読んで書く2023年・6月【小説乱読】
6月の課題は現代日本の小説の乱読ひたすら読むごちゃ混ぜに読む内容が分からなくても目は活字を追い続ける普段小説は読まないから片っ端から家にある小説を読むチャットGPTへの対抗心だけが動機である。
皮切りに『同時代ゲーム』大江健三郎さんを偲ぶ気持ちもあるけど同時代でなくなった今同時代ゲームを読むことの意味を探りたい気分になぜかスラスラ読める例えば『百年の孤独』を想起したその翻訳は1972年5月に出ているから1979年11月の同時代ゲームと空気が似ている。
同時代ゲームは「妹よ」と語りかけるから宮沢賢治あるいは車寅次郎を連想するというのはわたくしの悪い癖でもそういうふうにしか人は本が読めないのではないか過去の記憶と経験からそれを上塗りする様に新しい情報を加えていくしか方法がない記憶喪失になるのでなければ全く新しいものとして読む事は不可。
6月1日やけにいい天気だ台風近いから? トーストに板チョコをのせさらにその上にバナナの輪切りの定番の朝食を熱い珈琲と一緒にそしてまた本を開く散文詩のような文章がとても心地よい大江健三郎さんの話はだらだら長ったらしいのでどこで切ってもよいから助かる内容はわからなくても構わないのです。
娘と二人生姜焼きを作って食べた昼食後に同時代ゲームのページをめくると話者の僕が学生時代に鉄パイプ爆弾の製作に励んでいるとある本年4月和歌山で首相めがけ鉄パイプ爆弾を投げた男がいたという事実はわたくしにとっての同時代事件その犯人がもし同時代ゲームを読んだ事があったとしたらとふと思う。
口髭をはやしたコロンビア出身の画家カルロス・ラマという人物と酒を飲む僕のシーンは大江健三郎とガブリエル・ガルシア=マルケスとの出会いの場面が元になっているのだろうか想像しながら愉快になる書いている本人もそれを思い出しながら愉しんでいる感じメキシコでのこの邂逅もまた奇跡の一つだよね。
ローカルの奥にグローバルがある同時代という言葉とゲームという言葉がそれを担っていることは言語ゲームというヴィトゲンシュタインの概念があるからかあるいはイーハトヴという宮沢賢治の影響もあるかもしれない歴史に対比された同じ時代という限定について考えてみる。
きのうは所属する川柳の会に20句作って投句したきょうはびしょ濡れで仕事を終えて眠気と闘いながら本をひらく「メキシコから、時のはじまりにむかって」と題された第一の手紙を読み通してしまおう茹でた小豆をコッペパンに挟んで熱い珈琲で朝食。
『同時代ゲーム』の第一の手紙の中には太平洋間ロケット弾の軌道計算をするために村にやって来たと目されているペリ爺とアポ爺という二人組が出てくるきのうの新聞には北朝鮮が偵察衛星(弾道ミサイル)の発射に失敗したという報道これ偶然か。
『同時代ゲーム』の第一の手紙の中には猟銃で巡査を撃ち殺す三十女が出てくる先日長野県で青木容疑者31歳によって警官が二人猟銃で殺害されたこれも偶然だろうか少なくとも今この小説を読んでいるわたくしには同時代の出来事が次々リンクしてくる怖さがあるから第二の手紙は後回しにする。
気分転換キャベツとワカメとベーコンと卵をサッポロ一番しょうゆ味の麺と一緒に茹でてランチ森見登美彦『恋文の技術』を読みながらこちらも手紙まことにバカバカしい手紙だからいい外は雨しとしと。
差出人が守田一郎なのでわたくしはすぐ『注文の多い料理店』の「どんぐりと山猫」を想起して作者は「森見」+「かねた一郎」で守田一郎にしたに違いないわたくしの娘は京都にいたことがあって今度は能登へ行きたいと云っているのでこれも偶然なのだろう記憶と経験が読書に反映されるいつもの現象。
手紙読んでいるとデジャブこの話確か前に? この作品初めてなのに人生でたくさんの手紙を書いてきたしもらっているからなのか虚構であることも忘れて守田一郎の文面が懐かしい何か共通の思い出があるのだろうか森見登美彦氏は同時代ゲームが発表された1979年生まれ『恋文の技術』は2009年出版だとさ。
第四話で守田一郎は森見登美彦宛の手紙を書いている作家が創り出した架空の人物が作者に向けて手紙を書く事ができるという構造の不思議この小説は守田一郎の語りだけで様々なキャラクターが描き出されるので森見登美彦という実在の作家も架空の人物の一人になる読者にとっては同じ次元に存在する。
きのうは朝から友人に会うため京王線に乗ったあえて各駅停車を選んで車中で『恋文の技術』を読みながら守田一郎の独り言を聞くことにだんだん慣れてきたがストーリーを展開させるため手紙であることのリアリティーが薄れていくのを感じたああこれは小説なんだと冷めてしまうと読む気が削がれる。
そう思っている頃合いに第八話の「我が心やさしき妹へ」があって守田一郎の兄としての変に威厳を保とうとする文面にまた笑いが込み上げてきたりしてやはり書簡体でないとこれは書けないと思わせる全国の妹を持つ読者ならば共感「用心しろ。森見さんは悪人である」が実にいい。
6月4日の日曜日は朝から晴れて午前中は会議オンラインで長女は地元の神社へお祭りに次女は英検を受けに出かけわたくしは午後ゆったりとまた小説世界へ旅に出る原田マハ『本日は、お日柄もよく』を手にとりました。
『本日は、お日柄もよく』文庫25頁で早くも泣かされてしまったフィクションで涙が出ることと実話で泣くこととの境界線はどこにあるのか感情が揺さぶられた段階でその区別は消失するのかも知れない作り物だとわかって読んでいる筈なのになんでその場にいるかのように架空のスピーチで泣けるのか???
