「このままでいいはずなのに。」第三話 海が見たい
黄色い花は、一週間ほど咲いていた。
美和子は毎朝、水を替えた。
ジャムの空き瓶に挿しただけなのに、
花が一本あるだけで台所の景色が少し変わった。
その朝も、出勤前に水を替えていた。
花びらの端が少し茶色くなっている。
そろそろ終わりかなと思ったとき、
ふいに、先日の由紀の言葉を思い出した。
「美和子は? 何かやりたいことないの?」
あのときは何も答えられなかった。
美和子は花を見ながら、もう一度自分に聞いてみた。
何がしたい?
やっぱり何も浮かばない。
旅行? 習い事? 新しい仕事?
考え始めると、またわからなくなる。
美和子は水の入った瓶を窓辺に戻した。
そのときだった。
海が見たい…
どこかから聞こえたような気がした。
なぜ海なのか、自分でもわからなかった。
旅行へ行きたいわけでもない。泳ぎたいわけでもない。
ただ、海が見たいと思った。
日曜日、美和子はいつも通りに起きて洗濯をした。
夫はまだ寝ていた。
洗濯物を干し終わる頃になってやっと起きてきて、
冷蔵庫を開けながら言った。
「今日、どっか行くの?」
美和子が着替えていたからだろう。
「うん」
「どこ?」
「海」
夫が冷蔵庫の扉を開けたまま、美和子を見た。
「海?」
「うん」
「誰と?」
「一人」
「へえ…」
夫は牛乳を取り出した。
「何しに行くの?」
「海が見たいの」
「ふうん、それだけ?」
それで会話は終わった。
美和子は少しおかしくなった。
そうだ。海なんて、
別に何かをしに行かなくてもいいのだ。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
電車に乗った。
日曜日の車内には、
小さなリュックを背負った家族連れがいた。
部活へ向かうらしい高校生がいた。
向かいの席では、年配の女性が
口を少し開けて眠っていた。
窓の外を住宅やマンションが流れていく。
用事もないのに、一人で電車に乗るのはいつ以来だろう。
海に着いた。
思っていたよりも風が強かった。
髪が顔にかかる。
空は曇っていて、海も灰色だった。
美和子は少し笑った。
もっと青い海を想像していたからだ。
砂浜を歩き、
持ってきたビニールシートを敷いて座った。
波が来ては、引いていく。
また来て、また引いていく。
しばらくぼんやりと見ていた。
家のことを考えた。年金のことも考えた。
仕事をいつまで続けるのか。
夫とこの先どんなふうに暮らしていくのか。
結局、何ひとつ答えは出なかった。
家は賃貸のままだし、年金が増えたわけでもない。
明日になれば、また仕事へ行く。
それでも今日は、自分でここへ来た。
海が見たいと思ったから、海を見に来た。
それだけだった。
帰ろうと立ち上がり、駅へ向かう。
途中に小さな喫茶店があった。
古い木の扉に、小さな黒板が立てかけてある。
「本日のケーキ レモンチーズケーキ」
と丸文字で書いてある。
美和子は足を止めた。
おいしそう。
でも、家に帰ればコーヒーはあるし…。
そこまで考えて、美和子は笑った。
また始まった。
私って、ホントに…。
扉を開けるとカランカラン、とベルが鳴った。
「いらっしゃいませ。」
窓際の席が空いていた。
そこから海が少し見えた。
店員が水の入った小さなグラスを持ってきた。
「コーヒーをお願いします」
「はい」
店員が行きかけた。
「あ、すみません」
「はい?」
美和子はメニューをもう一度見た。
「レモンチーズケーキもお願いします」
「かしこまりました」
運ばれてきたケーキは、思っていたより小さかった。
これなら二個は食べられそうだ。
ひとくち食べてみる。
チーズのコクとレモンのさわやかな風味が、
口いっぱいに広がった。
それは思っていたより濃厚で、
一つでも十分に満足できそうだった。
コーヒーをひと口飲んで、窓の外を見ると、
相変わらず海は灰色だった。
でも、朝から何度も見ているうちに、
この色も悪くないと思えてきた。
青くなくても、海は海だ。
美和子はまたコーヒーを飲んだ。
これからどう生きていくのかは、相変わらずわからない。
六十歳の自分も、六十五歳の自分も、まだ見えなかった。
でも今朝より少しだけ、自分のことを知っている。
私は海が見たかった。
レモンチーズケーキも食べたかった。
それくらいなら、わかる。
今は、それでいいような気がした。
店を出る頃には、
雲の切れ間から少しだけ日が差してきていた。
美和子は店を出て、歩き出した。
途中でスマホが鳴った。
夫からのLINEだった。
『帰り何時ごろ?』
美和子は少し考えて、返信した。
『まだわからない』
いつもの美和子なら、電車の時間を調べて
「○時○分くらい」と返していたかもしれない。
今日は、まだ決めていなかった。
スマホをバッグにしまった。
美和子はもう少しだけ海沿いを歩くことにした。
* * *
この物語には、少しだけ後日談があります。
あの日、海から帰った美和子は、
そのあと、少し変わった「問い」に出会います。
よろしかったら、最終話もご覧ください。
