「普通の人に、知識なんて必要ないでしょう」 ―物語に描かれる知の民主化| クロス考察:チ。 ―地球の運動について―✖️葬送のフリーレン
アニメ『チ。 ―地球の運動について―』と『葬送のフリーレン』には、いくつもの共通のテーマがあると思う。
もちろんこの2つの作品は、一つは一部史実をもとにしたフィクション、一つはファンタジーという全く異なる物語で、
設定やストーリーのテンポ、作品が醸し出す雰囲気に至るまで似ても似つかぬ2作品、とも言えるかもしれない。
一方で、人間の「知」に対する渇望や追求、「歴史」が担う重要性、人間が「信仰」を持つ意味についてなど、その構成要素には共通点も多いのだ。
私は今回、その中の一つである「知」の追求とその民主化について、取り上げたい。
両作品に通底して描かれているのは、「知をすべての人に開き、未来へつないでいく」という民主的な思想だと私は考えている。
これが、それぞれの作品における一つの大きなテーマになっていると捉え、『チ。 ―地球の運動について―』と『葬送のフリーレン』のクロス考察をしてみたいと思う。
この解釈はあくまで筆者の個人的なものであり、その捉え方が正しいかどうかを問題にする意図はないことを、あらかじめお断りしておきたい。
また、このコラムを書いている時点(2026年4月)では、私は両作品ともアニメしか見ておらず、『葬送のフリーレン』は、シーズン1までしか見ていないことも付記しておきたい。
あらすじ
『チ。 ―地球の運動について―』
中世ヨーロッパを思わせる世界で、新たに地動説を研究し、宇宙を解明していこうとする人々の物語。教会の権威が絶対的な社会の中で、地動説は危険思想とされ、研究する者は弾圧される。そうした状況の中でも、人々は「真理を知りたい」という欲望に突き動かされ、研究や観測の成果を密かに受け渡しながら、「知」を次の世代へとつないでいく。
『葬送のフリーレン』
「魔王を倒した勇者一行」の旅の終わりから始まる、魔法使いフリーレンの旅の物語。人間よりはるかに長く生きるエルフである彼女は、かつての仲間の死をきっかけに、人間を知るための旅へと出る。物語の中で描かれる魔法は、魔族と戦うための力であると同時に、長い年月をかけて体系化されてきた「知」の集積でもある。そしてその知は、フリーレンの師であるフランメの理念によって人類の中で研究・共有され、受け継がれていく。
「知」をめぐる専制的 vs 民主的な思想の対比
あらすじを踏まえた上で、両作品を俯瞰して見てみたい。
『チ。 ―地球の運動について―』と『葬送のフリーレン』は、舞台もジャンルも異なるが、共通して「知をすべての人に開き、未来へつないでいく」という「知の民主化」をひとつのテーマにしている、と冒頭に書いた。
このテーマは、それと対照をなす専制的な思想を持つ人物たちの存在によって、より鮮明に浮かび上がる。
そこで本記事では、「知」をめぐる専制的・民主的な思想の対比に着目し、それぞれを象徴する人物たちを取り上げながら、クロス考察を進めていきたい。
専制的な思想の象徴:バデーニ(『チ。』)と、ゼーリエ(『葬送のフリーレン』)
「専制的な思想」とは、つまり何だろう。
一歩下がって、考えてみたい。
簡単に言うと、「一部の選ばれし者たちが知識を独占して物事を決定し、残りの人間たちはそれに従うべき」という考え方だと理解している。
「知」を集中させることができ、一見効率的に見えるが、欠点も多い。
もっとも大きな欠点のひとつは、知識や発言のチャンスが一部の人に偏りやすく閉鎖的になりがちなことだろう。
新しい意見が出にくくなったり思考停止に陥ったり、誤りを見つけにくくなる、といったことが起きる。
そのため近代的な価値観では、専制的な社会では科学技術や文明、イノベーションが育ちにくくなる、と言われることが多い。
『チ。 ―地球の運動について―』と『葬送のフリーレン』の双方に、こうした専制的な思想を体現する人物が登場する。
『チ。 ―地球の運動について―』に出てくる修道士バデーニと、『葬送のフリーレン』の大魔法使いゼーリエだ。
まったく異なる2つの物語の中で、彼らの発言には共通する思想が見て取れる。
バデーニ「普通の人に、知識なんて必要ないでしょう」
修道士であるバデーニは、神職に就く身でありながらも異端である地動説に深くのめり込み、独自に研究を進める。
彼が研究を進めたい動機は功名心だが、純粋な好奇心や知識欲が彼を突き動かしていることもまた、事実だろう。
このバデーニの研究を、補佐役のように支えるのが一般市民のオクジーだ。