もちろん経験がわたくしの裏にもあって友人の披露宴の司会やスピーチそして余興などあるいはじぶんの結婚式の事なども想起するからそういう場面が自然と涙を誘うということもあるだろうが久遠久美の紡ぎ出す言葉にはなぜか魂が感じられるから恐いのですその仕組みが謎。
気になるのは会話文はたして現実の人間たちはこんなふうにしゃべっているだろうかどこかドラマの中のセリフのように聞こえるもちろんドラマはこのような小説を手本としてセルフを付けているのだろうがそしてそのドラマに影響されて日常にその話し方を取り入れる現実の人間もいるだろうがという懐疑。
芝居がかっていないと小説として成り立たないのかも知れない筋に無関係な余計な話は省かれている登場する人物たちはドラマを成立させるために犠牲を払わなくてはならない脇役が主役以上の主張を始めたら読者が混乱するでもスピーチの文だけが非常にリアルに感じるそういう効果があるのだろうか?
例えばチャップリンの映画「独裁者」でヒンケルに間違われた床屋が演説するシーン見ている者はみな胸に迫るものを感じて涙が出てくるフィクションの中のスピーチには何か不思議な力が宿っていると感じるのはわたくしだけだろうか。
原田マハ『本日は、お日柄もよく』は2010年8月に徳間書店から刊行されている民主党中心の連立で政権交代があったのは2009年8月ちょうどその頃の日本を取り巻く状況を考え合わせながらこのフィクションを読むとより面白いそれにしても随所でよく泣ける小説だった言葉の力すげえな。
手紙スピーチと来て次は朗読ことばを運ぶ形式には様々ある小川洋子『人質の朗読会』2011年2月中央公論新社から出ている。
ここまで2009年の『恋文の技術』2010年の『本日は、お日柄もよく』2011年の『人質の朗読会』を連続して読んでみて思うことそれは言葉に淀みがないこと商品としての品質に問題がないように作られているということである『同時代ゲーム』を除いて。
意味不明な言葉や言い回しが現代の小説にはほとんどないということつまり読者に伝わる様に書かれているという当たり前のことなのであるがこれが詩集となるとまるで違ってくることに改めて気がついたわたくしが読んできた詩集の中の言葉はとても伝わる様には書かれていないものが多いのであるから。
その点大江健三郎さんの小説の言葉は限りなく詩集の言葉に近いあえて伝わりにくい形式を選んでいるのではないかとさえ思える標準的な国語表現からわざと離れた場所へと読者を誘導しようとする意図があるように感じる変な日本語の効果と是非について考えてみたくなった。
標準的国語表現が確立することのメリットはたくさんある読み書きを習得すれば誰でも同じ意味でその言葉を解釈し受ける印象も大きくズレることがないので伝達者の意図が平等に伝わる翻訳もしやすい言葉はもともと共有を前提とした公的なものだから自然と標準化するようにできているとも云える。
小川洋子『人質の朗読会』はこの標準化問題を考える上で象徴的な作品である朗読の模様はラジオで8夜にわたって放送されたことになっている一夜ごと異なる人物が体験を話している日本語でしかしその話ぶりにはほとんど癖がないそのまま翻訳できそうな上手な日本語でできている余計な反復や言い間違いはない。
職業年齢性別はばらばらだがみな文章が上手この設定でなければ一編一編が珠玉の短編として深く心に残る話ばかりである追加された9夜だけは日本語のわからない外国の兵士のコメントが翻訳されたものとなっているが8夜の延長でやはり巧みな話ぶりで締め括られている卒業文集のような変は日本語はない。
話の内容が伝わるという点では癖がない方が良いし読者も癖を期待している訳ではないから全ては翻訳された日本語あるいは翻訳可能な日本語であればとても便利であるきっと日本人もどこかの時点で標準化に到達しそれ以降はそこから外れたおかしな日本語では書かないし読まないようになったのかも知れぬ。
標準化問題はまた後で考えるとして6月6日火曜日くもりは中村文則『王国』を手に取りましたこちらは2011年10月河出書房新社から東日本大震災の前の『人質の朗読会』と後の『王国』と12年前に思いをめぐらせながら。
きのうは女性の独り言を聞き続けたのできょうは男性の独り言に耳を傾けようと思う中村文則『掏摸』は2009年10月河出書房新社から本日6月7日水曜日雨上がりの晴れ。
