見出し画像

読んで書く2025年・11月【ヤコブセン】


リルケ先生いちおしのヤコブセンを読みます。
リルケ先生いわく《私のすべての蔵書のうちで無くてはならぬものは、ごくわずかしかありません。そして二冊だけが、どこへいこうと、いつも私の持ち物のなかにあるのです。それはいまも私の座右にありますが、一つは聖書で、一つは偉大なデンマークの詩人イエンス・ペーター・ヤコブセンの書物です》と。
「ニイルス・リイネ」14章あるうちの3章まで読んだ。トルストイ『幼年時代』を参照基準に。ヤコブセンの描く幼少期の描写は抜群である。リルケ先生が感服する理由がわかった。植物や着物や装飾品の細かい説明半端ない。植物学者の一面を持つヤコブセン。宮沢賢治さんに近い。特に色の表現似てる。
「ニイルス・リイネ」4章はニイルス少年が無神論者になった理由について。5章は少年時の親友との思い出が。トルストイ『幼年時代』と多くの部分で比較できる。10代で大切な人を失った経験。同性に恋焦がれた時期の嫉妬やイジメ。大人の振舞いに一喜一憂するナイーブさ。
「ニイルス・リイネ」6章でニイルスたちは学生になり都会へ出て親友の彫刻家と再会。芸術家の卵たちとの交流。歳上の女性への憧れ。まるでリルケの青春時代を追っているかのような展開。こういうところにもリルケが感情移入した理由がありそうだ。
「ニイルス・リイネ」7章の冒頭部分は散文詩としても読める。春の夕暮れの描写がまるで宮沢賢治の「春と修羅」のようで。そのあとニイルスは恋に落ちる。その落ち方は実に見事です。3章の死が伏線になっている。
「ニイルス・リイネ」8章は父の死と母の最後の日々に寄り添うニイルス。老いについて深く考えさせられる。ここでもヤコブセンの自然描写は際立っている。豊富な植物についての知識が成せる技である。
「ニイルス・リイネ」9章は恋人と最接近の直後の奈落。ひとりぼっちのクリスマスイブ。友人と偶然レストランで会って神学的な議論。無神論を説くニイルス。
「ニイルス・リイネ」10章はニイルスが親友エリクと親戚の領事の邸宅に滞在しのんびりと優雅に過ごす場面。エリクは領事の娘と恋に落ちる。エリクは彫刻家を目指してイタリアで学んでいたが画家となって成功していた。そしてマンドリンを抱えて唄も歌う。海辺で歌う恋する青年。
「ニイルス・リイネ」11章は長い。親友エリクに呼ばれ彼の家に出入りする。創作意欲を失った芸術家の悩み。死と時間についての対話。エリクの妻フェニモアへの同情が愛に変わる。夏目漱石『それから』を想起させる三角関係へ。
「ニイルス・リイネ」の長い11章で語られる悲劇はとても無神論者には起こり得ないようなもの。無神論を説くニイルスにとっては最大級のアイロニーである。三角関係を経験した者は必ず参照すべきだと感じた。
「ニイルス・リイネ」12章は短い。歌姫との出会いと別れを経て帰郷を思いつくニイルス。
「ニイルス・リイネ」13章ではニイルスが家庭をもちそしてさらなる悲劇。無神論を持ち続けることのいかに困難であるかが描かれる。死を前にして人間にできることとは?
「ニイルス・リイネ」14章を読み静かに味わう。リルケ先生が感嘆し座右の書とした理由がわかった。宮沢賢治童話の愛読者や堀辰雄が好きな人ならば読んで損はありません。
短編「モーンス」を読んだ感想。モーンスはニイルス・リイネの原型であった。恋人との悲惨な死別からひとたびは堕落し再びある女性との出会いによって蘇生する。その底にはニヒリズムが流れている。
山室静訳『ヤコブセン全集』(青娥書房)参照。
 
 

松家仁之『函』から。
読売新聞夕刊に連載中の松家仁之さんの小説『函』第222回から引用します。
《ことばは文字よりも先に、音として始まった。音には高低があり、抑揚があり、リズムがある。はなしことばは、それらすべてが融合したものだ。ことばが容易に音楽にのるのは、ことばと音楽がさほど遠くない関係にあるからだろう》
音声中心の言語。
《たとえば象形文字は、人間が観察したもの、思い描いたものから生まれる。つまり絵画と同じように視覚的な由来をもつ》
視覚から生まれた文字。
《象形文字に意味が発生する。意味とはすなわち、ことばに置き換えられるものである。視覚的であり、絵画的でもある象形文字は、漢字へと生成し、ことばとして自立してゆく》
その代表は漢字。
《音楽と絵画と言語は、それぞれに由来を共有する部分があり、いわば遠い親戚……いやきわめて近い親戚なのではないか》
この知見におお! 詩を書いているとああこれは絵だなとか音楽だなとか映像だなとか思ったりするのはわたくしに目があり耳があり口があるからで五感の全てをことばに代理させようと企むからなのだろう。だから何かを伝達する道具としては絵でもいいし(詩)音楽でもいいし(詩)詩でもいいのだね(音)。結局おなじなんだね(音)。詩が絵であり音楽であるように絵は詩であり音楽である。そして音楽は絵であり詩でもある。今まで区別して考えてきたことの方がおかしいのである。同じものなんだ。同じものだと思ってみれば謎じゃないんだね(音)。
 
 

【はじまりはアダムアトムとアートマン】
アダム:ヘブライ語(聖書)人類の始祖・人間
アトム:ギリシャ語(科学)原子・不可分のもの
アートマン:サンスクリット語(哲学)我・真我・存在の根本原理
 
三つのAを連結して宗教と科学と哲学の統合を象徴させる試み。
今後の思索の方針。
聖書を熟読する。人間はどこから来たのか?
物質の起源を求める。哲学を参照しながら。実在とは?
自我についての思索。文学を通して。ゲーテやトルストイを中心に。わたくしという現象。
 
朝の僕は。民衆のひとりとなって。彼らと共に通勤する。そしてゲーテに倣い。人の神性を今日も信じる。

アダム
 
午後の僕は。街の一部となって。光の中に彷徨する。そしてホイットマンに倣い。原子の戯れを今日も愛する。

アトム
 
夜の僕は。静かな風の詩人となって。沈思の森を散歩する。そしてタゴールに倣い。すべての生命達のふるさとへ今日も合一するのだ。

アートマン
 
(2001年5月2日に書いた詩を読み直したらすでにアダムアトムアートマンを志向していたことに気がついた)
 

いいなと思ったら応援しよう!