オクジーは、当時の社会において「身分が低く学もない」人物として描かれる。
そんなオクジーが、ひょんなことからバデーニと共に地動説の研究に関わるようになるのだ。
そして彼もまた、地動説に強く惹かれていく。
オクジーはやがて文字にも興味を持ち、「知」を求めるようになる。
研究の過程で知り合った天文研究助手のヨレンタから、オクジーは文字を習い始める。
「地動説について知った感動を形に残したい」という思いで、本を書き始めるのだ。
第10話『知』で、このことを知ったバデーニは呆れた様子で、オクジーに向かってこう言う。
おいおい、何をしているんだヨレンタさんは。
君のような身分の者に、文字を教えるなんて。
君はわかってないようだがな。
大半の人間が読み書きできないのは、いいことなんだよ。
ひどい言い方のようだが、時代は中世のヨーロッパだ。
このような考え方は、一般的だったのだろう。
悪びれもせず、バデーニは続ける。
文字を扱うことは、特殊な技能であると。
言葉を残すのは重い行為で、一定の資質と、最低限の教養がいるのだと。
そして彼は、以下のように結ぶ。
誰もが簡単に文字を使えたら、
ゴミのような情報で溢れかえってしまう。
そんな世の中、目も当てられん。
また第10話では、バデーニは別の場面でも同様の発言を繰り返している。
教会のとある場面で、同僚であるクラボフスキはバデーニに「ルクレティウスの詩を読んだことがあるのなら、一節でいいから教えてほしい」と頼む。
それに対してバデーニは、以下のように返すのだ。
お断りします。
あのね、私は前提として、知識の共有に興味はない。
というか、嫌いだ。
並の人間が欲すると、悲劇を招きかねない。
そもそも、それを扱う能力を持ち合わせていない普通の人に、知識なんて必要ないでしょう。
繰り返し出てくるバデーニのこういった発言は、彼の専制的な思想を強く印象づけるものとなっている。
ゼーリエ「才ある者以外に教えるつもりはない」
『葬送のフリーレン』の中でバデーニのように専制的な思想を持ち、似たような発言を繰り返すのが、大魔法使いゼーリエだ。
S1E25『致命的な隙』の回想シーンでは、フランメの死後、彼女の遺言状を持ったフリーレンがゼーリエのもとを訪れる。
この遺言状には、フランメの働きかけによって、国が人間の魔法研究を認可した旨が記されていた。
フランメは、「人類の誰もが魔法を使える時代」を目指していた。
この遺言状を読んだゼーリエは、「それは私の望むところではない」と言い放ち、遺言状を破り捨てる。
そして、以下のように続けるのだ。
誰もが魔法を使える時代だと?
魔法は特別であるべきだ。
才ある者以外に教えるつもりはない。
バデーニが「知」を一般の人に開くことを嫌うように、ゼーリエもまた、魔法という「知」の集積が、民主化されることを嫌っている。
民主的な思想の象徴:オクジー(『チ。』)とフリーレン(『葬送のフリーレン』)
次に、専制的な思想とは対照的な民主的な思想について見ていこう。
「民主的な思想」とは、つまり何か。
これについても、あらためて考えてみる。
簡単に言うと、「知を一部に閉じ込めずオープンにし、新しい発見を生まれやすくする方が良い」という思想だろう。
知を開くだけではなく失敗も隠さず共有することにより、対応・改善が早くできる。
挑戦も奨励されるため、科学や技術の発展にもつながるとされている。
この思想を物語の中で体現している2人として、『チ。 ―地球の運動について―』からはオクジーを、『葬送のフリーレン』からはフリーレンを取り上げ、クロス考察してみたい。
場面や文脈は異なるものの、そこには共通したメッセージが込められているように思うのだ。
オクジー「周りを排除しすぎると、間違いに気づきにくくなるのでは?」
教育を受けておらず文字も読めなかったオクジーは、地動説に触れ、知識人であるバデーニやヨレンタと知り合うことで、急速に「知」を獲得していく。
その中で、彼なりの視点から見えてくるのが、研究を進める上で「自分の誤りを人に指摘してもらう」ことの重要性だ。
バデーニとオクジーが地動説の研究に関わっていることが異端審問官に知られた際、バデーニは、関連資料をすべて燃やそうとする。
彼には、後続の人々に知をつないだり、共有する気はないからだ。
バデーニはあくまで自身の立身のために研究しており、他の人間に手柄を渡す気はなかった。
そのバデーニの様子を見て、オクジーが以下のように言う。
あまり周りを排除しすぎると、間違いに気づきにくくなるのでは?