二日間つづけてかなり長い身の上話を聴いた女も男も犯罪に手を染めていたそして命の危険に身を晒していた闇の組織と関わってしまったこのような話を公にしてしまって大丈夫なのだろうか二人はきっと同じ世界ですれ違っていたのだろう彼らがまた別の物語の中で活躍していることを願う『王国』『掏摸』。
中村文則氏の小説を読んだのは今回が初めてである『王国』から読んでよかったと思った『掏摸』に出てくる木崎のイメージが先に出来上がっていたから木崎は古代ギリシャやキリスト教などの話題を小説の中に導入してくれる得体が知れないからブルカニロ博士のような役割も果たしていると個人的に思った。
6月8日晴れ午前中新宿でS野くんと合流お茶しながら大江健三郎の小説について散文と韻文の境界について自身を取り巻く近況について2時間ばかり語り合いました。S野くんは『個人的な体験』をわたくしは『同時代ゲーム』をそれぞれ読み進めている読書体験が実人生とリンクしていることのダイナミズム。
きょうは『教団X』を読みます長編だけど一気に闇の中心に向かって恐れなく帰還したら再び『同時代ゲーム』へその話もS野くんに話した。
『教団X』の中に出てくる松尾正太郎というおっさんの仏教についての講義がとてもよくまとまっていてしかも面白いので聞き入ってしまった自称アマチュア思索家というのは世間にたくさんいるなあと思ったので集めたら楽しいイベントになるかも脱線して仏教の本をパラパラと。
松尾正太郎の話はまるで『銀河鉄道の夜』の「一 午後の授業」のようにずっと聴いていられる高校時代仲間たちと夜更けに意識とは何か宇宙は無限かそういう類の話を延々してた頃のことを思い出す人間は宗教と科学が混ざった話がほんとに好きなんだと思う。
小雨降る日曜日午前からマクドナルドそしてバーガーキングとはしごしながら『教団X』第一部を読み終えて涙ぽろり中村文則氏の人物造形が上手いので松尾正太郎というじいさんのことが好きになった映画『スターウォーズ』のオビ=ワン・ケノービくらいわたくしの中で好感度が高い人物となった。
松尾正太郎の講義それだけ抜き出してもたいへん面白いヒューマニエンスというテレビ番組を見ているかのような興味深い話だったので関連してそうな新書を出してみた第二部へ行くまえに脱線して読むことにする。
『教団X』の松尾正太郎の話の中で《これまでに数兆人の人間が死んでいきました》という記述があったこれは少し多すぎると思った現在80億人だが過去になればなるほど世界の人口は少なくなるわけだから累計でも1兆にはとてもならないだろうたぶん人類の死者の合計。
月曜日雨自動車を修理に出し『教団X』の第二部を読み終える憶えきれないほど登場人物のそれぞれの身の上話を聞いたそれと並行して松尾正太郎の認識を共有した世界の成り立ちとあるべき社会の姿と人間がとるべき行動と科学と宗教の知見を土台にしながら物語は進行したラストはやはりポロリと涙。
島薗進『宗教を物語でほどく』(NHK出版新書)の中の宮沢賢治評を引用しておく。
島薗進いわく《宮沢賢治は自分の作品の読み手が大人か子どもかということに特別こだわってはいなかった。それよりも現実離れしたことを書くことができる童話、つまりファンタジーという形式の持つ力に魅せられていた。先にも述べた通り、そこにはアンデルセンの影響があったようだ》66頁。
島薗進いわく《宮沢賢治は熱心な仏教徒で、『法華経』を尊んでいた。そのため遺された物語のなかには、あからさまに仏やお経が出てくることがある。しかし一方で、はっきり宗教と関わりの深い事柄は出てこないのに、なんとなく宗教的な匂いがする物語も多い》66頁〜67頁。
島薗進いわく《悲しい気持ちが深まった末に、悲劇的な出来事が起こる。それは尊い存在の死であり、犠牲の死だ。それを通じて人びとと生き物が清められる。そこから、新しいいのちの歩みが始まる──そういった物語を、数多く遺している》67頁。
ここ5日ほど小説が読める状態ではなかった下半身に痺れ痛みがあり座っても寝ても重い食事がとれなくなりスポーツドリンクのみで三日間太腿とお尻に帯状疱疹が出て先ほど病院で処方してもらい薬を飲んだお尻を丸出しにして診察される姿が悲しいそれで『同時代ゲーム』の第二の手紙を読み始めたところ。
