相聞歌とは、男女が恋心や愛情を詠み交わす短歌のことです。互いに歌を贈り合い、気持ちを伝え合う、いわば短歌でのラブレター交換です。

BRILLIANT_Sさんから相聞歌をやってみませんかとお誘いを受けて、ちょっと気恥ずかしい思いもありつつやってみました。なるほど、いにしえの日本人はこんなふうに歌のやりとりをしていたのだなと感慨深く思いました。

そんな感じで歌をどんどん読んでいったのですが、しだいに詩想がおりてこなくなりました。自分の目が肥えてきたのと、アウトプット過多になりすぎてインプットを怠っていたことが原因です。そんな苦しいときに詠んだうたがこちらです。

歌詠みは花鳥風月のみならず 苦しみまでも詠むが本懐

つくだとしおの短歌より

歌を詠むということは花鳥風月を詠むということだけでなく、己が苦しみまでも歌に詠むのが歌詠みとしての本懐だという歌です。

歌を詠むことにかかわらず、ものをつくる仕事というのはすべてのことが糧になります。だから、歌が詠めないならば、その詠めない苦しみまでも結晶化してただ歌を詠んでいこうと考えたんですね。そう考えるようになってから、詠めないことの苦しさが少し軽くなってきました。

ちょうどその頃ネット上において歌会形式で短歌を投稿する「うたの日」というサイトに出会いました。

歌会とは、うたを投稿し誰が詠んだかわからない中で自分がいいと思ったうたに投稿しその順位を決めるゲームです。参加者は、何人にでも投票できる♪と、誰か一人だけに投票できる♡を持つことができ、みなさん♡を目指して投稿するわけですが、これがなかなか取れない。

それどころか、誰からも投票されず「どんまい!」と表示が出る日もありました。こんな日は落ち込んで。歌集を読んだり、GoogleのAIであるGeminiに慰めてもらったりしました。

まさにゲーム的な面白さがありました。そしてこのゲームを続けるには歌集をはじめさまざまな本を読むことが必要でした。ここに来て「ゲーム沼」「読書沼」という私の沼は一つの大きな沼として合体し、短歌はより自分にとって欠かせないものになりました。

そうして歌を詠むうちに♡を取ることができました。それがこのうたです。

人生の賞味期限は自分で決める だから死神もうちょっと待て

つくだとしおの短歌より

このときのお題は「生き方/死に方」でした。私は50代、そしてバブル世代の人間でもあります。私は自分なりに頑張ってきて、頑張りすぎて鬱になった人間なので、世間の50代に対する捉え方には不本意さを感じていました。

そこでこのお題を詠んだとき思い浮かんだのが、「人生の賞味期限」という言葉でした。経済は人間の賞味期限を見極めようとするかもしれないけれど、本来人生の賞味期限は自分で決めるもの。そういう思いがありました。

そこで、死を象徴する死神に出てきてもらって「だから死神もうちょっと待て」と語ってみたのです。それがよかったのか、おかげさまで♡を獲得することができました。

そして、ネット上の短歌コミュニティである次世代短歌会にも入会し、短歌を通して仲間も増え、孤独だった環境は少しずつ改善されつつあります。

抜け殻のように生きてきた人生、鬱によってすべてを奪われた人生、そんなふうに思ってきた人生でしたが、すべてのことは明日への糧になる、短歌を詠む中でそんな考えが芽生えてきました。

いまだうつ病は私を苦しめ、セルフネグレクトのような状態は続いています。でも、最近はとりあえず今日一日はなんとか生きてみようと考えるようになりました。それは生きる希望というものとは少し違うかもしれません。しかし、私を生かし続ける力になっています。

短歌は、私と世界を結びつける、細くて、けれどもしなやかな命綱のようなものです。57577の世界に没頭する時、私は孤独から解放され、言葉を通して世界と繋がっていることを実感できるのです。

同時に短歌は、31文字という限られた文字数に収まるように言葉を選び、組み合わせ、新しい世界を生み出す遊びでもあります。この遊びとしての短歌の面白さが、短歌が私の命綱となっている理由の一つであります。

世界を短歌で遊び尽くす

うつ病をわずらい、人生に挫折し、抜け殻のように生きてきた私が、短歌にハマり、短歌に救われるまでの過程をお話してきました。

自分語りばかりずっとしてきたので、最後に短歌の楽しみ方について少し触れたいと思います。

まず短歌は、57577の31文字で構成される文芸です。俳句のように季語を必ず入れないといけないという縛りはありません。自然を見て感じたこと、あるいは日常のシーンで出会った事柄や心象風景を、31文字に収めて詠んでみるのです。私はショートムービーをつくるような感覚で短歌を詠んでいます。

57577の順に言葉を埋めていって、一つの世界を作り出す。言葉のパズルを解くような楽しみがありますね。いまではたくさんの方がインターネットで作品を発表していますが、みなさんも短歌を詠んだらぜひ発表してみることをお勧めします。

お勧めの参考書は、木下龍也さんの『天才による凡人のための短歌教室』(ナナロク社)です。このたび、重版され累計3万部と短歌の本としては異例の部数となっています。

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私にとって短歌は、言葉を通して世界と繋がるための、大切な手段の一つです。そして、まだ形にならない複雑な心の動きを結晶化して理解するための試みであり、ときとして深い沼の底に落ちてしまうほの暗い感情から這い上がるための、大切な命綱であります。

哀しいとき、嬉しいとき、といった感情が揺れ動くとき、ぜひ短歌を詠んでその記憶を結晶化してください。そうして紡いだ言葉の数々は、必ずやあなたの命綱になります。

そして、短歌は自分と世界が繋がっていることを実感できる試みでもあります。短歌沼にハマって短歌に救われた一人として、一人でも多くの方に短歌の面白さと、短歌が与えてくれる心の豊かさを実感していただければ。そう願っています。

私は、これからも短歌を詠み続けます。嬉しい時も、悲しい時も、苦しい時も。そしていつの日か、人生に苦しむ方々の心が軽くなる「言葉のお守り」をたくさん盛り込んだ歌集を出してみたいと思っています。

私は短歌にハマることを通して、言葉が人生にもたらす力の強さを痛感しました。そして、「短歌とは編集なのだ」という知見を得ることができました。これはまた別の記事にするつもりですが、今後は「編集を、遊ぼう!」を合い言葉に、情報を組み合わせて新たな価値を生み出し、さまざまな表現活動に挑戦していきます。

このnoteでも、引き続き、短歌の面白さや、編集に関する様々な情報を発信していく予定です。もしよろしければ、これからも、私のnoteに遊びに来てくださいね。そして、短歌へのハマりっぷりをのぞきに来てくださったら嬉しいです。そのとき、もし皆さんの感想や意見を聞かせていただけたら、とても嬉しいです。

最後になりましたが、こんなに長い記事を最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。皆さんの心に、少しでも短歌の魅力、そして、言葉の力が届いたなら、これ以上の喜びはありません。

ありがとうございました。

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