それは研究にとって良くないんじゃ……。
天文学の資料をバデーニたちに共有したピャスト伯の名を挙げ、彼がひとりで知識を独占し、ゆえに誤った前提を妄信したまま研究に一生を捧げてしまったことに言及した。
バデーニたちが、自説が間違っている可能性を一切受け入れず他の人の目を排除して突き進むのだとしたら、
「オレたちとピャスト伯には、どれほどの差があるんでしょうか」
と、オクジーは問うのだ。
さらにオクジーは、こう続ける。
自らが間違っている可能性を肯定する姿勢こそが、学術とか研究には大切なんじゃないかってことです。
第三者による反論が許されないなら、それは、信仰だ。
このオクジーの発言は、かなり直接的に「知の民主化」というテーマに言及している。
天文学という「知」を、ずっとひとりで抱え込んでいたピャスト伯は、最後にその「知」をバデーニとオクジーに開いた。
開かれた「知」を用いて、バデーニは研究を進めることができた。
ここにすでに、「知の民主化」の萌芽がある。
そのことに、オクジーは言及しているのだ。
さらにこの後の物語では、オクジーの残した文章は後の時代に伝わり、別の時代の人間の心を動かす。
非常に、示唆深い構成だ。
フリーレン「魔法は、自由であるべきだ」
「人類の魔法の開祖」とも呼ばれる大魔法使いフランメを師に持ったフリーレンは、フランメの民主的な思想を次世代へつないでいる人物だ。
その象徴的な例として挙げることができるのが、ゼーリエが張った魔力の結界をフリーレンが内部から破壊する、S1E21『魔法の世界』のワンシーンだ。
S1E18から始まる一級魔法使いの選抜試験の一次試験で、ゼーリエは受験者が外界に出られないようにするため、試験会場に強力な結界を張った。
文字通り受験者たちの身体的な自由を奪い、使える魔法にも制限をかけたのだ。
ゼーリエの専制的かつ支配的な思想を、物理的に表現しているとも言えるだろう。
この結界をフリーレンは解析し、破壊する。
中に閉じ込められた魔法使いたちの自由を、解放するのだ。
この場面は、ゼーリエの専制的な思想をフリーレンの民主的な思想が打ち破る、ということが象徴されているように思う。
この時にフリーレンが放つ言葉が、以下だ。
魔法は、自由であるべきだ。
このフリーレンのセリフは、上述したゼーリエの「魔法は、特別であるべきだ」(S1E25『致命的な隙』)というセリフと、完璧な対になっている。
印象的な場面の積み重ねによって、専制的なゼーリエの思想と民主的なフリーレンの思想を対比させる構造になっているのだ。
またS1E25『致命的な隙』には、こんな回想シーンがある。
ゼーリエは、幼かった頃のフランメについて、懐かしそうに話をする。
フランメはかつて、心から魔法が好きだったこと。
そんな魔法を、世界中の人が使えるようになってほしいと、本気で願っていたこと。
そして実際にフランメは、人類が魔法を自由に研究できる道を切り開いたこと。
この話をした後、ゼーリエはフリーレンに向かってこう語りかける。
フリーレン。
人間がおよそ文明と呼べるものを築き上げてから、長い年月が経った。
これから先は、時代が加速するぞ。
この「これから先は、時代が加速する」というゼーリエのセリフと前後のつながりについて、直接的な示唆はない。
しかし私は、ゼーリエ自身が魔法という知の集積が民主化されたことによる文明発展の加速を予見し、フリーレンに伝えていると解釈した。
そしてそんなゼーリエに、フリーレンは笑顔で、こう返すのだ。
楽しみだね、ゼーリエ。
これから先、たくさんの魔法使いと色々な魔法が見られるんだね。
「知の民主化」によって学問や研究は進み、文明は発展していく。
『チ。 ―地球の運動について―』とは異なる角度からの描写だが、ここでも私は、同じメッセージを受け取った。
【まとめ】ふたつの物語が示唆すること
『チ。 ―地球の運動について―』と『葬送のフリーレン』という2つの物語を、「知の民主化」というテーマをにクロス考察することは、無謀だろうか?
と、迷いながら書き始めた。
しかし書き進めていく中で、このテーマは確かに2つの作品に通底しているという思いを新たにし、その輪郭もよりはっきりと見えてきた。
『チ。 ―地球の運動について―』のバデーニは、最終的にオクジーの書いた文章に影響を受け、オクジーの文章こそが未来に感動を伝えてくれると信じるに至る。
そしてバデーニは、オクジーの文章を記録に残すための行動に出る。
この思想の変化や物語の展開からは、専制から民主へと揺れ動く価値観の転換が垣間見える。
フリーレンの世界では、今後どのように物語が進むのだろう。
ゼーリエとフリーレンの思想はどう共存し、ときに対立しながら影響を与え合っていくのか。
その行方を見届けるのが、楽しみだ。
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