「妹よ」と語りかけながら綴られる「僕」の書く手紙の内容がいくら荒唐無稽でもなんら気に障ることなく読み進めることができる不思議な状態にわたくしが置かれているということをうまく説明できないが帯状疱疹がそれと無関係であるとは云えないだろうとは思うので「壊す人」を内的に捉える自分がいる。
『同時代ゲーム』第二の手紙の中に「イチイの木」が出てきたのが嬉しい《あれはイチイの木だった。赤い肉質のスカートにつつまれて、茶褐色の種子がある》163頁とイチイは漢字で「櫟」であるが入沢康夫さんの詩句にも登場する『ランゲルハンス氏の島』の14に。
入沢康夫さんの詩句は《そして即決裁判により銃殺が宣告され、銃手たちがその櫟の前に一列にならんで銃をかまえた時、果然櫟の木はまっすぐ空へ飛び上って闇に没してしまった》という強烈なものであるわたくしとイチイの木はこの詩句で固く結びついていたのだが大江健三郎さんは耳栓とその実を繋いだ。
入沢康夫さんは大江健三郎さんにとって東大仏文の三年先輩にあたるから影響関係は濃いだろうと思う少し調べてみるのもいい大江文体と擬物語詩の関係についての研究もきっとどこかにあるだろうから古書めぐりの時の楽しみの一つに加えよう『ランゲルハンス氏の島』は1962年に私家版で200部出ている。
《全身に火傷を負い膏薬を塗りつめて真黒なミイラのように横たわっていた壊す人》120頁や《ヤマイヌに性器を咬まれた出来事の記憶》《睾丸に永らく痛みを感じた》123頁などの『同時代ゲーム』の言葉とお尻から腿の付け根そして睾丸のふくろの一部に帯状疱疹ができ火傷のような痛みで軟膏を塗る現在のわたくし。
幼少期の水疱瘡が50年近く潜伏していて今それが蘇ったというこのわたくしの症状と『同時代ゲーム』の登場人物(あるいは登場生命体?)の一人である「壊す人」との類似性を感じながら小説に没入していくことができることは幸運なのかもしれない否必然なのだ犬ほどの大きさに広がろうとしている疱疹め!
すこし古いが1965年7月号「現代詩手帖」で行われた田村隆一と大江健三郎の対談からいくつか拾ってみようテキストは田村隆一『詩と批評B』(思潮社)である。
大江健三郎いわく《特に僕はエリオットが好きでしたが、そのエリオットの詩を読むことが少なくなってからはオーデンに興味を持ち続けています》217頁。
大江健三郎いわく《日本の詩人からまなばなければいけないと思っているんですが、しかし日本の詩・詩人のばあいは、英語世界にくらべればやはり詩と散文とのあいだに断絶があったのじゃないかと》217頁。
大江健三郎いわく《まったく詩として独立しているけれども、しかも散文に非常に深い暗示を与えてくれる詩人、それが何とかして必要なわけですね。戦後、具体的にどういう詩人がそうだったかと言えば、僕はやはりそれは〈荒地〉の詩人たちだと思う》218頁。
大江健三郎いわく《僕は、さいしょ中原中也とか富永太郎から非常に影響を受けたのですが、それは同時に、小林秀雄の非常なファンだったということがある》219頁。
大江健三郎いわく《僕は若い詩人の本が出ますと、たいてい買って読みますが、数年前の渡辺武信氏とか天沢退二郎氏とかの出現は素晴しかった》224頁。
大江健三郎いわく《散文家として詩に近い、いい線までいっている作家は、たとえば僕は長谷川四郎氏だと思うのです。堀田善衛氏もそうだ》226頁。
田村隆一いわく《私のね、その良し悪しの定義の仕方はこれは簡単なんですよ。それは、ユーモアの感覚があるかないか、なんです。ユーモアのセンスのある作家だったら、これは散文家としてもまず一流じゃないかと思う》227頁。
大江健三郎いわく《新聞だって散文で書いてあるし雑誌にでも散文が書いてある、探偵小説だって散文で書いてある、だから何でも散文だと思っている人が多いけれど、しかし本当の散文というものは非常に少ないと思う》228頁。
田村隆一いわく《パロディの感覚というものが日本人にはかなり少ないでしょう、散文家でも詩人でも。オーデンでもエリオットでも、パロディの才能というのはズバ抜けていますね。エリオットなんかほとんど全部がパロディから成り立っていると言ってもいい》229頁。
大江健三郎いわく《たとえば僕が鳥を飼おうと思って、鳥屋に行きます。すると僕はたちまち田村さんのあの「トラツグミ」なんかの出てくる詩(「言葉のない世界」)にひたされている気分になる。また上野駅へ行くと、あの「天使」を待っている詩(「天使」)を濃密に思い出す……》234頁。
