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【clum! '96 #48】決死の質問とこたえ

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1996年、8月下旬。夏休みも残すところあとわずかとなった日のこと。

佐賀の強い西日が、城内の並木道をオレンジ色に染め上げていく夕暮れどき。佐野さの立夏りっか早坂はやさか一頼かずよりは、2人きりで静かなデートの時間を過ごしていた。

手を繋いで歩く2人の影が、アスファルトの上に長く伸びている。

6月のあのハプニングの時、一頼の「男の身体」に本能的な恐怖を覚えて震えてしまった立夏だったが、7月の個別練習や、その後の中体連、夏合宿を経て、2人の距離感は驚くほど優しく、そして確かなものに上書きされていた。

一頼はいつも通り、立夏の心の歩幅を測るように、半歩引いた位置から丁寧に彼女を気遣っている。

「立夏、今日もたくさん歩いたね。喉は渇いてない?」

「ううん、大丈夫。一頼と一緒に歩いていると、不思議と疲れを忘れちゃうの」

立夏が隣からふわりと微笑みかけると、一頼の心臓は小気味よい音を立てて跳ね上がった。


県立図書館の前の、広場のベンチに腰掛け、冷たい缶ジュースを飲みながら、ふと会話が途切れた瞬間。

一頼は、ずっと胸の奥で温めていた、けれど怖くてどうしても訊けなかった「ある問い」を、意を決したように口にした。

握りしめた缶が、彼の緊張でわずかに軋む。

「……あの、立夏」

「ん? なに、一頼」

一頼は、彼女を刺激しないよう、いつも以上に慎重に言葉を選びながら、真っ直ぐに立夏の瞳を見つめた。

「その……、キス、とかは……立夏の、『嫌なこと』に……入りますか?」

6月に迅から聞かされた、立夏の消えない深い傷の記憶。男に逃げ場のない場所で詰め寄られることが、彼女にとってどれほど恐ろしいことか。

一頼はそれを知っているからこそ、彼女の尊厳を1ミリでも傷つけるような真似は、絶対に、死んでもしたくなかったのだ。

もし拒絶されたら、そのときは自分の中の男としての衝動をすべて永遠に封印する——それほどの覚悟を秘めた、震える質問だった。


一頼の張り詰めた緊張を前に、立夏は一瞬だけ驚いたように丸い瞳を瞬かせた。

立夏は少しだけ小首を傾げ、本当に不思議そうに、そして無垢な笑顔のまま答えた。



「……考えたことなかった。……一頼、あたしと、したいの?」

「っ……、……ッ!!!!」

一頼の脳内で、何かが限界を迎えて派手に消し飛ぶ音がした。

丁寧な敬語も、完璧にコントロールしていたはずのパーソナルスペースの計算も、その純度100%のストレートな言葉の前には一切が通用しなかった。

一頼の顔面は、一瞬にして夕焼けの赤さを軽々と追い抜くほど真っ赤に染まり、持っていた缶ジュースが手元で激しく小刻みに震え始める。

「あ、いや……! その、僕、決して不純な動機や自分勝手な欲求で言ったわけではなくてですね……っ! 先輩が、どこまでなら僕の『男』としての部分を許容してくれるのかを、論理的というか、その、誠実に確認したくて……っ!」

完全にパニックに陥って、お盆に兄さん達から冷やかされていた時以上にタジタジになっている一頼を見て、立夏は「ふふっ」と、声を立てて可笑しそうに笑った。

「あはは! 一頼、本当に面白い。……冗談だよ。そんなに慌てないで」

立夏は笑いを収めると、そっと自分から手を伸ばし、一頼の震える大きな掌の上に、自分の小さな手を重ねた。

「あのね、一頼……」

立夏は少しだけ視線を落とし、恥ずかしそうに、けれど真っ直ぐな言葉を紡ぎ始めます。

「あたしね、嫌なことをされた記憶はあるけれど……その、『キス』はされたことないと思うの。だから……大丈夫かもしれない」

「……え」

一頼が息を呑む間も与えず、立夏は顔を上げると、いたずらっぽく、けれどどこか切なさを孕んだ瞳で一頼をじっと見つめた。

「……じゃあ、あたしから一頼にしてもいい?」

「っ、え、あ、し、先輩……っ!?」

一頼の頭脳が完全にキャパシティを越えてパニックを起こすより早く、立夏はベンチの上でのそりと身を乗り出した。

ふわりと鼻腔をくすぐる、夏の終わりの汗とシャンプーが混ざったような、立夏の甘い匂い。

一頼が反射的に目を丸くした瞬間、彼の視界のすべてが立夏の綺麗な瞳で埋め尽くされた。

——ちゅっ。

一頼の左の頬の、耳に近いあたりに、柔らかくて、ほんの少しだけ湿った温かい感触が、吸い付くように触れて、すぐに離れた。

本当に、触れるか触れないかのような、砂糖菓子みたいに繊細で、優しいキス。

「……ふふ。一頼、本当に真っ赤。……これで、私の『初めて』は一頼だよ」

立夏はベンチに座り直すと、顔を真っ赤に染めながらも、どこか誇らしげに、そして少女らしくいたずらに笑った。

過去の呪縛に怯えるだけの被害者ではなく、自分の意志で、目の前の大切な男の子を愛そうと決めた、彼女なりの最大の勇気の証だった。

一方、一頼はといえば。

「……………………」

完全に、魂がどこか遠くへ消し飛んだように呆然と立ち尽くしていた。

丁寧な言葉遣いも、男としての理性の防衛線も、すべてがその「頬への一撃」によって完全に粉砕されていた。

触れられた左頬に片手をあてたまま、一頼は目を見開き、呼吸をすることすら忘れたように硬直している。

(……先輩から、された……? 僕に……? キス、を……?)

脳内でその事実が処理されるたびに、顔面から火が出そうなほどの熱が全身を駆け巡る。文字通り人生最大のパニックだった。

「……一頼? もしかして、驚かせすぎちゃった?」

立夏が少し不安そうに覗き込んでくる。

「あ、う……あ、あの……っ、立夏先輩……いや、立夏っ!!」

ようやく再起動した一頼は、壊れたロボットのようにギチギチと音を立てて立ち上がると、深々とお辞儀をした。

「ぼ、僕……ッ! 一生、この左頬は洗いません……!! いや、洗いますけど、その、大切にします……っ!!」

「あはは! 何それ、おかしい!」

夕暮れの佐賀の公園に、立夏の弾けるような高い笑い声が響き渡る。

一歩ずつ、丁寧に距離を縮めてきた二人の関係は、少女の小さくて偉大な一歩によって、誰よりも甘く、そして誰も破ることのできない無敵の絆へと、優しく上書きされていった。


【今回のおまけ】

野瀬「あーーー……毎回キスの話続いてない?」

稲城「羨ましい限りだ」

野瀬「はいっ、今回もデートの服装設定です。……けっ!」

稲城「どちらのカップルも仲睦まじくていいことじゃないか」

野瀬「俺は!そこまで人間できてないので!あーー!彼女ほっし!」


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