【このままでいいはずなのに】第一話 何も困っていないのに
「何か困っていることはありますか?」
そう聞かれたら、美和子はたぶん、
「特には…」と答える。
五十代半ば。結婚して二十数年になる。
子どもたちは大きくなり、もう手はかからない。
仕事はずっと続けている。
華やかな仕事ではないけれど、それなりに責任もある。
職場では、「美和子さんがいると安心する」と言われる。
頼まれれば、だいたい引き受ける。
誰かが休めば代わりに出る。
新人が困っていれば声をかける。
たぶん、美和子は「いい人」なのだと思う。
給料も、そこそこもらっている。
冷蔵庫が壊れたからといって、
明日のご飯に困るわけでもない。
年に何度か友達とランチに行くし、
たまには少し高い服も買う。
夫とは大きな喧嘩もしない。
三つ年下の夫も、会社員として働いている。
傍から見れば、安定した暮らしなのだと思う。
美和子自身もそう思っていた。
その日は土曜日だった。
洗濯機を回して、掃除機をかけて、
冷蔵庫に残っていた野菜で昼ごはんを作った。
夫はテレビを見ながらスマホを触っている。
「ねえ」
「ん?」
「定年になったら、どうする?」
夫はスマホから顔を上げなかった。
「何が?」
「何がって……仕事辞めたあと」
「まあ、そのとき考えればいいんじゃない?」
「そうだね」
美和子は、それ以上聞かなかった。
仲が悪いわけではない。嫌いでもない。
たぶん夫も、美和子を嫌いではない。
ただ、同じ船に乗っているはずなのに、
二人が同じ港へ向かっているのか、
美和子にはよくわからなかった。
洗濯物を干し終わって部屋に戻ると、
テーブルの上に郵便物が置いてあった。
その中に、年金についてのお知らせがあった。
なんとなく開いた。数字を見た。
もう一度見た。
「……これだけ?」
思わず声が出た。
家は賃貸マンションだ。これから先も家賃はかかる。
物価だって上がるだろう。
病気をするかもしれない。
いつまで働けるのだろう。
子どものいない夫婦だから、頼れる人もいない。
急に胸の奥がざわざわした。
スマホを開き「老後 必要なお金」と検索すると、
いろいろな数字が出てきた。
二千万円。三千万円。
いや、そんなに必要ないという記事もある。
投資。副業。資格。老後も働く。
五十代から始める資産形成。
ひとつ読む。別の記事を読む。また検索する。
読めば読むほど、何をしたらいいのかわからなくなった。
美和子はスマホを伏せた。
台所では、冷蔵庫がブーンと鳴っていた。
「私、どうするんだろう」
誰に聞かせるでもなく、つぶやいた。
でも、お金だけの話ではないような気がした。
これまでの人生には、いつも「次にやること」があった。
学校を出る。就職する。結婚する。
子どもを育てる。働く。
大変だったけれど、
次に進む方向は、だいたい見えていた。
ところが、その道が急に途中で消えている。
六十歳の私。六十五歳の私。七十歳の私。
どこにいるんだろう。
何をしているんだろう。
誰と笑っているんだろう。
考えてみようとした。
けれど、何も浮かばなかった。
夕方になって、夫が言った。
「今日、晩ごはん何?」
「生姜焼き」
美和子はいつものように答えた。
キャベツを刻み、味噌汁を作った。
夫とテレビを見ながら夕食を食べた。
何事もない一日だった。
その夜、布団に入って目を閉じたとき、
昼間に自分がつぶやいた言葉だけが、
もう一度戻ってきた。
「私、どうするんだろう」
本当はなにかもっと別の問いが、
ずっと自分の中で眠っていることを、
美和子はまだ知らなかった。
——つづく。