大江健三郎いわく《またたとえば僕は、ウイスキーを飲むたびにあの「ウイスキーを水でわるように/言葉を意味でわるわけにはいかない」という言葉を思い出す。要するにそういうことを僕に可能ならしめる、そういう詩が僕には必要で、現代詩というものを僕はそういうふうに鑑賞したいわけです》234頁。
大江健三郎いわく《たとえば賞を貰って権威を得たらしい人について言いますとね、辻井喬という人は(58年度室生犀星賞受賞)良くないですね。これはどういうわけで詩人として高く評価されているのか》235頁。
田村隆一いわく《賞というのは、社会に対する詩のプロパガンダですからね。だからそれにちゃんとアッピールするものでないと、僕はまずいと思う。それはむしろ〈損得〉の問題です。辻さんのばあいは、僕はとてもじゃないけど損したと思う》236頁。
大江健三郎いわく《小林秀雄氏も、もし日本でかつてなかったほどほんとに偉大な批評家であるためには、詩集を一冊、ほんとにいい詩集を出したあとで批評活動をした人だったらよかったと思うんです》239頁。
田村隆一いわく《僕にとって小林さんは文字通り先生で、実際のところ、学校で『日本文化史』を教わってもいるし、とにかく決定的な影響を受け、且つ尊敬しているわけなんです。だけどただ、小林さんに例の中原中也を悼んだ詩があるでしょう、あれはひどいな(笑)》239頁。
大江健三郎いわく《吉岡実という詩人はいい詩人だし、僕の好きな詩人の一人ですけれど、しかし僕が散文作家として恐ろしいと思う詩人じゃない》242頁。
大江健三郎いわく《逆に恐ろしい詩人というとどういう詩人かというと、田村さんなんかそういう詩人だし、たとえば藤森安和という若い詩人の最初のものはそうでした》242頁。
大江健三郎いわく《いや、逆に飯島耕一という詩人は、よくないと思います》243頁。
大江健三郎いわく《あ、岩田宏です! あの詩人は傑出している》244頁。
大江健三郎いわく《エッセイストとしていちばんすぐれているのは大岡信ですね。あの人の『眼・ことば・ヨーロッパ』という本は、やはり戦後の日本人が書いたエッセイ中の最良の本のひとつといっていいくらいいいものです》244頁。
大江健三郎いわく《よくない詩人と言いますと、飯島耕一氏だけじゃなく寺山修司氏もよくないですね》244頁。
田村隆一いわく《そうだよ。だいたいどうして「現代詩手帖」があんなスペースとって毎月たとえば寺山修司の長篇叙事詩なんか載せているのか。それはロスっていうよりマイナスなんです。悪い影響をこれから詩を書く人たちに与える》246頁。
1965年くらいだと名指しではっきりものが云えた時代だったのだろう辛口の酷評も平気で雑誌に発表する田村隆一との対談で大江健三郎の目指す散文がどのようなものだったのかが少し理解できた気がするユーモアとパロディと良質な韻文を若い時から吸収して練り込んでいく技術を磨いていたに違いない。
『同時代ゲーム』第三の手紙の中に壊す人の動きとして印象深い描写がある《ヤマツツジの茂みに固められた地面を踏みつつ、地響きたてて助走すると、強引に跳躍するまではかつてと同じだが、次の瞬間、壊す人は、ドロノキの梢を摑んで一回転し、岩鼻に降りるのである》234頁と笑いを誘う動きである。
ドロノキの伝承はお気に入りで宮沢賢治『春と修羅』第二集でいえば《どろの木の下から いきなり水をけたてて 月光のなかへはねあがったので 狐かと思ったら 例の原始の水きねだった》(69)や《落葉はみんな落とした鳥の尾羽に見え おれはまさしくどろの木の葉のやうにふるへる》(171)を想起。
西日の光で『同時代ゲーム』第三の手紙の箇所の活字を目で追っていたらふと気がついた今月読んできた小説の諸世界は「戦」というキーワードで繋がっているのではないかと「いくさ」あるいは「たたかい」わたくしたちの周辺にはそう呼ばれる出来事が氾濫している全ては人間になるための「たたかい」だ。
《谷間での上演に際しては、とくにきみの双子の妹さんに、犬ほどのものに回復したという、壊す人を連れて見に来てもらいたい。亀井銘助もまた、壊す人があの変動の時期に再生した、そのひとつのあらわれではなかっただろうか!?》293頁と大江健三郎そして今日はわたくしの妹の誕生日でもあってバハッ!
