「このままでいいはずなのに。」第二話 黄色い花を一輪だけ
翌週、美和子は久しぶりに友人の由紀とランチをした。
子どもが小学生だった頃からの付き合いだ。
「ねえ、老後って考えてる?」
サラダを食べながら、美和子が聞いた。
「なに突然」
由紀が笑った。
「この間、年金のやつ見ちゃって」
「ああ。見ないほうが幸せなやつね」
二人で笑った。
少し安心した。みんな同じなんだ。
ところが由紀は、食後のコーヒーを飲みながら言った。
「私ね、六十になったら仕事、週三日にするつもり」
「え?」
「収入は減るけどね。旅行もしたいし、
陶芸もやってみたいし」
「陶芸?」
「うん。昔からやってみたかったの」
美和子は驚いた。
由紀が陶芸をしたかったなんて、初めて聞いた。
「美和子は?」
「何が?」
「何かやりたいことないの?」
来た。
美和子は、この質問が苦手だった。
「うーん。別にないかな」
「旅行とか?」
「まあ、行けたらね」
「習い事は?」
「今さらいいよ」
「じゃあ仕事辞めたら、何するの?」
「だから、それがわかんないのよ」
少し強い言い方になった。
由紀は「あ、ごめん」と笑った。
帰りの電車で、美和子は窓に映る自分を見た。
何がしたい?
どうして、こんな簡単な質問に答えられないんだろう。
若い頃には、何かあったはずだ。
でも思い出そうとすると、別の言葉がすぐにやってくる。
そんなことして何になるの。
お金になるの?
今さら?
才能あるの?
老後のために貯めたほうがいいんじゃない?
もう少し現実的に考えたほうがいい。
誰かに言われたわけではない。
全部、自分の頭の中の声だった。
家に帰る途中、商店街の小さな花屋の前で足が止まった。
黄色い花が並んでいた。名前は知らない。
きれいだな、と思った。
買おうかな。
そう思った直後だった。
家に花瓶あったっけ。
どうせ枯れるし。
今月ちょっと使いすぎてるし。
結局、買わなかった。
しかし、十歩くらい歩いてから、美和子は立ち止まった。
そして振り返った。
黄色い花は、まだそこにあった。風に揺れていた。
たった数百円の花だった。
欲しい。
最初に出てきたのは、ただ、それだけだった。
なのに、そのあとから、
いくつもの言葉が追いかけてきて
最初の「欲しい」を消してしまったのだ。
その瞬間、美和子は妙なことに気づいた。
もしかしたら私、
ずっとこうやって生きてきたのかもしれない。
何かを感じる。その直後に、考える。
考えて、考えて、間違いのない答えを選ぼうとする。
子どものため。家族のため。
仕事のため。将来のため。
人に迷惑をかけないため。
そうやって選んできたものは、
たぶん間違ってはいなかった。
でも。
一番最初に浮かんだものは、
いったい、どこへ行ったんだろう。
美和子は来た道を戻り、花屋の前に立った。
「これ、一本ください」
店員が黄色い花を薄い紙で包んでくれた。
美和子は花を持ち、家まで歩いた。
何かが変わったわけではない。
老後のお金は増えていない。
仕事も変わっていない。
夫との関係も変わらない。
それでも、歩くたびに
黄色い花が少し揺れるのを見ていると、
少しだけうれしい気持ちになった。
家に着いてから、美和子は戸棚の奥を探したが、
花瓶はなかった。
仕方がないので、
冷蔵庫に入っていたジャムの空き瓶を洗った。
そこに黄色い花を一本挿してみる。
そして少し離れて眺めてみた。
悪くない。
むしろ、いい。
美和子は、少し笑った。
——つづく。