「戦」つながりで手にとった阿部和重『ABC戦争』はわたくしが20代の頃バカバカしい話が真面目に語られるとこんなにも笑えるのかという体験を最初にさせてくれた思い出の小説また開いていきなり笑い転げる自分が嬉しい。
パロディとユーモアが満載の『ABC戦争』で笑い転げていると《ユーモアのセンスのある作家だったら、これは散文家としてもまず一流じゃないかと思う》という田村隆一の定義が思い出されそうか阿部和重さんは一流なんだと思いながらもやっぱりバカバカしい話なんだよ。
新潮文庫の『日本文学100年の名作第1巻 夢見る部屋』にも選ばれている谷崎潤一郎「小さな王国」を見ると《貝島昌吉がG県のM市の小学校へ転任したのは、今から二年ばかり前》と書き出されその後も《I温泉》や《T河》《A庭園》とあるため『ABC戦争』を先に読んでしまうとこういう箇所でニヤけちまう。
谷崎潤一郎の「小さな王国」が大正7年「中外」8月号に掲載された事と阿部和重『ABC戦争』が平成7年8月に講談社より刊行された事は出版社のねらいだったのであろうか両作品を読み比べながらアルファベットを発語するたびにニヤけるのも読書ならではのこと。
谷崎潤一郎「小さな王国」には小学生たちの戦争ごっこのシーンがあり阿部和重「ABC戦争」では不良高校生たちの抗争が語られているから「戦」というキーワードで繋がっていてだからアクションは小説の中でいつも「たたかい」として描かざるを得ないのかもしれない。
「小さな王国」の沼倉というガキ大将は転校生でありながらたちまちクラスメイト全員を支配下に置きそれだけでなく担任の教員よりも人望を得て小さな国家の指導者となっていくまるでカルト教団の教祖のように果たしてこの小説で谷崎潤一郎は何を描きたかったのか?
大正7年8月発表とのことで大正7年8月13日が旧暦で7月7日の七夕であることを想起しつつ谷崎潤一郎「小さな王国」で描かれた地方の教員生活や児童との関係性などを宮沢賢治の「風の又三郎」や「銀河鉄道の夜」に出てくる学校の様子と比較してみたくなった転校生とガキ大将の世界そのバリエーション。
沼倉という転校生のカリスマ性を考えることは大正時代と昭和時代そして平成時代ではそれぞれ違った印象を持つだろうと予想できるそれは第二次世界大戦後の独裁者に対するイメージそして平成の新興宗教教祖のイメージが関わってくるから尚『ABC戦争』は地下鉄サリン事件のあった1995年の発表作品だ。
谷崎潤一郎が「小さな王国」で描いた沼倉という児童は確かに類を見ない指導力を発揮する恐るべき子どもであるがそれはそれだけの話でその人間を通して何か特別な権力の構造を解き明かそうとするテーマなどはなかったように思うしそれを独裁者やカルト宗教の教祖と関連させる必要もないように思う。
しかし『同時代ゲーム』を並行して読んでいる今わたくし個人の脈絡の中にこの沼倉を置くとたちまち違った様相をあらわすそれは「壊す人」のカリスマ性に通じるし地方の山の中で起こる事件とも繋がるしなにより「戦」というアクションとは切り離せないから『ABC戦争』もまたその線上にあると感じる。
大正7年の作家(谷崎潤一郎)が意識できなかった問題を平成7年の作家(阿部和重)が意識できたのはその間に第二次世界大戦と地下鉄サリン事件が挟まれているからであろうし大江健三郎という作家の存在もまた大きく影響しているからだと思って『ABC戦争』を再読している令和5年なのである。
昭和の文芸作品の原形を大正の文芸作品に求めたりあるいはその応用を平成の文芸作品に見出したりする乱読の愉しみの渦中で『同時代ゲーム』第四の手紙を読み出したところだ今朝も公園の鉄棒でわたくしはけんすいを45回やってバナナを齧り牛乳を飲む。
「父=神主」の息子の一人が『同時代ゲーム』という小説の話者であるが「小さな王国」の主人公貝島昌吉もまた「父=神主」の原形の一つなのではないかと思えてきた東京からG県M市のD小学校に転任した教師でこども七人そして病気の妻と老母と暮らす長男啓太郎はあの怪物沼倉と同級生だ。
帯状疱疹は少しおさまってきたが痛みが肛門や尿道にまであって50年ぶりに活性化した水疱瘡ウイルスの破壊力を思い知る身体の不思議と文学の中で蘇生を繰り返すテーマやキャラクターのことを同時に考えざるを得ない沼倉はやはり「壊す人」の変異株に見える時間的には逆なのだけれど。
「小さな王国」の沼倉少年をどこにでもいるガキ大将とするかそれとももっと得体のしれない怪物少年とするか解釈に迷っている独自の紙幣を刷ってマーケットまで管理してしまう少年だそれでもう少し周辺を調べてみよう例えば江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」。
《絶対に発見されない犯罪というものは不可能でしょうか。僕はずいぶん可能性があると思うのですがね。たとえば、谷崎潤一郎の『途上』ですね。ああした犯罪はまず発見されることはありませんよ》と明智小五郎に語らせている江戸川乱歩がいる「D坂」と表記している点にも谷崎潤一郎への敬意を感じる。
脱線ついでにアルファベットとミステリーの関係と云えばエラリー・クイーンの『Xの悲劇』『Yの悲劇』『Zの悲劇』やアガサ・クリスティー『ABC殺人事件』があるが面白い事にこれらの翻訳を「荒地」の詩人たちがやっている。
田村隆一との対談で大江健三郎さんが高く評価した堀田善衛が『ABC殺人事件』を訳し鮎川信夫が『Zの悲劇』を訳し『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?』を田村隆一が訳しているといった具合だ荒地の詩人たちもこういう仕事で食い繋いでいたのだろう巡って『ABC戦争』と『ABC殺人事件』がそろった。
現代詩は読まれないが推理小説は読まれる現代詩を書いても仕事にならないが推理小説を翻訳すれば収入になるだから小説は推理小説の手法を取り込んでいかないと読者を得られない谷崎潤一郎がその起点にいて巡り巡って現代の小説群が産み出され続けている? ミステリー読まないから知らんけど。
そう考えると大江健三郎さんの挑戦はやはり独特だ現代詩を取り込んで良質な散文を目指していた《露巳、露己。そしてそれは単なる偶然ではなかった。村=国家=小宇宙が、大日本帝国との全面戦争を五十日間にわたって戦い、緒戦には勝利をかちえたがついには惨敗して》『同時代ゲーム』295頁などの文!
入沢康夫『詩の構造についての覚え書』には《詩の構成にあたって、素材として処理される単位は、実は必ずしも一つ一つの単語である必要はなく、時には、その日常的秩序における連らなりである〈文〉、あるいはその集合である〈節〉でさえあることが考えられる》15頁と。
多くの人は詩というものは単語で構成されるものとばかり思い込んでいるふしがあるこの偏見を打ち破ると作品鑑賞の幅はぐんとひろがるわざわざ散文詩という呼び名を考えずに済む大江健三郎さんの小説は節どころか章を素材とした詩作品であると考えても良いそう思うと長文が全く気にならなくなる。
『同時代ゲーム』第四の手紙の中で云えば5章の「犬曳き屋」のエピソードだけを切り抜いてもそれが立派な擬物語詩となっているとわたくしは思うページで云えば文庫の368頁から373頁詩としては長すぎると思われるかもしれぬが節の単位で構成された詩であると考えればこの長さがちょうど良いと思える。
「犬曳き屋」のエピソードを少し抜粋する。
《この日の夕暮、山狩り式の攻撃の進行方向から逃れていた非戦闘員たちが、もとの露営地へ戻って行こうとしていた時、早くも「犬曳き屋」の亡霊が、その家族と犬の脇にあらわれたのである》370頁。
《「犬曳き屋」に酷使されてつねに疲労困憊し、曳き帯を外されるとすぐさま横倒しになるほどだった犬が、赤黒い木漏れ陽が煙のようにただようあたりを見つめて、愛慕と悲哀に耐えぬふうに吠えた》370頁。
《テントと炊事道具の重さにうつむいて歩いていた「犬曳き屋」の女房と、幼い子供らが眼をあげると、巨木の蔭の貧しい下草のなかに「犬曳き屋」がしょんぼりと佇んでいた》370頁。
《光源の弱い幻燈のように、鳥撃ち帽にニッカーポッカー、それに自転車のペダルを踏みやすいように工夫した皮靴が地面になじまぬまま、および腰で「犬曳き屋」は立っていたという》370頁。
《そこで「犬曳き屋」の魂は、自分が死んだことを知らぬ家族と犬とが、帰りを待ちつづけるのを不憫に思い、自分は死んだ、待ってもむだなことだと示したいのにちがいない。また家族から死者として自分を祀ってもらいたい心もあろう》371頁。
入沢康夫さんは『詩の構造についての覚え書』の中で擬物語詩の特質を6つあげている。
《(a)作品が一見、ある事件の推移を一貫して叙述しているかに見えること(持続性・一貫性・展開性)》23頁。
《(b)その事件とは、外見は現実的であっても、あくまで想像的な事件であって、その意味で非現実的事件である(非現実性・仮構性)》24頁。
《(c)しかも作者は、その事件を伝えることを真の目的としてはいない(非目的性・媒介性)》24頁。
《(d)リライトや語りかえの操作を受け入れず、その意味で普通の叙述や寓話と異る(擬叙述性)》24頁。
《(e)「事件」と「叙述」の関係は、全く相互依存的であって、後者によって前者が規制され、変質することも十分あり得る。この点でも現実の事件の報道・伝達とは異なっている(非再現性)》24頁。
《(f)ぼくたちの現実関係の持続性・展開性・一貫性を保証するのは、ぼくたち自身の意識だが、擬物語的関係界でそれらを保証するのは、仮構の語り手であり、作者はその語り手と非現実的(想像的)関係を保ちながらも、その世界での主導権をその仮構の語り手(それは複数の場合もあり得る)に委ねている(自己超越性・自由性・不安定性)》24頁。
大江健三郎さんが『詩の構造についての覚え書』を読んでいたかどうかは知らないが擬物語詩の6つの特質がことごとく『同時代ゲーム』の記述内容と一致するところを見ればもうそれで十分だろう「妹よ」と繰り返しながら神話と歴史を語る語り手に引きずられるようにして作者は長文に手を入れていく。
大江健三郎さんが田村隆一と対談した1965年に入沢康夫さんは『詩集 季節についての試論』を出しているその中に「われらの旅─イーヴ・某に」という作品がある参考までに抜粋すれば。
《イーヴよ きみのしたあの奇妙な旅のことならば ぼくにもぼくなりに判つているという気がする イーヴよ きみの旅路を だからこそ ぼくは自分の流儀で辿り直してみることもできるのだ むろんここでは 人称法は必然的にその無力を露呈してしまうのだが》
《イーヴよ いのちのさい果てに立つあの不吉な門をきみがくぐつた日には 空の深い深いあたりで弓の弦をはじくような音がしきりにしていた》
《失われた楽園 くだけた夢 奪われた愛を ふたたびとり戻そうと願うかぎり 誰しもまず あの乳色の大きな河に沿つて いらくさの中の道を急がねばならないのだ 西陽の光を重い楽器のように肩に背負つて…… 道は崖に沿い 次には台地を横切つてたよりなく続いている》
例えば入沢康夫さんの詩句をこっそり『同時代ゲーム』の中に潜り込ませたら読者はそれに気がつくであろうか? そんな実験をしたくなるほど言い回しは似ているとわたくしは思うこれは構造の共通性がなせるわざだ。
ありもしない戦争をでっちあげてそれをあたかも現実にあったかのように語り続ける作者の心理それを入沢康夫さんは《(c)しかも作者は、その事件を伝えることを真の目的としてはいない(非目的性・媒介性)》と云っている何を語るかよりどのように語るかが重要で詩として成り立っているかどうかだ。
『同時代ゲーム』第六の手紙を読み終えまたすぐ全部を読み直したくなったので第一の手紙を読んでいたら話がちゃんと循環していることが分かった6月の乱読とても得るものが多かった締めは古井由吉さん『辻』文庫の付録に大江健三郎さんとの対談があるからこれにした。
小説家として知られている古井由吉さんと大江健三郎さんがなんの話をしているかと云えば詩の話である随所に至言が散りばめられていてドキドキが止まらなかったので少し抜粋しよう新潮文庫『辻』の321頁から366頁に収録された「新潮」2010年1月号掲載の対談。
古井由吉いわく《外国文学研究者になって十年目にもなると、「これだけやっても自分には外国語が読めない」と絶望する時期があります。とくに絶望を誘うのが詩なんですね》322頁。
大江健三郎いわく《私はボードレールを阿部良雄氏の研究を頼りにして三年ほど読みました。そして今、もう少しで『水死』という自分の、終わりの仕事に近いものが完成するのですが、終わって晩年の時間が残っていたらマラルメを読もうと思っていました》324頁。
古井由吉いわく《ボードレールやマラルメに関してですが、これに初めて取り組んだのは還暦の手前なんですよ》327頁。
古井由吉いわく《マラルメを読んでも、最初はどう読めばいいのかわからなかった。それが、明快と混沌が表裏だということをつかみだしたら、なんとか読めるようになったので、面白くなって、一、二年の間読んでいました》327頁。
大江健三郎いわく《自分にとってあと五年間ぐらいしか本をちゃんと読める時間がないとしたら、残り時間で読むべきものは詩なのではないかと考えました》329頁。
古井由吉いわく《人は老年と老耄と一緒にするようだけど、老年の明晰さってあるんですよ。病、老、死という必然の縛りの中から見るので、その分だけ明晰になる。それが人には成熟と言われますけど、その明晰さは混沌と紙一重の境なんです》330頁。
